2012-02-15 Wed [ 昔のこと::ハドソン関係 ]
これは1983年春に始まり、1984年7月に終わる、ハドソンが史上初のサードパーティとして、ファミコンに参入するときの物語だ。
たくさんの当時の(がつくのが残念だが)ハドソンの方の協力を得て、ほぼ正しい歴史として記述できていると思いたい。
ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは分かるのはいやだ」といわれてしまったので、最初に名前を出してしまった野沢さん以外はハドソン関係者、ということで伏せておきたい。
さて本文。
1983年の秋までファミコンの売れ行きを見たハドソンは、これならイケるということで、サードパーティとしてファミコンに参入するべく、まずファミコンソフトの開発ツールを開発してから、任天堂との交渉に臨むことにした。
複数のハドソンの関係者によると、任天堂とハドソンの交渉があったのはハドソンが開発ツールを完成してから後の1983年末頃のことだったらしい。
つまりソフトを製作する準備は出来た、そこで交渉しようということだったようだ。
交渉自体は非常にすんなりとまとまり、これといった大きな難点はなかったと全員の話が一致している。
■ハドソン関係者
■野沢さん
まず誰でももつ疑問が「任天堂が拒否する」は考えなかったのか? だろう。
だけど、普通に考えれば任天堂が拒否する理由はないと当時のハドソンは考えていたと思う。
なぜなら、第一にハドソンは外注という形ではあっても、シャープの仲介で実際にすでにソフトを作っている。つまり知らない仲ではない。だいたい最初にシャープに紹介されているのだから、任天堂としても断りにくいのは当たり前だ。さらに仮に拒否されたらハドソンはサードパーティとして勝手に活動を始めた可能性も十分にあったと思う。
また、当時の任天堂側では「ファミコンのソフトだから任天堂のものだと思われる」とか、商品サポートが任天堂にくるといった問題は少しは考えたと思うが、別段作ってもらって何か不都合があるとは思えなかったろう。
ROMの生産を任天堂がするにしても、その代金をハドソンが支払えば問題はないし、任天堂にとっては収入源が増えるだけの話だ。このあとファミコンブームがやってきて大変なことになるなんて想像もしていなかったはずで(ついでに書くなら、これが以後の任天堂の企業のあり方すら全く変えてしまうことになるなんてもちろん全く考えていなかったのは賭けてもいい)、疑いもなく「お金払ってくれて、作ってくれる分にはうれしい話だねえ」で終わりだったと思う。
実はこれは史上初のコンソールゲームの生産委託契約、いわゆるコンソールゲームの商慣行が出来た瞬間だったのだけど、これがとんでもなく重要な、コンソールゲーム事業をハードメーカーが続けていくための柱になり、ほぼ30年経っても続くとは当時の誰も想像しなかったのは間違いない。
だいたい当の任天堂からして、ファミコンは任天堂の商品であり、その上に載るものだから「ウチの製品で商売するんだから、少しお金はもらいましょうか」っていう程度でしかなかったと思う。
ところでハドソンが任天堂と交渉をしたとき、仮に任天堂が拒否していたらどうなっていたのか?
