2012-08-09 Thu [ 日記 ]
1年半ぐらい前、一度adsenseを入れたのだけど、1ヶ月ほどで止めた理由。
止めた理由は2つある。
その1が、やっぱり広告はデザインを壊すってこと。
自分のデザインが美しいとは思わないけれど、広告が入ると「エー」な気はする。しかもクリックされるとお金が入るのだから、面白くていろいろやってしまった。これじゃ本末転倒だ。
次の理由は、これがメインなのだけど、サイトの運営費のアテ程度になればいいと思って配置したadsenseだったが、実は結構クリックされていた。不思議に思うほどクリックされていて「これ、ケッコー小遣いになるじゃん!」とビックリしていたわけだ。
そしたら、googleから不正の可能性があると警告されて「え?」。
いろいろ考えて得られた結論は「(多分1人の)ファンの人がクリックしてくれたのではなかろうか?」ということだった。自分の知っているクリック率からすると、結構なクリック率が出てて不思議に思っていたのだけど、熱心な読者の方が投げ銭感覚でクリックしてくれていたのだとすると、納得は行く(少し追記しておく。これはあくまで僕の想像でしかない。何か違う理由であった可能性もある)。
これが止めようと思った決定的な理由になった。
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止めた理由は2つある。
その1が、やっぱり広告はデザインを壊すってこと。
自分のデザインが美しいとは思わないけれど、広告が入ると「エー」な気はする。しかもクリックされるとお金が入るのだから、面白くていろいろやってしまった。これじゃ本末転倒だ。
次の理由は、これがメインなのだけど、サイトの運営費のアテ程度になればいいと思って配置したadsenseだったが、実は結構クリックされていた。不思議に思うほどクリックされていて「これ、ケッコー小遣いになるじゃん!」とビックリしていたわけだ。
そしたら、googleから不正の可能性があると警告されて「え?」。
いろいろ考えて得られた結論は「(多分1人の)ファンの人がクリックしてくれたのではなかろうか?」ということだった。自分の知っているクリック率からすると、結構なクリック率が出てて不思議に思っていたのだけど、熱心な読者の方が投げ銭感覚でクリックしてくれていたのだとすると、納得は行く(少し追記しておく。これはあくまで僕の想像でしかない。何か違う理由であった可能性もある)。
これが止めようと思った決定的な理由になった。
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2012-07-05 Thu [ 日記 ]
僕とあいざわひろしの付き合いは長いわけだが、そのあいざわひろしの単行本『アースフロンティアへようこそ』の第2巻が出ることになった。
めでたい話なのでブログでも書いて祝う…のではなく、この『アースフロンティアへようこそ』(以下EFO)は、僕はある意味深く関わっていて、いろいろ文句を言いたいので、それに関して暴露大会などしてやろうというのが、このポストの目的である!
ところで、何も知らない人のためにザザっとEFOというマンガのあらすじを紹介しておこう。
と、こんな話である。あいざわひろしはイロイロ文句を言いそうだが、ともかくネトゲ廃人と、痛いプレイヤーしか出てこないマンガだと思えばいい。
ここで賢明なる読者諸兄は気づかれただろうが、舞台は高校とゲーム世界の2つ。しかも現代のMMOだ。
どこの誰がこのゲームを考えたのか?
あいざわひろしではない。
あいざわひろしは、EFOの連載を始めるときには、FF11廃人にして、モンスターハンター廃人だったわけだが、仮にもオンゲーといえるようなゲームはこの2つしか知らなかった。
そして、ある日、あいざわひろしは言った。
「岩崎さん、今度連載するマンガ、舞台がMMOなんですよ。ちょっと一本適当にゲームデザインしてくれませんかね」
僕、ポカーン。
続きを読む▽
めでたい話なのでブログでも書いて祝う…のではなく、この『アースフロンティアへようこそ』(以下EFO)は、僕はある意味深く関わっていて、いろいろ文句を言いたいので、それに関して暴露大会などしてやろうというのが、このポストの目的である!
