2019-02-02 Sat [ イース通史 ]
このシリーズは様々な人から聞いて、どうやら(だいたい)はっきりしたパソコン版の『イース1』から、海外版PCエンジン版(TurboGrafx 16)の『イースⅠ・Ⅱ』までの通史として、出来るだけ当時の事情なども織り込みつつ、書いていこうというシリーズだ。
だから85年あたりから話は始まり、90年5月で終わることになる。
またそもそも30年も昔の話で、連絡が取れない人が多くて(鬼籍に入られた方もおられる)、ある意味、間接的な「様々な人から聞いて、どうやらこうらしい」という話の部分が多々あり、こうだろうと推測して埋めているところもあるので、知っておられる方は遠慮なく教えてくれるととても嬉しい。
それからコメント欄は承認制なので「表にするな」と書いてくれれば、表にしません。
ところで、とてもバカらしいのだけど書いておくけれど、これは「イース通史」で、パソコンの通史ではない。そしてイースは最初に88MkⅡSR用に開発されているのだから、主要な話は88に決まっている。基本的に他の機種の歴史のウェイトは低いし、スルーしているところもたくさんある。もう一度書いておくが、これはイース通史で、パソコン通史でも、MZ通史でも、FM通史でも、MSX通史でもない。
というわけで、86年初頭に(85年末には話題になっていたらしいが)『リグラス』がリリースされて「88でカラーでスクロールするゲームが制作可能だ」という認識が出来た86年に話は進む。
ここで話はいよいよファルコムに移る。
このころファルコムでは大きなゲームとして、木屋さんの『ロマンシア』と橋本さんの『アステカ2』が開発されていた。
開発自体は『アステカ2』の方が先にスタートして(86年2月ごろ)、そのあと『ロマンシア』の開発が始まる(86年4~5月)という流れだ。
ところが、発売は『ロマンシア』=1986年10月06日発売、『アステカ2』=1986年10月24日発売なので、開発期間は、『ロマンシア』が5カ月、『アステカ2』は8カ月ほどということになる。
これには実は理由があったのだけど、それはあとで書くことにして、このとき、山根は『ザナドゥ』のドットをやったあと橋本さんと組んで『アステカ2』のドットをやっているのだけど、これが木屋さんの要求なのだと思うのだけど『ロマンシア』でまたドットを打つことになる。
では『アステカ2』のアートは誰が?
代わって、大浦君が入って仕上げることになる。これが理由で山根は大いに大浦君には感謝しているということだった。
そして大浦君は後に『イースⅡ』のマップを作ることになるのだけど、進藤に言わせると「山根君と違って、ほとんどチップの置き間違いがないから楽だったですよ!」。
まあ、そういう3年後の余談はともかくとして『アステカ2』というゲームについて、まず書いておきたい。
『アステカ2』はファルコムの最後のアドベンチャゲーム…なんて表現されることもあるのだけど、実は堀井雄二さんの『軽井沢誘拐案内』と同じようにクリエイターにとってのRPGとアドベンチャの間の作品として見ると、とても興味深いソフトだ。
というのも、85-86年は売れるのはRPGという時代になっていて、なおかつアクションRPGが一大潮流になっていた。そりゃあ『ザナドゥ』と『ハイドライド』の大ヒットを見れば、アクションRPGが主流になるのも無理はない。
それもあって『軽井沢誘拐案内』は途中でRPGみたいなスクロール面が登場するので有名だし、『アステカ2』はというと、最初からキャラクタがマップの上にいて、自由に移動させることが出来て、建物に入ると画面がオーバーラップして出てきて、アイテムなどがアイコン化されて…と、ゲームデザインがとてもRPGに近づいた作品になっていて、しかも後の『イース』に見られる要素がボロボロ入っている。
実際に画面を見ると「ああ、のちにこれが『イース』になったわけだ」ととてもよくわかる作品だ。
つまり『軽井沢誘拐案内』が堀井さんの『ドラクエ』へ向けての習作だったと表現するなら、『アステカ2』は、橋本さんのルーツ的な作品と表現してもいいと思う。
そして、橋本さんが『アステカ2』を作っていたとき、木屋さんが作っていたのが『ロマンシア』。
『ロマンシア』が様々な意味で極めて重要な作品だと言う事が、今回の調査でわかったのだけど、その前に少し『ロマンシア』について、僕がずっと不思議だったことを書いておきたい。
それは、なんだったのかというと『ロマンシア』は当時のPCのゲームマシン(主にファミコン)に対する圧倒的なアドバンテージである容量を捨てて、1ロード、つまり約64KBでゲームが動くということだった。
なぜ容量が圧倒的なアドバンテージだったのか?
