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ASUTYのこと、こくら君のこと
例によって、ときメモの時代を書いて思い出した、入れ忘れてて、入れにくい細かいエピソードなど。

作者ASUTYのこと。
ときメモの実質的なDirectorでメインプログラマでゲームデザインもある程度関係したヤツで、こいつがいなかったら『ときメモ』は間違いなく世に出ていなかったと思う…のだけど、まあなんというか、変なヤツだった…のはともかくとして、最初の印象は「え? コイツなにもの?」だった。

というのも、僕が大絶賛の書き込みをした後に、ASUTYの野郎は「ある種の状況だとときメモはバックアップ壊します、ひどいソフトですね」という書き込みをしたのだ。
どうもこれは全くの僕の記憶違いで、空にしないとサブゲームなどが保存できないぞ、ひどいぞという書き込みだったらしい
なので、勘違いだったのだけど、まあいいや、いまさら修正してもしょうがないので以下。

このバックアップメモリが壊れるのは、実はスーパーCDROMでBIOS書いた小林さんが入れた致命的なバグで、容量が一定以下のとき、ある種の事をするとぶっ壊れるって話なのだけど…まあ、今なら書いちゃってもいいだろうw
そいで天外2でも同じバグ抱えてたりするのだけど、問題なのは、それを知っていてて、かつ『ときメモ』がそのバグがある事を知っているヤツ、こいつは何者だと。
上が勘違いだったのだから、たぶんコレも内容を知っているってのは誰だだったんだろう

当然、マスターをプレイしていなくちゃいけないから、雑誌社のヤツか? と頭をひねりながら、しかし、この「ASUTY」という名前、どこかで見覚えが…と考えていて、はっと気がついた。
「スタッフロールに出てたやつじゃね!?」
あわてて、ビデオをチェックしてみると、そのとおり。(レビューの時には僕は参考にするためにビデオをずっと録画するのがクセだった)

この一連の騒動以来、ASUTYはniftyserveのfcgamemに居つき、僕らとバカ話チャットしたり、遊びまくるようになっていったのだった。

キャラクタを描いたこくら雅史君は、ゴーファーの野望の移植で、デザートコアだったか、ともかくボスを担当していたのだけど、ASUTYがチームの中で女の子をまともに描けるのが彼しかいない、というまさにたったそれだけの理由でムリヤリ描かせたと言っていた。

もうはるか遠い18年も昔の1994年の話である。


あと、連絡です(;´Д`) <= 見つかりました。
『ときめきメモリアルの時代』の通販に、f***excite.co.jp からメールを送ってくださった、名前の一文字目が「ハ」の方、メールボックスが一杯で返事を返せません。メールボックスをきれいにするか、他のメールアドレスから連絡ください(;´Д`)

|| 19:21 | comments (1) | trackback (0) | ||

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ハドソン本を頒布記念でイロイロ
ハドソン本の頒布を記念して、いろいろと。

えーと、まず頒布予定については
■サンクリ(予定)
■コミケ82
は変わりません。
ただ、イチで思ったよりたくさんの方に持っていかれてしまったので、夏コミでの頒布数は、かなり少なくなってしまうのではないかと思います。
通販については現時点では予定していません。
通販は、あいざわひろしがやるときにコバンザメでやらしてもらうものなので。

と、簡単に現状の話を書いたところで、以下、いろいろ落ち穂拾い。

まずコメントで一度書いてあった「中本さんは高校時代ずっととんかつ弁当を食べていた」って、ハドソン秘密攻略法とかいう本に載っていた話は本人に確認したところ本当だったw
コレは絶対にウソだと思って聞いたら、本当だといわれたので、全く驚いた。
どうして、そんなことをしたのかについては聞いてない。
僕もびっくりしたのだけど、本人が本当だっていってるんだから信じるしかあるまい。


