2012-02-29 Wed [ 日記 ]
今日はハドソンがなくなる日…なので遠いオークランドからだが、少しハドソンについて書きたい。
僕がハドソン北海道いた期間は1988の3月ごろから1990年のゴールデンウィーク明けまで。
そのあとも天外Ⅱを作るので90-92年まではハドソンとずっと仕事をしたことになる。
その間に関わった(実際にコードレベルまで関わった)作品は、凄ノ王伝説、CDROMBIOS、イースⅠ・Ⅱ、ボンバーボーイ、イース海外版、天外魔境Ⅱ…ivまで含めても7つぐらいしかないわけだけど、ハドソンで仕事して、僕はゲームを作るプロになれた。
だから、とても思い出深い会社だ。そしてまた、80年代終わりの、あの元気だったハドソンを知っている僕としては、その会社が組織としてはなくなってしまうというのはちょっと信じられない気持ちだ。
反面、1980年代の終わりから、1990年代の初めは、ハドソンがすごく変化して行った時期で、そしてそれは少なくとも僕にはあまり楽しくない方向への変化だった。
88年の3月に僕が初めてハドソンに行った時は、とてもオープンな会社で仕事していて楽しくてしょうがなかった。89年にイースを作っているときも、たまらなく楽しかった。
90年にイースの海外版を作って帰るまでの間、本当にハドソンに入るかどうか迷っていたぐらいだ。
ところが90年に天外Ⅱの企画をやり始めたあたりから、なんだかハドソンは変わり始めた。
よく言えば、組織がしっかりしてきたのだけど、悪く言えば外の人に対して冷たくなってきた。
1990年までは僕は外注だったけれど「ハドソンの仕事仲間」だった。
だけど天外Ⅱを作っている間、どんどんハドソンと僕との関係はおかしくなっていった。ハドソンは、僕を仕事仲間ではなく、下請けか何かのように扱う方向に進んで行った。そして1992年の1月にハドソンで最終デバッグしているときは、僕はもうあんまりハドソンでは次の仕事はしたくない気持ちになっていた。
(ついでに書けば、もうハドソンは僕には頼まないだろうと思っていた)。
でも、そのときのハドソンはまさに絶頂期で、北海道ではハドソンに就職が決まると赤飯が炊かれてしまうような、そんな会社になっていた。(桝田さんがそう言ってたんだけど、これは桝田さんの独特の皮肉だと思ってるけど)
そのとき、僕が思ったことはハドソンはしっかりした会社になったけど、フリーや外注にとってあまり楽しくない会社になったのも間違いない、ということだった。
以降、僕とハドソンの間には、ほとんど繋がりはなく、数回中本さんと食事して、ちょっとしたくだらないことが何回かあっただけだった。
正直、92年からあとのハドソンはあんま好きじゃない。
少なくとも僕にとって楽しい会社ではなかった。
それでも88-90年のハドソンは、本当に僕は大好きだったし、楽しかった。
3年間、ハドソンですごした日々は、年齢はずれているけれど、僕にとっての本当の青春だったと思うのだ。
さよなら、ハドソン。
僕がハドソン北海道いた期間は1988の3月ごろから1990年のゴールデンウィーク明けまで。
そのあとも天外Ⅱを作るので90-92年まではハドソンとずっと仕事をしたことになる。
その間に関わった(実際にコードレベルまで関わった)作品は、凄ノ王伝説、CDROMBIOS、イースⅠ・Ⅱ、ボンバーボーイ、イース海外版、天外魔境Ⅱ…ivまで含めても7つぐらいしかないわけだけど、ハドソンで仕事して、僕はゲームを作るプロになれた。
だから、とても思い出深い会社だ。そしてまた、80年代終わりの、あの元気だったハドソンを知っている僕としては、その会社が組織としてはなくなってしまうというのはちょっと信じられない気持ちだ。
反面、1980年代の終わりから、1990年代の初めは、ハドソンがすごく変化して行った時期で、そしてそれは少なくとも僕にはあまり楽しくない方向への変化だった。
88年の3月に僕が初めてハドソンに行った時は、とてもオープンな会社で仕事していて楽しくてしょうがなかった。89年にイースを作っているときも、たまらなく楽しかった。
90年にイースの海外版を作って帰るまでの間、本当にハドソンに入るかどうか迷っていたぐらいだ。
ところが90年に天外Ⅱの企画をやり始めたあたりから、なんだかハドソンは変わり始めた。
よく言えば、組織がしっかりしてきたのだけど、悪く言えば外の人に対して冷たくなってきた。
1990年までは僕は外注だったけれど「ハドソンの仕事仲間」だった。
だけど天外Ⅱを作っている間、どんどんハドソンと僕との関係はおかしくなっていった。ハドソンは、僕を仕事仲間ではなく、下請けか何かのように扱う方向に進んで行った。そして1992年の1月にハドソンで最終デバッグしているときは、僕はもうあんまりハドソンでは次の仕事はしたくない気持ちになっていた。