86年当時のファミコンはようやくメガロム(128キロバイト)が登場する時代で、しかも極めてコストが高く、普通は32-40キロバイト程度でプログラムを組むのが当たり前だった。
そして、同じ時期のPCの世界はフロッピードライブが記憶媒体として急速に標準化する時代だ。
これは当時の日本ではだいたい1枚320キロバイトある読み書き可能なメディアで、しかももちろん複数枚にすることが出来た。
これは86年あたりのファミコンのROM容量が大きい方で40キロバイトぐらいで、128キロバイトをメガロムと宣伝していたのと比較すれば、圧倒的な大容量ってことになる(だからファミコンでもディスクシステムが未来のメディアとしてもてはやされたわけだ)。
ただし当時はフロッピーの原価はとても高かったので、複数枚にするのは贅沢だったのは、当時としては間違いなく、「枚数を増やす」と言われるとかなりイヤな顔をされるものだったらしい。
またディスク毎のリソース管理は結構面倒くさいもので、後の余談になるが、イース1が開発時間不足で、ボリュームを増すためにダームの塔を大きくしたとき、橋本さんがディスクの2枚目のダームの塔から村に戻れるのを嫌って、ダームの塔に入るときにウィング(ワープアイテム)を取っちゃった。それで2年ほど後になって、山根は「帰れるようにしたかったんですよね。『イースⅠ・Ⅱ』では戻れるように出来ませんかね?」と、僕に聞いてきて「オリジナルから話が変わるからダメ」と却下したなんてこともあったりする。
と、余談はともかく、だから、そのメリットを捨てた理由がわからなかったのだけど、当時のファルコムの方にインタビューすることで、どうやら真相らしいことがわかった。
結論としては「木屋さんは、当時ファミコンのソフトを作ってみたかったから、ファミコンみたいなゲームを作った」というのだ。
驚くような話だけど、当時の事を知っている自分としては理解もできる。
当時、PCの世界とアーケードゲーム業界との距離はかなり遠く、技術も全く共通ではなかった。というか、基本とするハードウェアの設計思想が違い過ぎたので、ゲームの作り方自体が違ったと考えていい。
しかも、当時のゲームの都は間違いなくアーケードゲームだ。
だからPCの世界から見て、アーケードやファミコンのスムーススクロール(のちに多重スクロールもこれに加わるのだけど)やスプライトといった技術はある種の憧れで、ファミコンと出来るだけ似た作り方で、ファミコンでやれることを全部実現してみたかった…というのは理解できる話だ。
そして『ロマンシア』というソフトは証言にもあるように、ファミコンのような重ね合わせが出来る、スムーズにスクロールするゲームだったのだけど、これのヒントがどこから来たのかというと…『リグラス』。
つまり、木屋さんは『リグラス』を見て、ヒントを得て、プログラムをいろいろやって作ったのが『ロマンシア』で、そしてそれはファミコンに憧れたゲームだったので、グラフィック的には「まるでファミコンのようにスプライトのような重ね合わせが行われ、スムーズにスクロールするゲーム」だった、ということだ。
そして、このゲームにはもう一つ大きな特徴があった。
それは(どうやら)、クロス開発、つまりPC98で開発されたファルコムの最初のゲームだったということだ。
ところで、全くの余談なのだけど『アステカ2』にはMIHOちゃんと呼ばれる隠れキャラがあり、これは大浦君か山根のどっちが描いたのかなあ…と思っていたところ、その答えが明白にわかった。
まあ山根もどっかの対談で喋ったらしいのだけど、ここに残しておく。
というところで、またとんでもなく長くなったので終わり。
だから85年あたりから話は始まり、90年5月で終わることになる。