これは全くの歴史のifでしかないけれど、仮に拒否していたら、それはたぶんサードパーティ拒否ということだし、すなわちナムコも拒否されただろうことを意味している。
そう考えると、もしかしたらセガが勝利したコンソールゲーム業界になっていたのかも知れないし、ハドソンが勝手にサードパーティとして参入して、PCのようなタイプの業界になっていた可能性もある。それともハドソンかナムコが参入した挙句に、任天堂が訴え、結果としてまた違ったコンソールゲーム業界が出来ていた可能性もある。
いずれにしても今のコンソールゲーム業界自体が全く別のものになっていたのではないか…と十二分に想像できてしまうわけで、まさに現在に至るテレビゲームの歴史が決定したと、間違いなく断言できる瞬間の一つだ。
そして交渉がまとまった後、1984年の正月から、ハドソン東京で中本さんはファミコンのゲームを書き始めた。
■ハドソン関係者
■野沢さん
つまり、最初に書かれたのはロードランナーだったのだ。
ところで開発経緯については、僕も中本さんから聞いたので覚えてる。
中本さんが言ってたことを、ハドソンの人たちの証言と自分の記憶を元にまとめると以下のとおり。
■中本さんが言ったと記憶してること
中本さんは「仕事の90%は圧縮をやってた気がする」と言ってた。
そりゃそうだw
ちなみに16キロはプログラムのみでそれとは別にキャラROMがあり、キャラクタはそちらのほうに載っていたのでプログラムのサイズに影響は与えていないのだけど、この移植を1984年の初頭にやっていたとは驚きだ。
ところでロードランナーはブローダーボンドの作品だから、版権交渉がある。
では交渉はというと、これまたとてもスムースに進んだらしい。
■ハドソン関係者
石原さんというひとは、ハドソンUSAの人だったらしい。初代の支店長みたいな人に竹部さんが…と書いたけれど、どうやら竹部さんはハドソンUSAがNESなどで急拡大したときに赴任したということらしい。
ちなみにハドソンからは、このあとブローダーボンドがらみでは、チャンピオンシップロードランナーとバンゲリングベイが発売される。
■野沢さん
そしてこのバンゲリングベイは「2コンのマイクにハドソーンと叫ぶCM」で、ハドソンの名前の認知度を上げると同時にマイクの使い方をうまく説明して大ヒットするのだけど、ちなみにハドソンでなくとも、マイクをがりがり上からこするだけで同じ効果が得られるのだけど、宣伝としてはスゴい以外の何者でもない。
この宣伝を考えたのは、当時、宣伝の頭だった大里幸夫さんだったと聞いたけれど、これが本当かは知らない。直接たずねたいところなのだけどFBにもTwitterにもおられないのだ。
と、少し先走ってしまったが、84年の冬、札幌でも、ツールが完成したということで、野沢勝広&菊田政昭コンビで「ナッツ&ミルク」が製作されていた。これは野沢さんがたぶんツールやハードウェアのサポートを札幌で行い、菊田さんがプログラムを組んだということだと思う。
■ハドソン関係者
このナッツ&ミルクの件は、関係者の記憶は少々あやふやで「ブローダーボンドの版権がらみの交渉がうまくいかないときに備えてバックアップ的にスタートした」、「ロードランナーが危なくなったときに備えて」、「最初から2本出す予定のうちの一本でキャラがかわいい系を狙った」などなどの話があったのだけど、総合すると上の話が一番真実に近いっぽい。
いずれにしてもロードランナーとナッツ&ミルクは1984年の正月あたりからコーディングが開始され、3月あたりにはほぼ完成し、営業で問屋回りをすることになった。
当時のハドソンはなんせ小さなソフトハウスで、営業も弱かったはずだし、だいたいおもちゃ流通は何も知らないんだから、めちゃくちゃ苦労したと思う。なんにしても初心会問屋をめぐって、注文をかき集めたらしい。
このとき、問屋相手に完成品を見せたのかどうかは分からない。だれも覚えてないのだ。
■ハドソン関係者
散々苦労はしたようだけれど、ハドソンは注文を十二分に集め、銀行に注文書を見せることで、入る売り上げを納得させて資金を借りることに成功した。
そして、1984年5月、平和島で行われたマイコンショーで、当時の任天堂の総務部長だった今西絋史氏と会って、支払いが行われ、最終的に生産委託が行われることになった。
■ハドソン関係者
この話は僕も聞いた。
札幌のすすき野の中本さんが大好きな飲み屋が2軒あり、片方はザ・ロイヤルだったのだけど、そっちじゃない静かな方で飲みながら「あんときゃ頭きた」ってボヤいてたのを思い出す。
なお、マイコンショーは確か5月のゴールデンウイークに行われていた記憶があるので、発売までのリードタイムは約3ヶ月だったことになる。
こうして、ついに史上初のサードパーティ、ハドソンのソフトが発売されることになった。
1984年7月28日、ナッツ&ミルク発売。
1984年7月31日、ロードランナー
