2011-11-13 Sun [ ゲームについて::歴史のこと ]
■そしてビジュアルノベル
弟切草が登場して、実は日本のアドベンチャゲームは大きく意味を変える。
それは日本においてアドベンチャがストーリーラインを追うゲームに明白に意味を変えたということだ。
これは極めて重要なことだ。
弟切草以前のアドベンチャはプレイヤーがマップを移動して、誰かと話したり、アイテムを拾ったり、パズルを解いたりするゲーム…いわば行動のゲームだった。
ところが弟切草では、マップを移動する必要は一切ない。行動する必要すらない。
極端な話、それが面白いかはともかくとして、誰もいない部屋で主人公が延々独り言をつぶやいているシチュエーションで
A.僕は天井を見上げしばらく黙ることにした。
B.やっぱり彼女のことをまだ考えよう
なんて選択肢が延々出てくる、一部屋で主人公の頭の中の独り言を追いかけるゲームを作ることも許される。
つまり弟切草以前のアドベンチャでは「プレイヤー(ほぼプレイヤー=ゲーム内の主人公)がマップを移動したり、アイテムを拾ったりすることで、なんらかの具体的な物理的な行動を行う、いわば外面描写のゲーム」だったが、弟切草はプレイヤー≠ゲーム内の主人公とし、プレイヤーの位置をストーリーラインをコントロールする神の視点に置くと同時に、アドベンチャゲームを「キャラクターが行動するゲームではなく、ストーリーを追うゲーム」に変身させた。
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弟切草が登場して、実は日本のアドベンチャゲームは大きく意味を変える。
それは日本においてアドベンチャがストーリーラインを追うゲームに明白に意味を変えたということだ。
これは極めて重要なことだ。
弟切草以前のアドベンチャはプレイヤーがマップを移動して、誰かと話したり、アイテムを拾ったり、パズルを解いたりするゲーム…いわば行動のゲームだった。
ところが弟切草では、マップを移動する必要は一切ない。行動する必要すらない。
極端な話、それが面白いかはともかくとして、誰もいない部屋で主人公が延々独り言をつぶやいているシチュエーションで
A.僕は天井を見上げしばらく黙ることにした。
B.やっぱり彼女のことをまだ考えよう
なんて選択肢が延々出てくる、一部屋で主人公の頭の中の独り言を追いかけるゲームを作ることも許される。
つまり弟切草以前のアドベンチャでは「プレイヤー(ほぼプレイヤー=ゲーム内の主人公)がマップを移動したり、アイテムを拾ったりすることで、なんらかの具体的な物理的な行動を行う、いわば外面描写のゲーム」だったが、弟切草はプレイヤー≠ゲーム内の主人公とし、プレイヤーの位置をストーリーラインをコントロールする神の視点に置くと同時に、アドベンチャゲームを「キャラクターが行動するゲームではなく、ストーリーを追うゲーム」に変身させた。
ただし弟切草では、まだプレイヤーと主人公の分離は曖昧。またノベル系アドベンチャでは、プレイヤーの感情移入を促すための方便として1人称を使い、意図的にこの分離を曖昧にしていることが多い。
さらに追記すると、弟切草では、まだ従来のマップを移動する感は残っている。これがほぼ完全になくなるのはサウンド/ビジュアルノベル史上のエピック、『街』(1998/チュンソフト/セガサターン)が初めて、と考えていい。
さらに追記すると、弟切草では、まだ従来のマップを移動する感は残っている。これがほぼ完全になくなるのはサウンド/ビジュアルノベル史上のエピック、『街』(1998/チュンソフト/セガサターン)が初めて、と考えていい。
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2011-10-25 Tue [ ゲームについて::歴史のこと ]
続き。やたら長いうえに、どんどん書き直しが増えてきて手間3倍増w
■アドベンチャの復興、そして…
こうして消滅したかに見えた日本でのアドベンチャが復活を始めたのは、まずPCエンジンの登場による。
(一部アダルトゲーム系では確かにアドベンチャは生き延びていたが、それは単純に絵を大きく見せるためと低予算なゲームを作るためでしかなかったので、現時点では無視する。ただし、この低予算とある要素が結びついて違った形のゲームを最終的には生み出すことになるが、それはあとの話だ)。
というのもPCエンジンには、今までにはない巨大な容量を誇るメディア、CDROMが搭載されており、これにより、今までのゲームでは不可能だった莫大な量のグラフィックとオーディオを使用したアドベンチャを作ることが可能になったのだ(なお、PCエンジンは世界初のCDROM搭載ゲームマシンでもある)。
具体的にはハドソンのデジタルコミック(名前はデジタルコミックではないが、実質的には『コブラ 黒竜王の伝説』から)によってアドベンチャは復活を始めるのだが、では、このスタイルはどのような物だったのか?