またそもそも30年も昔の話で、連絡が取れない人が多くて(鬼籍に入られた方もおられる)、ある意味、間接的な「様々な人から聞いて、どうやらこうらしい」という話の部分が多々あり、こうだろうと推測して埋めているところもあるので、知っておられる方は遠慮なく教えてくれるととても嬉しい。
それからコメント欄は承認制なので「表にするな」と書いてくれれば、表にしません。
ところで、とてもバカらしいのだけど書いておくけれど、これは「イース通史」で、パソコンの通史ではない。そしてイースは最初に88MkⅡSR用に開発されているのだから、主要な話は88に決まっている。基本的に他の機種の歴史のウェイトは低いし、スルーしているところもたくさんある。もう一度書いておくが、これはイース通史で、パソコン通史でも、MZ通史でも、FM通史でも、MSX通史でもない。
というわけで、86年初頭に(85年末には話題になっていたらしいが)『リグラス』がリリースされて「88でカラーでスクロールするゲームが制作可能だ」という認識が出来た86年に話は進む。
ここで話はいよいよファルコムに移る。
ところで『リグラス』にしても『イース』にしても、当時は滑らかにスクロールすると表現されたけれど、今の目から見ればガタガタスクロールだし、解像度だって640x200で、今の感覚からしたらありえないほどの低解像度だった。
このころファルコムでは大きなゲームとして、木屋さんの『ロマンシア』と橋本さんの『アステカ2』が開発されていた。
開発自体は『アステカ2』の方が先にスタートして(86年2月ごろ)、そのあと『ロマンシア』の開発が始まる(86年4~5月)という流れだ。
ところが、発売は『ロマンシア』=1986年10月06日発売、『アステカ2』=1986年10月24日発売なので、開発期間は、『ロマンシア』が5カ月、『アステカ2』は8カ月ほどということになる。
これには実は理由があったのだけど、それはあとで書くことにして、このとき、山根は『ザナドゥ』のドットをやったあと橋本さんと組んで『アステカ2』のドットをやっているのだけど、これが木屋さんの要求なのだと思うのだけど『ロマンシア』でまたドットを打つことになる。
では『アステカ2』のアートは誰が?
代わって、大浦君が入って仕上げることになる。これが理由で山根は大いに大浦君には感謝しているということだった。
そして大浦君は後に『イースⅡ』のマップを作ることになるのだけど、進藤に言わせると「山根君と違って、ほとんどチップの置き間違いがないから楽だったですよ!」。
まあ、そういう3年後の余談はともかくとして『アステカ2』というゲームについて、まず書いておきたい。
『アステカ2』はファルコムの最後のアドベンチャゲーム…なんて表現されることもあるのだけど、実は堀井雄二さんの『軽井沢誘拐案内』と同じようにクリエイターにとってのRPGとアドベンチャの間の作品として見ると、とても興味深いソフトだ。
というのも、85-86年は売れるのはRPGという時代になっていて、なおかつアクションRPGが一大潮流になっていた。そりゃあ『ザナドゥ』と『ハイドライド』の大ヒットを見れば、アクションRPGが主流になるのも無理はない。
それもあって『軽井沢誘拐案内』は途中でRPGみたいなスクロール面が登場するので有名だし、『アステカ2』はというと、最初からキャラクタがマップの上にいて、自由に移動させることが出来て、建物に入ると画面がオーバーラップして出てきて、アイテムなどがアイコン化されて…と、ゲームデザインがとてもRPGに近づいた作品になっていて、しかも後の『イース』に見られる要素がボロボロ入っている。
実際に画面を見ると「ああ、のちにこれが『イース』になったわけだ」ととてもよくわかる作品だ。
つまり『軽井沢誘拐案内』が堀井さんの『ドラクエ』へ向けての習作だったと表現するなら、『アステカ2』は、橋本さんのルーツ的な作品と表現してもいいと思う。