疑いもなく、この2本はコンソールゲーム史上に名を残すべき2本で、そしてこの日付はゲーム史に特筆されるべき日付なのだが…どうして順番がこうなったのか、理由は誰も覚えていなかった。なぜ3日ずれているのかも全く分からなかった。
思い出せるものなら、思い出して欲しい。
1984年9月7日、ギャラクシアン(ナムコ)
ハドソンの初参入から約1ヶ月経ってナムコが、ファミコンで二番目のサードパーティとして参入(参入名はナムコット)。
1984年11月2日、4人打ち麻雀(任天堂)
どうして、これがここあるのかというと…
■ハドソン関係者
1984年11月2日、パックマン
1984年11月8日、ゼビウス
1984年11月14日、マッピー
個人的意見だけど、まさにこの1984年末が「ご家庭でテレビに何が繋がるか?」の第一次の戦争でテレビゲームが繋がります、ホームコンピュータは繋がりませんになった瞬間、つまりMSXの敗北が決定した瞬間だったと思う。
もともとアーケードスタイルのゲームでは勝負になっていなかったけれど、1年前(アーケード版は1983年)にアーケードで発売された、あのゼビウスが、アンドアジェネスが地面にへばりついているのはともかく、プレイ出来るのは、あまりに絶大に威力があった。
1985年2月11日、エクセリオン(ジャレコ)
1985年2月22日、バンゲリングベイ
1985年4月17日、スペースインベーダー(タイトー)
1985年4月22日、イー・アール・カンフー(コナミ)
1985年6月14日、FLAPPY(デービーソフト)
次から次へとサードパーティのソフトも発売され始める。
この発売の時期から察するにハドソンの話を聞いて開発を始めたのだと思われる。
1985年6月28日、スターフォース
テーカン(後、テクモ>コーエーテクモ)のアーケードの縦スクロールシューティングをハドソンが移植したもの。
発売から約3週間後の1985年7月20日から第一回全国キャラバン(高橋名人もすでにいたはず)が始まり、以後、10年以上続くことになる全国キャラバンの始まりを告げる作品になる。
1985年7月、ファミリーコンピューターMagazine(徳間書店)発刊
途方もない勢いでファミコンブームは加速しはじめ、次から次へとアーケードメーカー・パソコンソフトハウスがファミコン参入の名乗りを上げ、サードパーティの数はたちまち膨れ上がっていく。あわせて攻略本・ゲーム雑誌など周辺ビジネスも一気に立ち上がり、コンソールゲーム業界はたちまちのうちに巨大化していく。
そして…
1985年8月6日、ドルアーガの塔
1985年9月13日、スーパーマリオブラザース発売。
コンソールゲームが、ゲームの王者として君臨する30年が始まろうとしていた。
たくさんの当時の(がつくのが残念だが)ハドソンの方の協力を得て、ほぼ正しい歴史として記述できていると思いたい。
ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは分かるのはいやだ」といわれてしまったので、最初に名前を出してしまった野沢さん以外はハドソン関係者、ということで伏せておきたい。
さて本文。
1983年の秋までファミコンの売れ行きを見たハドソンは、これならイケるということで、サードパーティとしてファミコンに参入するべく、まずファミコンソフトの開発ツールを開発してから、任天堂との交渉に臨むことにした。
複数のハドソンの関係者によると、任天堂とハドソンの交渉があったのはハドソンが開発ツールを完成してから後の1983年末頃のことだったらしい。
つまりソフトを製作する準備は出来た、そこで交渉しようということだったようだ。
交渉自体は非常にすんなりとまとまり、これといった大きな難点はなかったと全員の話が一致している。
■ハドソン関係者
確か1983年の終わり頃に交渉自体は成立して、参入の話になったと思う。
任天堂の条件自体はとても簡単で、製造開始時に半金を支払って、ROMカセットの納品時に残り半金を払えというものだった。任天堂の条件はお金の事だけで、何を作るかは問われなかった。
任天堂の条件自体はとても簡単で、製造開始時に半金を支払って、ROMカセットの納品時に残り半金を払えというものだった。任天堂の条件はお金の事だけで、何を作るかは問われなかった。
■野沢さん
参入障壁としてROMをオーダするために発売前に数億単位で必要だった時代ですので、まさしく博打だったようだ。一度の失敗で簡単に会社が飛ぶような危険を冒すとことした。
まず誰でももつ疑問が「任天堂が拒否する」は考えなかったのか? だろう。
だけど、普通に考えれば任天堂が拒否する理由はないと当時のハドソンは考えていたと思う。
なぜなら、第一にハドソンは外注という形ではあっても、シャープの仲介で実際にすでにソフトを作っている。つまり知らない仲ではない。だいたい最初にシャープに紹介されているのだから、任天堂としても断りにくいのは当たり前だ。さらに仮に拒否されたらハドソンはサードパーティとして勝手に活動を始めた可能性も十分にあったと思う。