ところで、何も知らない人のためにザザっとEFOというマンガのあらすじを紹介しておこう。
高校入りたてのナメたガキ、甘粕謙一郎が、自分を変えたいとかナメたことを思ってたら、ナゾのゲームおたくメガネ女とたまたま会い、インターネット部に入らないかとか誘われる。
で、なんとなく誘いに乗って行ってみたら、実はインターネット部とは名ばかりで、ただのネトゲ同好会。
そして、ナゾの女=部長の千手静を筆頭に、部の全員がハマっているのが『アースフロンティアオンライン』って招待制オープンベータ期間のMMO。しかもド廃人ばかりで、部員でギルドを組んでいた。つまり学校にいる間にEFOを遊ぶために作られたのがインターネット同好会だったのだ。
そしてケンちゃんも、この部に入ってしまい、晴れてEFOの住人となってネトゲ廃人への道を順調に歩み始めるのであった…
で、なんとなく誘いに乗って行ってみたら、実はインターネット部とは名ばかりで、ただのネトゲ同好会。
そして、ナゾの女=部長の千手静を筆頭に、部の全員がハマっているのが『アースフロンティアオンライン』って招待制オープンベータ期間のMMO。しかもド廃人ばかりで、部員でギルドを組んでいた。つまり学校にいる間にEFOを遊ぶために作られたのがインターネット同好会だったのだ。
そしてケンちゃんも、この部に入ってしまい、晴れてEFOの住人となってネトゲ廃人への道を順調に歩み始めるのであった…
と、こんな話である。あいざわひろしはイロイロ文句を言いそうだが、ともかくネトゲ廃人と、痛いプレイヤーしか出てこないマンガだと思えばいい。
ここで賢明なる読者諸兄は気づかれただろうが、舞台は高校とゲーム世界の2つ。しかも現代のMMOだ。
どこの誰がこのゲームを考えたのか?
あいざわひろしではない。
あいざわひろしは、EFOの連載を始めるときには、FF11廃人にして、モンスターハンター廃人だったわけだが、仮にもオンゲーといえるようなゲームはこの2つしか知らなかった。
そして、ある日、あいざわひろしは言った。
「岩崎さん、今度連載するマンガ、舞台がMMOなんですよ。ちょっと一本適当にゲームデザインしてくれませんかね」
僕、ポカーン。
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2012-04-21 Sat [ 日記 ]
今、ニュージーランドは秋から冬になりつつあるところで…といっても、オークランドは冬の一番寒いときでも、5度ぐらいにしかならなくて、75年も雪が降らなかったなんてところだったりするのだけど…まあともかく冬に近づきつつある。
で、もちろん日が短くなって、僕が会社から出る6時過ぎにはかなり暗くなり、道を歩いている間に、星も瞬きだす。
この星空が、僕にとってはとてもインパクトがあった。
というのも、僕は今まで、北半球をずっとウロウロしていて、一番南はたぶんシンガポールあたりだけど、いずれにしても、赤道は越えていない。
ところがニュージーランドは赤道のはるか南。夏の大三角も、オリオン座も、北斗七星も全くない。
簡単に書けば、僕が何十年も夜空を見上げるとあった、見慣れた星座は何一つない。
本当に見たことのない形の星座ばかりの、見たこともない夜空で、これは夏と冬がひっくり返っているより、はるかに強く南半球を実感することなのだった。
で、もちろん日が短くなって、僕が会社から出る6時過ぎにはかなり暗くなり、道を歩いている間に、星も瞬きだす。
この星空が、僕にとってはとてもインパクトがあった。
というのも、僕は今まで、北半球をずっとウロウロしていて、一番南はたぶんシンガポールあたりだけど、いずれにしても、赤道は越えていない。
ところがニュージーランドは赤道のはるか南。夏の大三角も、オリオン座も、北斗七星も全くない。
簡単に書けば、僕が何十年も夜空を見上げるとあった、見慣れた星座は何一つない。
本当に見たことのない形の星座ばかりの、見たこともない夜空で、これは夏と冬がひっくり返っているより、はるかに強く南半球を実感することなのだった。
2012-04-04 Wed [ 日記 ]
イースの本の電子版を出すとき、値段を迷った。