ところで『イース』に金の台座が出てくることで『アステカ2とのつながりが! みたいなことを言う人がタマにいるのだけど、この当時は主にスターウォーズとインディージョーンズでのジョージルーカスのネタの共用(THX1138とか)が話題になり、こういう遊びをするのがカッコイイとされていた時代なのは記録として残しておきたい。だから『リンクの冒険』(のオリジナルのディスク版)には「ロトの墓」なんてのがあったりするし『天外Ⅱ』では桝田さんが山のように墓に名前を入れている
そして、橋本さんが『アステカ2』を作っていたとき、木屋さんが作っていたのが『ロマンシア』。
『ロマンシア』が様々な意味で極めて重要な作品だと言う事が、今回の調査でわかったのだけど、その前に少し『ロマンシア』について、僕がずっと不思議だったことを書いておきたい。
それは、なんだったのかというと『ロマンシア』は当時のPCのゲームマシン(主にファミコン)に対する圧倒的なアドバンテージである容量を捨てて、1ロード、つまり約64KBでゲームが動くということだった。
なぜ容量が圧倒的なアドバンテージだったのか?
86年当時のファミコンはようやくメガロム(128キロバイト)が登場する時代で、しかも極めてコストが高く、普通は32-40キロバイト程度でプログラムを組むのが当たり前だった。
そして、同じ時期のPCの世界はフロッピードライブが記憶媒体として急速に標準化する時代だ。
これは当時の日本ではだいたい1枚320キロバイトある読み書き可能なメディアで、しかももちろん複数枚にすることが出来た。
これは86年あたりのファミコンのROM容量が大きい方で40キロバイトぐらいで、128キロバイトをメガロムと宣伝していたのと比較すれば、圧倒的な大容量ってことになる(だからファミコンでもディスクシステムが未来のメディアとしてもてはやされたわけだ)。
ただし当時はフロッピーの原価はとても高かったので、複数枚にするのは贅沢だったのは、当時としては間違いなく、「枚数を増やす」と言われるとかなりイヤな顔をされるものだったらしい。
またディスク毎のリソース管理は結構面倒くさいもので、後の余談になるが、イース1が開発時間不足で、ボリュームを増すためにダームの塔を大きくしたとき、橋本さんがディスクの2枚目のダームの塔から村に戻れるのを嫌って、ダームの塔に入るときにウィング(ワープアイテム)を取っちゃった。それで2年ほど後になって、山根は「帰れるようにしたかったんですよね。『イースⅠ・Ⅱ』では戻れるように出来ませんかね?」と、僕に聞いてきて「オリジナルから話が変わるからダメ」と却下したなんてこともあったりする。
と、余談はともかく、だから、そのメリットを捨てた理由がわからなかったのだけど、当時のファルコムの方にインタビューすることで、どうやら真相らしいことがわかった。
■ファルコム関係者の証言
当時、木屋さんは、ファミコンソフトが作りたくて仕方なかったんです。
でもその時は作れなかったので、ファミコンで出来る事を、出来るだけ取り入れようとしたのだと思います。
スクロール、重ねあわせ、背景の裏に入る、そして一発起動。
「ロマンシアは、一回立ち上がった後は読まない」と言いながらディスクを抜いて遊んでいました。
ちなみに、ロマンシアのマップはベタ置きなのですが、「ドラスレⅣ」でファミコンを経験してからは、2X2のセル組みのマップに変わりました。
当時、木屋さんは、ファミコンソフトが作りたくて仕方なかったんです。
でもその時は作れなかったので、ファミコンで出来る事を、出来るだけ取り入れようとしたのだと思います。
スクロール、重ねあわせ、背景の裏に入る、そして一発起動。
「ロマンシアは、一回立ち上がった後は読まない」と言いながらディスクを抜いて遊んでいました。
ちなみに、ロマンシアのマップはベタ置きなのですが、「ドラスレⅣ」でファミコンを経験してからは、2X2のセル組みのマップに変わりました。