また、当時の任天堂側では「ファミコンのソフトだから任天堂のものだと思われる」とか、商品サポートが任天堂にくるといった問題は少しは考えたと思うが、別段作ってもらって何か不都合があるとは思えなかったろう。
ROMの生産を任天堂がするにしても、その代金をハドソンが支払えば問題はないし、任天堂にとっては収入源が増えるだけの話だ。このあとファミコンブームがやってきて大変なことになるなんて想像もしていなかったはずで(ついでに書くなら、これが以後の任天堂の企業のあり方すら全く変えてしまうことになるなんてもちろん全く考えていなかったのは賭けてもいい)、疑いもなく「お金払ってくれて、作ってくれる分にはうれしい話だねえ」で終わりだったと思う。
ちなみにファミコンのソフトなので任天堂にクレームが行く…という問題は実際に初期に発生したらしい。
当時の常識では「ファミコン=任天堂が作ったもの=その上で動くものも任天堂が作っている」なわけで、これは全くしょうがない話だった。
野沢さんは参入障壁と言っているけれど、当時のおもちゃ業界は結構現金商売だったので、その感覚で任天堂は言っただけだったのではないか…と、僕自身は思っている。
信用の出来ないところに掛売りして、穴を開けられたら大変だ。
今の一兆円の売り上げのある任天堂ではない。1983年当時の任天堂の売り上げは68億円ほど、営業収入は16億円ほど。仮に数億の穴が開いたらタダではすまないレベルで、当時の任天堂はおもちゃ業界のルールで動いていて、それがハドソン側から見ると参入障壁に見えただけ、ということではなかろうか。
当時の常識では「ファミコン=任天堂が作ったもの=その上で動くものも任天堂が作っている」なわけで、これは全くしょうがない話だった。
野沢さんは参入障壁と言っているけれど、当時のおもちゃ業界は結構現金商売だったので、その感覚で任天堂は言っただけだったのではないか…と、僕自身は思っている。
信用の出来ないところに掛売りして、穴を開けられたら大変だ。
今の一兆円の売り上げのある任天堂ではない。1983年当時の任天堂の売り上げは68億円ほど、営業収入は16億円ほど。仮に数億の穴が開いたらタダではすまないレベルで、当時の任天堂はおもちゃ業界のルールで動いていて、それがハドソン側から見ると参入障壁に見えただけ、ということではなかろうか。
実はこれは史上初のコンソールゲームの生産委託契約、いわゆるコンソールゲームの商慣行が出来た瞬間だったのだけど、これがとんでもなく重要な、コンソールゲーム事業をハードメーカーが続けていくための柱になり、ほぼ30年経っても続くとは当時の誰も想像しなかったのは間違いない。
だいたい当の任天堂からして、ファミコンは任天堂の商品であり、その上に載るものだから「ウチの製品で商売するんだから、少しお金はもらいましょうか」っていう程度でしかなかったと思う。
ところでハドソンが任天堂と交渉をしたとき、仮に任天堂が拒否していたらどうなっていたのか?
これは全くの歴史のifでしかないけれど、仮に拒否していたら、それはたぶんサードパーティ拒否ということだし、すなわちナムコも拒否されただろうことを意味している。
そう考えると、もしかしたらセガが勝利したコンソールゲーム業界になっていたのかも知れないし、ハドソンが勝手にサードパーティとして参入して、PCのようなタイプの業界になっていた可能性もある。それともハドソンかナムコが参入した挙句に、任天堂が訴え、結果としてまた違ったコンソールゲーム業界が出来ていた可能性もある。
いずれにしても今のコンソールゲーム業界自体が全く別のものになっていたのではないか…と十二分に想像できてしまうわけで、まさに現在に至るテレビゲームの歴史が決定したと、間違いなく断言できる瞬間の一つだ。
そして交渉がまとまった後、1984年の正月から、ハドソン東京で中本さんはファミコンのゲームを書き始めた。
■ハドソン関係者
中本さんがゲームを書き出したのは1984年の正月ごろから。
いきなりロードランナーからやってた。ゲームはすぐに動いたんだけど、16キロに入らなくて、圧縮に苦労してたよ。
いきなりロードランナーからやってた。ゲームはすぐに動いたんだけど、16キロに入らなくて、圧縮に苦労してたよ。
■野沢さん
米国ブローダーバンド社から版権を買った
もともとはAPPLEⅡで動いていて社長の友達がはまっていたので。
表示は完全オリジナルだけど、動作ロジックは本物のままだったのが功を奏したといわれている。
ここで登場したロボットは後のボンバーマンのキャラクタのベースになる。
(中本がデザインサボるのにたまたま採用なんだけどね)
もともとはAPPLEⅡで動いていて社長の友達がはまっていたので。
表示は完全オリジナルだけど、動作ロジックは本物のままだったのが功を奏したといわれている。