(ついでに書けば、もうハドソンは僕には頼まないだろうと思っていた)。
でも、そのときのハドソンはまさに絶頂期で、北海道ではハドソンに就職が決まると赤飯が炊かれてしまうような、そんな会社になっていた。(桝田さんがそう言ってたんだけど、これは桝田さんの独特の皮肉だと思ってるけど)
そのとき、僕が思ったことはハドソンはしっかりした会社になったけど、フリーや外注にとってあまり楽しくない会社になったのも間違いない、ということだった。
以降、僕とハドソンの間には、ほとんど繋がりはなく、数回中本さんと食事して、ちょっとしたくだらないことが何回かあっただけだった。
正直、92年からあとのハドソンはあんま好きじゃない。
少なくとも僕にとって楽しい会社ではなかった。
それでも88-90年のハドソンは、本当に僕は大好きだったし、楽しかった。
3年間、ハドソンですごした日々は、年齢はずれているけれど、僕にとっての本当の青春だったと思うのだ。
さよなら、ハドソン。
コメント
ボンバーマンと桃鉄以外のハドソンを、もう少し見たかった気もしますね
最近の新機種発売の華々しいニュースの裏でも、かつてのハドソンのような
3rd (2nd?) メーカー、ソフトハウスの暗躍(?)があるのでしょうか。
ある意味、今程の話題性、世間の期待がなかった頃だったからこその、業界のおおらかさが
ハドソンのようなメーカーの立ち位置を許していたのかもしれませんが、
個人的には、ゲーム業界の「そういう空気」は残っていて欲しい、と思っています。
世間的な評価は「ゲームなんて娯楽は、所詮子供だまし」でも別にいいんじゃないか、
と思ってますので。
最近の新機種発売の華々しいニュースの裏でも、かつてのハドソンのような
3rd (2nd?) メーカー、ソフトハウスの暗躍(?)があるのでしょうか。
ある意味、今程の話題性、世間の期待がなかった頃だったからこその、業界のおおらかさが
ハドソンのようなメーカーの立ち位置を許していたのかもしれませんが、
個人的には、ゲーム業界の「そういう空気」は残っていて欲しい、と思っています。
世間的な評価は「ゲームなんて娯楽は、所詮子供だまし」でも別にいいんじゃないか、
と思ってますので。
| atsu | EMAIL | URL | 12/03/04 14:07 | jB3nOvqE |
岩崎さん、はじめまして。
中学生時代にマル勝PCエンジンを愛読していました。
なかでも、岩崎さんが担当されていた「お毒味チャート」(新作クロスレビュー)のコーナーが好きで、
凄ノ王伝説やイース?・?の開発中の様子の記事も拝見しました。
当時はイース?・?が本当に遊びたくてしょうがなかったのですが、経済的な事情で泣く泣く断念しました…。
しかし近年、Wiiのバーチャルコンソ\ールでイース?・?を見つけたときは凄く嬉しかったです。
もちろん最後までプレイしました…今でも色褪せていない名作のすごさを感じました。
…話が長くなってしまいましたが、ハドソ\ンは本当に色々な金字塔を建てたメーカーだと思います…ゲームファンの私としてはとても残念です。
ハドソ\ンありがとう。
そして永遠に…。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
中学生時代にマル勝PCエンジンを愛読していました。
なかでも、岩崎さんが担当されていた「お毒味チャート」(新作クロスレビュー)のコーナーが好きで、
凄ノ王伝説やイース?・?の開発中の様子の記事も拝見しました。
当時はイース?・?が本当に遊びたくてしょうがなかったのですが、経済的な事情で泣く泣く断念しました…。
しかし近年、Wiiのバーチャルコンソ\ールでイース?・?を見つけたときは凄く嬉しかったです。
もちろん最後までプレイしました…今でも色褪せていない名作のすごさを感じました。
…話が長くなってしまいましたが、ハドソ\ンは本当に色々な金字塔を建てたメーカーだと思います…ゲームファンの私としてはとても残念です。
ハドソ\ンありがとう。
そして永遠に…。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
| Azumi | EMAIL | URL | 12/02/29 19:50 | hpdrLgHM |
ファミコン時代から結構ハドソンのゲームを買ってきたので
無くなってしまうのは寂しいですなぁ。
でもここ最近は桃鉄くらいしかパっとするものなかったですしね。
無くなってしまうのは寂しいですなぁ。
でもここ最近は桃鉄くらいしかパっとするものなかったですしね。
| xelha | EMAIL | URL | 12/02/29 19:19 | rVgX9o6o |
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