物理的な装丁のない本にいくらの値段をつけるべきか、簡単に書けば「印刷費のない同人誌にいくらの値段をつけるべきなのか?」という話だ。
安くていいという考え方もあって、結構迷ったのだけど、実際の本をコミケまで来て購入してくれた人に絶対に失礼だと思って、同じ値段をつけた。
そのかわり、実際の本を買ってくれた人には安くで出せるなら出したかったのだけど、残念なことにそういうことは出来ないので、いわば統一価格になった。つまり、僕は「この情報には600円ぐらいの価値があると考えており、それが気に入らない人は買わなくて構いません」と考えた、ということだ。
で、ameroadとか見てると、みんなすごく安い値段をつけているのだけど、正直、僕には「なぜ安い値段をつけるのか」わからない。
多分、安くしたほうが買ってくれるのではないか…という発想な気がするけれど、安くすれば売れる物じゃあないと思う。
なぜなら、そこにあるものは「他の人にとってはあってもなくてもいいもの」だ。
逆にいえば、心に響かなければ10円でもいらないし、ハマれば100000円でも買う物だ。
自分の信じる値段をつけたほうが後悔がなくていいと思うのだ。
もちろん自分の信じる値段が100円だというなら、それはそれで全く問題はないと思うけど、たいていはそうは思えないんだよね。
物理的な装丁のない本にいくらの値段をつけるべきか、簡単に書けば「印刷費のない同人誌にいくらの値段をつけるべきなのか?」という話だ。
安くていいという考え方もあって、結構迷ったのだけど、実際の本をコミケまで来て購入してくれた人に絶対に失礼だと思って、同じ値段をつけた。
そのかわり、実際の本を買ってくれた人には安くで出せるなら出したかったのだけど、残念なことにそういうことは出来ないので、いわば統一価格になった。つまり、僕は「この情報には600円ぐらいの価値があると考えており、それが気に入らない人は買わなくて構いません」と考えた、ということだ。
で、ameroadとか見てると、みんなすごく安い値段をつけているのだけど、正直、僕には「なぜ安い値段をつけるのか」わからない。
多分、安くしたほうが買ってくれるのではないか…という発想な気がするけれど、安くすれば売れる物じゃあないと思う。
なぜなら、そこにあるものは「他の人にとってはあってもなくてもいいもの」だ。
逆にいえば、心に響かなければ10円でもいらないし、ハマれば100000円でも買う物だ。
自分の信じる値段をつけたほうが後悔がなくていいと思うのだ。
もちろん自分の信じる値段が100円だというなら、それはそれで全く問題はないと思うけど、たいていはそうは思えないんだよね。
2012-02-29 Wed [ 日記 ]
今日はハドソンがなくなる日…なので遠いオークランドからだが、少しハドソンについて書きたい。
僕がハドソン北海道いた期間は1988の3月ごろから1990年のゴールデンウィーク明けまで。
そのあとも天外Ⅱを作るので90-92年まではハドソンとずっと仕事をしたことになる。
その間に関わった(実際にコードレベルまで関わった)作品は、凄ノ王伝説、CDROMBIOS、イースⅠ・Ⅱ、ボンバーボーイ、イース海外版、天外魔境Ⅱ…ivまで含めても7つぐらいしかないわけだけど、ハドソンで仕事して、僕はゲームを作るプロになれた。
だから、とても思い出深い会社だ。そしてまた、80年代終わりの、あの元気だったハドソンを知っている僕としては、その会社が組織としてはなくなってしまうというのはちょっと信じられない気持ちだ。
反面、1980年代の終わりから、1990年代の初めは、ハドソンがすごく変化して行った時期で、そしてそれは少なくとも僕にはあまり楽しくない方向への変化だった。
88年の3月に僕が初めてハドソンに行った時は、とてもオープンな会社で仕事していて楽しくてしょうがなかった。89年にイースを作っているときも、たまらなく楽しかった。
90年にイースの海外版を作って帰るまでの間、本当にハドソンに入るかどうか迷っていたぐらいだ。
ところが90年に天外Ⅱの企画をやり始めたあたりから、なんだかハドソンは変わり始めた。
よく言えば、組織がしっかりしてきたのだけど、悪く言えば外の人に対して冷たくなってきた。