ここで登場したロボットは後のボンバーマンのキャラクタのベースになる。
(中本がデザインサボるのにたまたま採用なんだけどね)
つまり、最初に書かれたのはロードランナーだったのだ。
ところで開発経緯については、僕も中本さんから聞いたので覚えてる。
中本さんが言ってたことを、ハドソンの人たちの証言と自分の記憶を元にまとめると以下のとおり。
■中本さんが言ったと記憶してること
ブローダボンドからソースをもらったので、移植そのものは楽だった。作者はダグ・スミスだからソースはコメントはなかったけど、ものすごくきれいに出来てたので、動かすだけなら簡単だった。
ところが問題だったのはここから先。
オリジナル版はAPPLEIIのRAM48キロで動くの前提(ただしグラフィックスに高解像度モードを使っているので実際にはプログラムは32キロ以下だったはず)で、しかもディスクから毎面読み出す設計だ。
こいつを16キロバイトのROMの中に収めなくちゃいけないうえに、エディタを入れて、さらにテープへのロードセーブまで入れるのが死ぬほど大変だった。
ところが問題だったのはここから先。
オリジナル版はAPPLEIIのRAM48キロで動くの前提(ただしグラフィックスに高解像度モードを使っているので実際にはプログラムは32キロ以下だったはず)で、しかもディスクから毎面読み出す設計だ。
こいつを16キロバイトのROMの中に収めなくちゃいけないうえに、エディタを入れて、さらにテープへのロードセーブまで入れるのが死ぬほど大変だった。
中本さんは「仕事の90%は圧縮をやってた気がする」と言ってた。
そりゃそうだw
ちなみに16キロはプログラムのみでそれとは別にキャラROMがあり、キャラクタはそちらのほうに載っていたのでプログラムのサイズに影響は与えていないのだけど、この移植を1984年の初頭にやっていたとは驚きだ。
ところでロードランナーはブローダーボンドの作品だから、版権交渉がある。
では交渉はというと、これまたとてもスムースに進んだらしい。
■ハドソン関係者
版権交渉は当時英語が堪能な石原さんという方が全部やってくれましたが、特にトラブルはなくてすんなり進みましたよ。1本1ドルのロイヤリティで売る前にできばえを見せてくれというだけの簡単な条件でした。
石原さんというひとは、ハドソンUSAの人だったらしい。初代の支店長みたいな人に竹部さんが…と書いたけれど、どうやら竹部さんはハドソンUSAがNESなどで急拡大したときに赴任したということらしい。
ちなみにハドソンからは、このあとブローダーボンドがらみでは、チャンピオンシップロードランナーとバンゲリングベイが発売される。
■野沢さん
バンゲリングベイも米国ブローダーバンド社から版権を買った。
コモドール64だったかと思うが、同じ6502だったので採用
表示周りと音声関連を変更してファミコンに移植
版権を買いにいくとき野沢も行ってたよ
コモドール64だったかと思うが、同じ6502だったので採用
表示周りと音声関連を変更してファミコンに移植
版権を買いにいくとき野沢も行ってたよ
そしてこのバンゲリングベイは「2コンのマイクにハドソーンと叫ぶCM」で、ハドソンの名前の認知度を上げると同時にマイクの使い方をうまく説明して大ヒットするのだけど、ちなみにハドソンでなくとも、マイクをがりがり上からこするだけで同じ効果が得られるのだけど、宣伝としてはスゴい以外の何者でもない。
この宣伝を考えたのは、当時、宣伝の頭だった大里幸夫さんだったと聞いたけれど、これが本当かは知らない。直接たずねたいところなのだけどFBにもTwitterにもおられないのだ。
と、少し先走ってしまったが、84年の冬、札幌でも、ツールが完成したということで、野沢勝広&菊田政昭コンビで「ナッツ&ミルク」が製作されていた。これは野沢さんがたぶんツールやハードウェアのサポートを札幌で行い、菊田さんがプログラムを組んだということだと思う。
■ハドソン関係者
ナッツアンドミルクはロードランナーのコンセプトのコピーで、販売面では、ある意味ではバックアップ的な商品でした。
このナッツ&ミルクの件は、関係者の記憶は少々あやふやで「ブローダーボンドの版権がらみの交渉がうまくいかないときに備えてバックアップ的にスタートした」、「ロードランナーが危なくなったときに備えて」、「最初から2本出す予定のうちの一本でキャラがかわいい系を狙った」などなどの話があったのだけど、総合すると上の話が一番真実に近いっぽい。
いずれにしてもロードランナーとナッツ&ミルクは1984年の正月あたりからコーディングが開始され、3月あたりにはほぼ完成し、営業で問屋回りをすることになった。
当時のハドソンはなんせ小さなソフトハウスで、営業も弱かったはずだし、だいたいおもちゃ流通は何も知らないんだから、めちゃくちゃ苦労したと思う。なんにしても初心会問屋をめぐって、注文をかき集めたらしい。