続きを読む▽
|| 19:51 | comments (2) | trackback (0) | ||

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ハドソンがファミコンに参入するまで(補足)
書き上げたあと、自分的にとても気に入っているのと、やっぱブログで書いたのは構成が気に入らない…連載みたいなもので、あとからあーこうしたらとか、こんな事実が! みたいなのがあって、4月の終わりにあるコミックイチで本にしちゃおうと思って、現在、構成を組み立てなおしながら、資料なども追加しつつ、書いているところ。

で、書いてるうちにわかった細かいことなどを、ちょっとメモ書き代わりに残しておきたい。

1982年のX1での協力で、ハドソンではX1は安く買えたということだった。だから一時、ハドソンはX1だらけになっていたとのことだった。僕がハドソンにいった1988年にはもうX1は開発では使われていなくて、飛田さんとか一部人たちの机の上に残っていた程度だったので、さっぱりわからなかった。

X1でゲームを書き始めた最初の頃、本迫(もとさこと読む)さんが作ったX1用のBASICコンパイラがあり、それを使ってゲームを開発していたらしい。
らしいというのは、開発していた人たちはそう言っているのだけど、開発した当の本人であるはずの本迫さんに確認したところ全く覚えておらず「俺そんなことしたっけ!?」だったから、真偽が全く不明なのだ。
当時の数少ないハドソンのメンバーでこの真偽を覚えている人はいないだろうかw

ところがBASICコンパイラは当たり前のことながら、当時のコンパイラなのでランタイム(動かすときに必要なライブラリ)が大きい・コンパイル効率が悪くコードが大きい・速度が遅い(フルアセンブラより遅い)、案外他機種への移植が大変…といった問題があり、互換ライブラリを作ってフルアセンブラ(オールマシン語)の方向に話は進んだ、ということらしい。

それで、最初のフルアセンブラゲームがなんだったのかというとボンバーマン。
中本さんが1日で書いたのが最初だったと僕は聞いた。
単純なゲームだけど、それでも1日で書くってのはスゲエ…つってもライブラリは既に大量にあったろうから、1日でコア部分を書いたってことだろうけど。
当時の主流はZ80だったので、結局X1で書いたアセンブラのゲームを他のマシンへ移植するのは互換ライブラリがあれば楽だった、ということなのだろう(今で言うPS3/X360のマルチよりたぶん楽だったと思う)。

あとナッツ&ミルクとロードランナーの発売日が7/20説と、7/28&7/31で2説あるのについては確認が取れた。当時の流通の都合で3日ずれでばらけて発売されたように見えるけれど、ハドソンの公式な発売日は7/20だそうだ。
つまり、ロードランナーがナッツ&ミルクよりも後に見えるのは、当時の流通の都合でしかない、ということだ。

僕の想像だけど、当時は流通も小売も、今のように発売日を厳密に管理していなかったので、7/20に流通に出荷され、実際に売りに出されたのがナッツ&ミルクが7/28ごろ、ロードランナーが7/31になったということなのだろう。

かくして、ハドソンのファミコンデビュー作は同日発売になったのだった。

|| 19:40 | comments (4) | trackback (0) | ||

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僕とBeepのちょっとした思い出
今日(3/8)、鶴見六百、つまり清水芋吉からツイッターで伝えられて、思わず少しつぶやいたけど、やっぱこういうことはブログとかに書いておこうと思ったので、日記がてらに、Beepから始まった、歴史としては日本最古と言っていいゲーム専門誌が休刊するということで、ちょっと思い出話などを書いておきたい。