実はこれはゲーム的にはほとんど見る物は何もない物だった。
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■アドベンチャの復興、そして…
こうして消滅したかに見えた日本でのアドベンチャが復活を始めたのは、まずPCエンジンの登場による。
(一部アダルトゲーム系では確かにアドベンチャは生き延びていたが、それは単純に絵を大きく見せるためと低予算なゲームを作るためでしかなかったので、現時点では無視する。ただし、この低予算とある要素が結びついて違った形のゲームを最終的には生み出すことになるが、それはあとの話だ)。
というのもPCエンジンには、今までにはない巨大な容量を誇るメディア、CDROMが搭載されており、これにより、今までのゲームでは不可能だった莫大な量のグラフィックとオーディオを使用したアドベンチャを作ることが可能になったのだ(なお、PCエンジンは世界初のCDROM搭載ゲームマシンでもある)。
具体的にはハドソンのデジタルコミック(名前はデジタルコミックではないが、実質的には『コブラ 黒竜王の伝説』から)によってアドベンチャは復活を始めるのだが、では、このスタイルはどのような物だったのか?
実はこれはゲーム的にはほとんど見る物は何もない物だった。
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2011-10-19 Wed [ ゲームについて::歴史のこと ]
■日本のアドベンチャの第一次黎明~衰退期
さて、アメリカでのアドベンチャブームを受けて、日本でもアドベンチャが登場することになる。
登場したのは1982年4月と思われる。思われる…というのは、文献や資料が不足で、自分の記憶ではということだから。
その日本初(と思われる)アドベンチャは、フルテキストの『表参道アドベンチャ』という、PC-8001用のアスキーの増刊に発表されたゲームだ。少なくとも、僕はコレよりも前に日本製の「Adventure Game」をプレイした記憶はない。また商用Adventure Gameの嚆矢がアメリカでは1980年の"Mystery House"で、Infocomの"Zork 1"が1981、IBM-PC用のマイクロソフトのテキストアドベンチャ"microsoft Adventure"が1981。
ア・スキーのこれは1982年4月と考えると、ほぼ「最新のゲーム」なわけで、これより以前に日本製のアドベンチャゲームがあった可能性は極めて低いと思う(雑誌の当時の〆切を考えると、完成は1982年の2月だったと思われるので、アメリカから1年遅れていないわけだからスゴいものだ)。
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さて、アメリカでのアドベンチャブームを受けて、日本でもアドベンチャが登場することになる。
登場したのは1982年4月と思われる。思われる…というのは、文献や資料が不足で、自分の記憶ではということだから。
その日本初(と思われる)アドベンチャは、フルテキストの『表参道アドベンチャ』という、PC-8001用のアスキーの増刊に発表されたゲームだ。少なくとも、僕はコレよりも前に日本製の「Adventure Game」をプレイした記憶はない。また商用Adventure Gameの嚆矢がアメリカでは1980年の"Mystery House"で、Infocomの"Zork 1"が1981、IBM-PC用のマイクロソフトのテキストアドベンチャ"microsoft Adventure"が1981。
ア・スキーのこれは1982年4月と考えると、ほぼ「最新のゲーム」なわけで、これより以前に日本製のアドベンチャゲームがあった可能性は極めて低いと思う(雑誌の当時の〆切を考えると、完成は1982年の2月だったと思われるので、アメリカから1年遅れていないわけだからスゴいものだ)。
余談に近い内容だが、勘違いしやすいので書いておく。
この掲載された増刊は"年間Ah!Ski"。後に年間ア・スキーがエイプリルフール増刊号として本当に発売されるようになるが、最初のうちは雑誌内雑誌で、表参道アドベンチャが掲載された号ももちろん雑誌内雑誌だ。ちなみに第一号は1981年で"EARTH TREK"が掲載されていたりする。
またプログラムはアセンブラのダンプリストを入力しなければならなかったのだけど、これがとんでもない最密充填ダンプリストとかいう代物で、入力は超きつかったのだけど、このダンプリストで初めて"Check sum"が登場した気がするのだけど、ここらへんをフォロー出来る人はいないだろうか…いないよなあ。