このとき、問屋相手に完成品を見せたのかどうかは分からない。だれも覚えてないのだ。
■ハドソン関係者
資金繰りは本当に大変だったみたいだよ。
結局、集めた初心会問屋さん達の注文書を見せて資金を借りてきたらしい。
結局、集めた初心会問屋さん達の注文書を見せて資金を借りてきたらしい。
散々苦労はしたようだけれど、ハドソンは注文を十二分に集め、銀行に注文書を見せることで、入る売り上げを納得させて資金を借りることに成功した。
そして、1984年5月、平和島で行われたマイコンショーで、当時の任天堂の総務部長だった今西絋史氏と会って、支払いが行われ、最終的に生産委託が行われることになった。
■ハドソン関係者
中本さんが5月のマイコンショーで今西さんにROMの注文書とやっと工面した何億かの小切手を渡したら、マイコンショーのカタログを入れてある手提げ袋に無造作に突っ込まれてショックだったショックだった、ってぼやいたのを今でも覚えてるよ
この話は僕も聞いた。
札幌のすすき野の中本さんが大好きな飲み屋が2軒あり、片方はザ・ロイヤルだったのだけど、そっちじゃない静かな方で飲みながら「あんときゃ頭きた」ってボヤいてたのを思い出す。
なお、マイコンショーは確か5月のゴールデンウイークに行われていた記憶があるので、発売までのリードタイムは約3ヶ月だったことになる。
こうして、ついに史上初のサードパーティ、ハドソンのソフトが発売されることになった。
1984年7月28日、ナッツ&ミルク発売。
1984年7月31日、ロードランナー
疑いもなく、この2本はコンソールゲーム史上に名を残すべき2本で、そしてこの日付はゲーム史に特筆されるべき日付なのだが…どうして順番がこうなったのか、理由は誰も覚えていなかった。なぜ3日ずれているのかも全く分からなかった。
思い出せるものなら、思い出して欲しい。
1984年9月7日、ギャラクシアン(ナムコ)
ハドソンの初参入から約1ヶ月経ってナムコが、ファミコンで二番目のサードパーティとして参入(参入名はナムコット)。
1984年11月2日、4人打ち麻雀(任天堂)
どうして、これがここあるのかというと…
■ハドソン関係者
飛田が作ったジャン狂はX1がベースだったけど、あの頃一番多くの機種に移植されたゲームだったよ。8BitPCはほぼ全部、16BitだとPC9801やFM11、変わった所ではIBM5550、小型ゲーム機のSORD-M5、CASIOのMSXもどきやSEGAのSCやSG。任天堂の4人打ち麻雀も中身はジャン狂だよ。
1984年11月2日、パックマン
1984年11月8日、ゼビウス
1984年11月14日、マッピー
個人的意見だけど、まさにこの1984年末が「ご家庭でテレビに何が繋がるか?」の第一次の戦争でテレビゲームが繋がります、ホームコンピュータは繋がりませんになった瞬間、つまりMSXの敗北が決定した瞬間だったと思う。
もともとアーケードスタイルのゲームでは勝負になっていなかったけれど、1年前(アーケード版は1983年)にアーケードで発売された、あのゼビウスが、アンドアジェネスが地面にへばりついているのはともかく、プレイ出来るのは、あまりに絶大に威力があった。
1985年2月11日、エクセリオン(ジャレコ)
1985年2月22日、バンゲリングベイ
1985年4月17日、スペースインベーダー(タイトー)
1985年4月22日、イー・アール・カンフー(コナミ)
1985年6月14日、FLAPPY(デービーソフト)
次から次へとサードパーティのソフトも発売され始める。
この発売の時期から察するにハドソンの話を聞いて開発を始めたのだと思われる。
1985年6月28日、スターフォース
テーカン(後、テクモ>コーエーテクモ)のアーケードの縦スクロールシューティングをハドソンが移植したもの。
発売から約3週間後の1985年7月20日から第一回全国キャラバン(高橋名人もすでにいたはず)が始まり、以後、10年以上続くことになる全国キャラバンの始まりを告げる作品になる。
1985年7月、ファミリーコンピューターMagazine(徳間書店)発刊
途方もない勢いでファミコンブームは加速しはじめ、次から次へとアーケードメーカー・パソコンソフトハウスがファミコン参入の名乗りを上げ、サードパーティの数はたちまち膨れ上がっていく。あわせて攻略本・ゲーム雑誌など周辺ビジネスも一気に立ち上がり、コンソールゲーム業界はたちまちのうちに巨大化していく。
そして…
1985年8月6日、ドルアーガの塔
1985年9月13日、スーパーマリオブラザース発売。
コンソールゲームが、ゲームの王者として君臨する30年が始まろうとしていた。
(終)
コメント
ハドソンのファミコン参入の記事、非常に楽しめました
関係者各位からの内容をまとめるのはかなり大変だったと思います
これ以上のハドソン側の裏付けを取るには、あと8年程早くに…と、少々残念な気も同時にあります
ましてやファミコン以前の活動は更に記憶があやふやでしょうし