結論としては「木屋さんは、当時ファミコンのソフトを作ってみたかったから、ファミコンみたいなゲームを作った」というのだ。
驚くような話だけど、当時の事を知っている自分としては理解もできる。
当時、PCの世界とアーケードゲーム業界との距離はかなり遠く、技術も全く共通ではなかった。というか、基本とするハードウェアの設計思想が違い過ぎたので、ゲームの作り方自体が違ったと考えていい。
しかも、当時のゲームの都は間違いなくアーケードゲームだ。
だからPCの世界から見て、アーケードやファミコンのスムーススクロール(のちに多重スクロールもこれに加わるのだけど)やスプライトといった技術はある種の憧れで、ファミコンと出来るだけ似た作り方で、ファミコンでやれることを全部実現してみたかった…というのは理解できる話だ。
ところで、ベタ置きとセル組みというのは、当時のファミコンではカラーパレットの都合もあって8x8ドットのBGキャラクタ(チップなどと表現するところもあった)を4つ集めて16x16ドットのサイズのブロックで画面を組み立てるのが基本になっていた。この4キャラクタ=16x16ドットのブロックのことを「セル」と表現することがなぜか多かったのだ。これはほぼカラーパレットの都合なのだけど、当時はメモリがないので、セル組するとマップのサイズを簡単に大きくできるというメリットもあり、絵面の問題を超えるメリットが大きかったので、普通に当時のコンソールゲームもアーケードゲームでも採用されていた。
そして『ロマンシア』というソフトは証言にもあるように、ファミコンのような重ね合わせが出来る、スムーズにスクロールするゲームだったのだけど、これのヒントがどこから来たのかというと…『リグラス』。
■ファルコム関係者の証言
木屋さんは「リグラス」のスクロールを見ていて気がついたけれど、解析はしていないと、どこかの雑誌に答えていました。
木屋さんは「リグラス」のスクロールを見ていて気がついたけれど、解析はしていないと、どこかの雑誌に答えていました。
つまり、木屋さんは『リグラス』を見て、ヒントを得て、プログラムをいろいろやって作ったのが『ロマンシア』で、そしてそれはファミコンに憧れたゲームだったので、グラフィック的には「まるでファミコンのようにスプライトのような重ね合わせが行われ、スムーズにスクロールするゲーム」だった、ということだ。
そして、このゲームにはもう一つ大きな特徴があった。
それは(どうやら)、クロス開発、つまりPC98で開発されたファルコムの最初のゲームだったということだ。
ところで、全くの余談なのだけど『アステカ2』にはMIHOちゃんと呼ばれる隠れキャラがあり、これは大浦君か山根のどっちが描いたのかなあ…と思っていたところ、その答えが明白にわかった。
まあ山根もどっかの対談で喋ったらしいのだけど、ここに残しておく。
■ファルコム関係者の証言
山根さんはロマンシアを一段落させ、アステカⅡに戻り、タイトル画面、エンディング画面、隠し画面(MIHOちゃん)を作っていました。
山根さんはロマンシアを一段落させ、アステカⅡに戻り、タイトル画面、エンディング画面、隠し画面(MIHOちゃん)を作っていました。
というところで、またとんでもなく長くなったので終わり。
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コメント
PCがファミコンやアーケードライクのスクロールアクション苦手なのに PC用に無理にアレンジして作ってやらかしたのがハドソンのスーパーマリオプラザースSPでしたなぁ
スクロールしないだけであんな鬼畜難易度になる
というかハドソンなんで任天堂のゲーム無茶移植してたんだろう
スクロールしないだけであんな鬼畜難易度になる
というかハドソンなんで任天堂のゲーム無茶移植してたんだろう
| タムロ | EMAIL | URL | 19/02/03 07:09 | 1tGvdQ.U |