1990年までは僕は外注だったけれど「ハドソンの仕事仲間」だった。
だけど天外Ⅱを作っている間、どんどんハドソンと僕との関係はおかしくなっていった。ハドソンは、僕を仕事仲間ではなく、下請けか何かのように扱う方向に進んで行った。そして1992年の1月にハドソンで最終デバッグしているときは、僕はもうあんまりハドソンでは次の仕事はしたくない気持ちになっていた。
(ついでに書けば、もうハドソンは僕には頼まないだろうと思っていた)。
でも、そのときのハドソンはまさに絶頂期で、北海道ではハドソンに就職が決まると赤飯が炊かれてしまうような、そんな会社になっていた。(桝田さんがそう言ってたんだけど、これは桝田さんの独特の皮肉だと思ってるけど)
そのとき、僕が思ったことはハドソンはしっかりした会社になったけど、フリーや外注にとってあまり楽しくない会社になったのも間違いない、ということだった。
以降、僕とハドソンの間には、ほとんど繋がりはなく、数回中本さんと食事して、ちょっとしたくだらないことが何回かあっただけだった。
正直、92年からあとのハドソンはあんま好きじゃない。
少なくとも僕にとって楽しい会社ではなかった。
それでも88-90年のハドソンは、本当に僕は大好きだったし、楽しかった。
3年間、ハドソンですごした日々は、年齢はずれているけれど、僕にとっての本当の青春だったと思うのだ。
さよなら、ハドソン。
僕がハドソン北海道いた期間は1988の3月ごろから1990年のゴールデンウィーク明けまで。
そのあとも天外Ⅱを作るので90-92年まではハドソンとずっと仕事をしたことになる。
その間に関わった(実際にコードレベルまで関わった)作品は、凄ノ王伝説、CDROMBIOS、イースⅠ・Ⅱ、ボンバーボーイ、イース海外版、天外魔境Ⅱ…ivまで含めても7つぐらいしかないわけだけど、ハドソンで仕事して、僕はゲームを作るプロになれた。
だから、とても思い出深い会社だ。そしてまた、80年代終わりの、あの元気だったハドソンを知っている僕としては、その会社が組織としてはなくなってしまうというのはちょっと信じられない気持ちだ。
反面、1980年代の終わりから、1990年代の初めは、ハドソンがすごく変化して行った時期で、そしてそれは少なくとも僕にはあまり楽しくない方向への変化だった。
88年の3月に僕が初めてハドソンに行った時は、とてもオープンな会社で仕事していて楽しくてしょうがなかった。89年にイースを作っているときも、たまらなく楽しかった。
90年にイースの海外版を作って帰るまでの間、本当にハドソンに入るかどうか迷っていたぐらいだ。
ところが90年に天外Ⅱの企画をやり始めたあたりから、なんだかハドソンは変わり始めた。
よく言えば、組織がしっかりしてきたのだけど、悪く言えば外の人に対して冷たくなってきた。
1990年までは僕は外注だったけれど「ハドソンの仕事仲間」だった。
だけど天外Ⅱを作っている間、どんどんハドソンと僕との関係はおかしくなっていった。ハドソンは、僕を仕事仲間ではなく、下請けか何かのように扱う方向に進んで行った。そして1992年の1月にハドソンで最終デバッグしているときは、僕はもうあんまりハドソンでは次の仕事はしたくない気持ちになっていた。
(ついでに書けば、もうハドソンは僕には頼まないだろうと思っていた)。
でも、そのときのハドソンはまさに絶頂期で、北海道ではハドソンに就職が決まると赤飯が炊かれてしまうような、そんな会社になっていた。(桝田さんがそう言ってたんだけど、これは桝田さんの独特の皮肉だと思ってるけど)
そのとき、僕が思ったことはハドソンはしっかりした会社になったけど、フリーや外注にとってあまり楽しくない会社になったのも間違いない、ということだった。
以降、僕とハドソンの間には、ほとんど繋がりはなく、数回中本さんと食事して、ちょっとしたくだらないことが何回かあっただけだった。
正直、92年からあとのハドソンはあんま好きじゃない。
少なくとも僕にとって楽しい会社ではなかった。
それでも88-90年のハドソンは、本当に僕は大好きだったし、楽しかった。
3年間、ハドソンですごした日々は、年齢はずれているけれど、僕にとっての本当の青春だったと思うのだ。
さよなら、ハドソン。