マイコン時代を見てきた自分からすると、とかくファミコン以降の世代は
ハドソンという会社を低く見ている感じがして悲しくなりますよね
時代的にいかに突出していたかを認識できる内容で心強く思います
関係者各位からの内容をまとめるのはかなり大変だったと思います
これ以上のハドソン側の裏付けを取るには、あと8年程早くに…と、少々残念な気も同時にあります
ましてやファミコン以前の活動は更に記憶があやふやでしょうし
マイコン時代を見てきた自分からすると、とかくファミコン以降の世代は
ハドソンという会社を低く見ている感じがして悲しくなりますよね
時代的にいかに突出していたかを認識できる内容で心強く思います
| tsh-tsu | EMAIL | URL | 12/03/07 22:57 | 6kR51ETo |
始めましてYosu kです。スーパーファミコンからですが、ハドソンがファミコンの最初のザードパーティになるまでの話、興味深い話を聞かせてくれました!最初はロードランナーで、あとにナッツ&ミルクが発売するということですが、あの頃のハドソンは良かった・・・。でもそろそろ解散か・・・。寂しくなりそうです。
| Yosu k | EMAIL | URL | 12/02/27 20:44 | 9umpUsbw |
大変興味深く読ませていただきました。
一般に知られている話と実際のところが違っているのは結構良くある話ですが、ここまで違っていると、なぜそういう話の伝わり方になったのかも気になってしまいます。
増補版をComic1での頒布との事ですが、1までフォロー出来ないヌルヲタの身としては、コミケでの頒布も希望したいところです。
#あるいは、評論系同人に強いComic Zin等への委託とか……
一般に知られている話と実際のところが違っているのは結構良くある話ですが、ここまで違っていると、なぜそういう話の伝わり方になったのかも気になってしまいます。
増補版をComic1での頒布との事ですが、1までフォロー出来ないヌルヲタの身としては、コミケでの頒布も希望したいところです。
#あるいは、評論系同人に強いComic Zin等への委託とか……
| yuhkan | EMAIL | URL | 12/02/18 21:17 | 0zp6B8TE |
>>atsu 様
ゼビウス・マッピーあたりのころにはパソコン雑誌が取り上げていますし、ログインなんかも結構書いてますし、Beep!もありますから、そこらへんじゃないでしょうか。
今で言う専門誌として、ファミマガを書いてしますので。
>> sobagaki 様
そのあたりは、実はまだ取材をいろいろ進めていて、4月の終わりにあるコミックイチで同人誌出したときに全部まとめきるつもりですw
>>maroko 様
それはPCエンジンでも使われたカードです。
三菱樹脂との共同開発で、MSXでも使われていました。ハドソンはそれをデファクトスタンダードにしたかったんでしょうね。
ゼビウス・マッピーあたりのころにはパソコン雑誌が取り上げていますし、ログインなんかも結構書いてますし、Beep!もありますから、そこらへんじゃないでしょうか。
今で言う専門誌として、ファミマガを書いてしますので。
>> sobagaki 様
そのあたりは、実はまだ取材をいろいろ進めていて、4月の終わりにあるコミックイチで同人誌出したときに全部まとめきるつもりですw
>>maroko 様
それはPCエンジンでも使われたカードです。
三菱樹脂との共同開発で、MSXでも使われていました。ハドソンはそれをデファクトスタンダードにしたかったんでしょうね。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 12/02/17 19:35 | b4CyEt/2 |
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080922/1018969/?rt=nocnt
日経トレンディの記事によれば、ディスクシステムももともとはハドソンが持ちかけた構想がきっかけとか。このあたりのお話も聞ければいいですね。
日経トレンディの記事によれば、ディスクシステムももともとはハドソンが持ちかけた構想がきっかけとか。このあたりのお話も聞ければいいですね。
| maroko | EMAIL | URL | 12/02/17 08:30 | fcGcIey6 |
ファミリーベーシックでファミコンに関わり、ソフト開発を始めるまでの流れ、
はじめて聞く話ばかりで非常におもしろかったです。
実際の関係者から聞いたという話は大変重みを感じます。
一方、小学生の頃に読んだ「ハドソンひみつ攻略法」(小学館刊)のマンガと、あまりにも違っていて衝撃を受けたり。
(この本、中本プログラマは高校3年間トンカツ弁当しか食べなかったとか書いてあるんですが、本当でしょうか?