またこの次のア・スキーでは「南青山アドベンチャ」という名前の新しいゲームが登場するのだけど、これは当時出たところだったrogue likeな表示が行われている。作者はrogueの影響を受けた可能性が少しはある気はする(だがSTAR TREKのショートレンジセンサーであった可能性も否定出来ないw)。
またIBM-PC用に発売されたmicrosoft adventureは「海外ではビジネス用に発売されたハードでも知的に楽しめるアドベンチャが発売されるのだ」というような内容の記事がアスキーに書かれたりした。
この掲載された増刊は"年間Ah!Ski"。後に年間ア・スキーがエイプリルフール増刊号として本当に発売されるようになるが、最初のうちは雑誌内雑誌で、表参道アドベンチャが掲載された号ももちろん雑誌内雑誌だ。ちなみに第一号は1981年で"EARTH TREK"が掲載されていたりする。
またプログラムはアセンブラのダンプリストを入力しなければならなかったのだけど、これがとんでもない最密充填ダンプリストとかいう代物で、入力は超きつかったのだけど、このダンプリストで初めて"Check sum"が登場した気がするのだけど、ここらへんをフォロー出来る人はいないだろうか…いないよなあ。
またこの次のア・スキーでは「南青山アドベンチャ」という名前の新しいゲームが登場するのだけど、これは当時出たところだったrogue likeな表示が行われている。作者はrogueの影響を受けた可能性が少しはある気はする(だがSTAR TREKのショートレンジセンサーであった可能性も否定出来ないw)。
またIBM-PC用に発売されたmicrosoft adventureは「海外ではビジネス用に発売されたハードでも知的に楽しめるアドベンチャが発売されるのだ」というような内容の記事がアスキーに書かれたりした。
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2011-10-16 Sun [ ゲームについて::歴史のこと ]
遥か遠い昔に書いたadventureに関する歴史の文が出てきたので、今の最新の知識でアップデートして、再度公開するココロミ。
歴史の中身としては"Text Adventure"から"Graphic Adventure"が登場し、これが日本にやってきて最終的にサウンドノベルやビジュアルノベルに至るまでの話。バイオハザードの文を書いたときの副産物だったりする。
■1970年代初頭-パソコン以前
もともと――コンピュータゲームが出てきたのは1970年代初頭。
その頃のコンピュータは、今の電卓よりマシンパワーがない代物だった。
だいたいUNIX(とおっても有名なOS。linuxのご先祖様)からして、RAMが16キロバイト(間違いではないぞよ)、ハードディスクが10メガバイト(同じく間違いではないぞよ)とか、まあ信じられないほどショボいハードの上で動いていたぐらいなのだ。
このハードウェア構成で想像がつくとおり、当時のコンピュータゲームはまずミニコン(ミニコンピュータの略。小さくはないコンピュータってな意味合い)~大型コンピュータの上で動作する、一部の研究者、特にアメリカの大学の研究者のもので、そしてグラフィックもなければ音もない(あったとしてもbeep音の『ピッ』止まり)、テレタイプというプリンタの化け物のようなものを介してプレイされる代物だった(UNIXの"/dev/tty"なんてのは、このテレタイプの略だったりする)。
1981年に登場した"rogue"はテレタイプではなくTV端末を利用する"@"がマイキャラ、"D"とかがモンスター、"+"や"-"や"|"が迷路の構成パーツなんて具合に文字で状況を表現するRPGだが、この貧弱なグラフィックですら、マニュアルに大半のUNIXのゲームよりもビジュアル指向であるなんて書いてあるほどだ。
他のソフトは推して知るべし。
グラフィック的にはないも同然のお寒い限りの代物だったのだ。
この大学で研究が行われるぐらいにコンピュータがメジャーになってはいるけれど、マシンは非力だった1970年代半ばに登場したのがテーブルトーク"RPG"って奴だ。
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歴史の中身としては"Text Adventure"から"Graphic Adventure"が登場し、これが日本にやってきて最終的にサウンドノベルやビジュアルノベルに至るまでの話。バイオハザードの文を書いたときの副産物だったりする。