僕が実質的にライターデビューしたのはBeepだった。
そして、Beepは僕の人生に決定的な影響を与えている。

どうして…という話を始めると複雑怪奇なのだけど、面倒くさい話をはしょって簡単にまとめると、僕が入社したベンチャー企業は漫画家の御厨さと美先生が関係していた。

そして御厨先生のプロダクションは当時ちょうどBeepの読者コーナーの仕事を請ける話になっていた。
これがYATATA WARS
今で言う読者参加型ゲームの走りみたいなものだけど、当時はそこらへんをうまくシステム化できなくて、イマイチ盛り上がらなかったのは残念なところだ(読者コーナーとしては結構盛り上がった)。
僕はログインでゲームを出したことなどもあり「YATATA WARSの1コーナーとしてゲームプログラムを載せないか?」と言われたのが、ライター経歴の本格的なスタートだった。

そして僕のコーナーは、毎号プログラムを載せ、その解説を書くスタイルで始まったのだけど、これが結構人気があったらしく「ヤタタウォーズが終わった後も、コーナーは続けない?」といわれて、ヤタタウォーズが終了してからあとも、独立した連載コーナーとしてBeepの中で生き延びることになった。

こうして独立したコーナーになったのだけど、しばらくして「プログラムだけじゃなくて、ゲームのレビュー書いていいですかね?」と聞いたところ「どうぞ、どうぞ」というので、ちょっとゲームをレビューした。
そしたら、これがアンケートがよかったらしく、当時の担当から「ゲームのレビューの人気があるから、そっちを中心にしませんか」といわれ、ゲームのレビュー&評論コーナーになっていった。
それで、Beep!メガドライブになるまで、僕はBeepに書いていくことになったわけだ。

ところでBeepはライターがほとんど遊び感覚だったから、本当に面白くて、撮影するためにみんなで暗室でMSXのグラディウス2を一晩中攻略してたり、ロックマンやってハマりまくったり、芋吉が「1日一回、ファンタジーゾーン!」とか言いながら、クリアしてたり、誰だったか忘れたけど「ジェニージェニー」ってわめきながらプレイしてたり、全くどうかしてる編集部だった。

この偶然の積み重ねは続いていく。
1986年、ヤタタウォーズ(と、あと攻略本なんか)で知り合いの編集だったSKさんが、角川メディアオフィス(KMO)でマル勝ファミコンの立ち上げに関係することになった。そして、この関係で、86年の後半ぐらいからKMOで仕事をするようになる。
1987年に、そのSKさんから「ハドソンがゲーム作れるやつ探してるんだけど、企画しない?」といわれ、ハドソンに行って中本さんと会い、会社を辞めてゲーム屋になることを決める。
1988年に、ハドソンに行って、僕はゲームを作るプロの方に立つことになり、今にいたる筋道の決定的な線が引かれることになった。

もちろん1984年のBeepよりもずっと前から、この偶然の積み重ねは続いてる。
そして、88年よりあとにもやっぱりたくさんあって、そんな偶然の積み重ねばかりで僕の人生は出来上がっているけれど、それでも84年のBeepと88年のハドソンは、自分の人生を決定的に変えた大きなポイントに挙げる場所なのは間違いない。

そして人生の大きなポイントになったBeepとハドソンが、同じ年に似たタイミングでなくなることに、信じがたい不思議な運命を感じてしまうとともに、一時代の終わりをしみじみと感じているのだった。

|| 18:24 | comments (5) | trackback (0) | ||

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ハドソンがファミコンに参入するまで(5/終)
これは1983年春に始まり、1984年7月に終わる、ハドソンが史上初のサードパーティとして、ファミコンに参入するときの物語だ
たくさんの当時の(がつくのが残念だが)ハドソンの方の協力を得て、ほぼ正しい歴史として記述できていると思いたい。
ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは分かるのはいやだ」といわれてしまったので、最初に名前を出してしまった野沢さん以外はハドソン関係者、ということで伏せておきたい。

さて本文。
1983年の秋までファミコンの売れ行きを見たハドソンは、これならイケるということで、サードパーティとしてファミコンに参入するべく、まずファミコンソフトの開発ツールを開発してから、任天堂との交渉に臨むことにした。


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|| 18:38 | comments (7) | trackback (0) | ||

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