ロードランナーとナッツ&ミルクが7月20日発売とか書いてあるし... )
ソフトの営業回りに関しては、高橋名人が著作「ゲームは1日1時間」や、
太田出版の「CONTINUE」誌でのインタビューで述べられていた覚えが。
やはりサードパーティの概念がなかったせいで「任天堂の機械で、勝手にゲーム作っていいの?」
「いえ、ちゃんと許可取ってますので」というやりとりがあったりしたようです。
はじめて聞く話ばかりで非常におもしろかったです。
実際の関係者から聞いたという話は大変重みを感じます。
一方、小学生の頃に読んだ「ハドソンひみつ攻略法」(小学館刊)のマンガと、あまりにも違っていて衝撃を受けたり。
(この本、中本プログラマは高校3年間トンカツ弁当しか食べなかったとか書いてあるんですが、本当でしょうか?
ロードランナーとナッツ&ミルクが7月20日発売とか書いてあるし... )
ソフトの営業回りに関しては、高橋名人が著作「ゲームは1日1時間」や、
太田出版の「CONTINUE」誌でのインタビューで述べられていた覚えが。
やはりサードパーティの概念がなかったせいで「任天堂の機械で、勝手にゲーム作っていいの?」
「いえ、ちゃんと許可取ってますので」というやりとりがあったりしたようです。
| sobagaki | EMAIL | URL | 12/02/16 00:00 | lc8QCO1Y |
ファミコンと一緒に買ってもらったのが
ロードランナーだったので、非常に感慨深い内容でした。
ゼビウス、マッピーあたりの発売決定に関しては、友人に小学校の「帰りの会」最中に
耳打ちされて知った、という記憶が鮮明に残ってるんですが(ゲーマーはまだ少なかった)、
そういえば、まだファミマガ創刊前だったんですよね。あの友人の情報源はなんだったんだろう?
MZユーザーだったので、ベーマガか何かだったんでしょうか。NGかな?
※そういえばFCドルアーガの攻略情報は、ベーマガの業務用向け攻略に頼ってた記憶がありますね。
各家庭のゲームマシンが、ぴゅう太だったり、スーパーカセットビジョンだったりで
ファミコン一色になる前の奇妙な時期だったように思います。MSXは誰々担当、とか。
ロードランナーだったので、非常に感慨深い内容でした。
ゼビウス、マッピーあたりの発売決定に関しては、友人に小学校の「帰りの会」最中に
耳打ちされて知った、という記憶が鮮明に残ってるんですが(ゲーマーはまだ少なかった)、
そういえば、まだファミマガ創刊前だったんですよね。あの友人の情報源はなんだったんだろう?
MZユーザーだったので、ベーマガか何かだったんでしょうか。NGかな?
※そういえばFCドルアーガの攻略情報は、ベーマガの業務用向け攻略に頼ってた記憶がありますね。
各家庭のゲームマシンが、ぴゅう太だったり、スーパーカセットビジョンだったりで
ファミコン一色になる前の奇妙な時期だったように思います。MSXは誰々担当、とか。
| atsu | EMAIL | URL | 12/02/15 19:22 | jB3nOvqE |
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