■1970年代初頭-パソコン以前
もともと――コンピュータゲームが出てきたのは1970年代初頭。
その頃のコンピュータは、今の電卓よりマシンパワーがない代物だった。
だいたいUNIX(とおっても有名なOS。linuxのご先祖様)からして、RAMが16キロバイト(間違いではないぞよ)、ハードディスクが10メガバイト(同じく間違いではないぞよ)とか、まあ信じられないほどショボいハードの上で動いていたぐらいなのだ。
このハードウェア構成で想像がつくとおり、当時のコンピュータゲームはまずミニコン(ミニコンピュータの略。小さくはないコンピュータってな意味合い)~大型コンピュータの上で動作する、一部の研究者、特にアメリカの大学の研究者のもので、そしてグラフィックもなければ音もない(あったとしてもbeep音の『ピッ』止まり)、テレタイプというプリンタの化け物のようなものを介してプレイされる代物だった(UNIXの"/dev/tty"なんてのは、このテレタイプの略だったりする)。
1981年に登場した"rogue"はテレタイプではなくTV端末を利用する"@"がマイキャラ、"D"とかがモンスター、"+"や"-"や"|"が迷路の構成パーツなんて具合に文字で状況を表現するRPGだが、この貧弱なグラフィックですら、マニュアルに大半のUNIXのゲームよりもビジュアル指向であるなんて書いてあるほどだ。
他のソフトは推して知るべし。
グラフィック的にはないも同然のお寒い限りの代物だったのだ。
この大学で研究が行われるぐらいにコンピュータがメジャーになってはいるけれど、マシンは非力だった1970年代半ばに登場したのがテーブルトーク"RPG"って奴だ。
ちなみに勘違いされないうちにはっきりさせておくが、テーブルトークRPGは日本でコンピュータRPGとそうでない紙と鉛筆で行われるRPGを区別するために作られた言葉である。
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2011-09-29 Thu [ ゲームについて::歴史のこと ]
教養のゲーム史について書いたとき、ちょっとカーレースについて触れたら、もっとカーレース…特に2D時代のセガとタイトーのカーレース黎明期のつばぜり合いについて書いておきたくなったので、ここに記しておく。
この話は、僕が9歳からスタートし、最後は18-9歳あたりまで続く、当時2つのゲームメーカーがカーレースについて張り合っていたら、そこに第三のメーカーが現れ、あっつーまにジャンルそのものが過去の遺物になってしまうまでの物語だ。
さて。
僕がテレビゲームと出会ったのは、1973年。2泊3日のハワイ旅行のホテルだった。
小学校4年の夏休みだったので、多分10歳になっていたのだろうと思う。
ホテルに置かれていたのは PONG! 。ただしアップライトではなくカクテル筐体バージョンだった。カクテル筐体だったので上がスモークの茶色のアクリルになっていて、恐ろしくハイテクな印象だった。これがATARIのオリジナルなのか、それともATARI コピーだったのかは残念ながら覚えていないが、ハワイの海よりこのゲームの事を良く覚えているのだから、よほど衝撃的だったのだろう。
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この話は、僕が9歳からスタートし、最後は18-9歳あたりまで続く、当時2つのゲームメーカーがカーレースについて張り合っていたら、そこに第三のメーカーが現れ、あっつーまにジャンルそのものが過去の遺物になってしまうまでの物語だ。
さて。
僕がテレビゲームと出会ったのは、1973年。2泊3日のハワイ旅行のホテルだった。
小学校4年の夏休みだったので、多分10歳になっていたのだろうと思う。
ホテルに置かれていたのは PONG! 。ただしアップライトではなくカクテル筐体バージョンだった。カクテル筐体だったので上がスモークの茶色のアクリルになっていて、恐ろしくハイテクな印象だった。これがATARIのオリジナルなのか、それともATARI コピーだったのかは残念ながら覚えていないが、ハワイの海よりこのゲームの事を良く覚えているのだから、よほど衝撃的だったのだろう。
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