2011-11-13 Sun [ ゲームについて::歴史のこと ]
■そしてビジュアルノベル
弟切草が登場して、実は日本のアドベンチャゲームは大きく意味を変える。
それは日本においてアドベンチャがストーリーラインを追うゲームに明白に意味を変えたということだ。
これは極めて重要なことだ。
弟切草以前のアドベンチャはプレイヤーがマップを移動して、誰かと話したり、アイテムを拾ったり、パズルを解いたりするゲーム…いわば行動のゲームだった。
ところが弟切草では、マップを移動する必要は一切ない。行動する必要すらない。
極端な話、それが面白いかはともかくとして、誰もいない部屋で主人公が延々独り言をつぶやいているシチュエーションで
A.僕は天井を見上げしばらく黙ることにした。
B.やっぱり彼女のことをまだ考えよう
なんて選択肢が延々出てくる、一部屋で主人公の頭の中の独り言を追いかけるゲームを作ることも許される。
つまり弟切草以前のアドベンチャでは「プレイヤー(ほぼプレイヤー=ゲーム内の主人公)がマップを移動したり、アイテムを拾ったりすることで、なんらかの具体的な物理的な行動を行う、いわば外面描写のゲーム」だったが、弟切草はプレイヤー≠ゲーム内の主人公とし、プレイヤーの位置をストーリーラインをコントロールする神の視点に置くと同時に、アドベンチャゲームを「キャラクターが行動するゲームではなく、ストーリーを追うゲーム」に変身させた。
そして、ここで日本のアドベンチャは欧米のアドベンチャと決定的に分かれることになった。
欧米のアドベンチャゲームはバイオハザードの項目でも書いたとおり、テキストベースからキングスクエスト→アローン(バイオハザード)方式と、ミステリーハウス型グラフィックアドベンチャからテキストを出来るだけ排除したスタイルで描く"MYST"方式の2つに集約されていき、日本のような「徹底的にストーリーラインを追うことに特化したスタイルのゲーム」は今に至るまでアドベンチャとしては登場することはなかった(また日本でもコンソール発のアドベンチャは海外と同じ型が多い。なぜそうなのかといえばもちろんバイオハザードの項目で書いたとおり、バイオハザードの大成功によるのである)。
言い換えるなら、弟切草の登場により日本のアドベンチャゲームはアメリカ発のオリジナルの影響から全く離れた、完全な独自のモノになったと考えていい。
だが、弟切草をコピーしたゲームはそれなりにSFCなどでも現れたが、コンソールでは大きな潮流になることはなかった。
これには理由はいくつかある。
まず、当時のSFCユーザー…というかコンソールゲームにとってのメインコンテンツはRPGであり、格闘ゲームであり、アクションゲームであり、どちらかというとテキストを読む文化は異端だった、というのがひとつ。
そして、もうひとつは…これは大きかったと思われるのが1画面に表示できる文字量とフォントの質。
当時の家庭用ゲームマシンの解像度はせいぜい横256~高解像度でも384程度。それなりに読めるテキストなら、横16文字以下とかで、1画面あたりに入る文字量が少なすぎたし、フォントもガタガタで読みやすいとは言いがたいものだった(少なくともキレイとはいえない)。
つまり、あまり文字を読むユーザーがいないうえに、文字を読むのを好む人たちには、イマイチアピールしきれないのがSFCなどでのサウンドのベルの実態だったのだ。
だが、これが極めて大きなジャンルになったのがPCゲーム、具体的にはアダルトゲームだった。
まずアダルトゲームはPCがターゲットで、PCはRGBモニタとワープロなどの実用要素から、当たり前だが、漢字かな混じり文で横40文字ぐらいは出せるのが普通で、かつ漢字も問題なく使えたので、テキスト的な問題は極めて少なかったハードウェア的な部分を前提にしたうえで、1992年当時からことを書いていこう。
アダルトゲームは大きく分けると、弟切草当時(1992)は主流は(従来型)アドベンチャゲームと「それ以外のジャンル」だった。
これがエルフの同級生1(1992)で「極めてストーリーラインが強い、ドラマチックなゲーム」がアダルトゲームで成り立つ、ということがわかり、そしてそのさらに延長の同級生2(1995)の大ヒットで「ドラマのあるゲーム」にアダルトゲームは一気にシフトする。
そして、この同級生2の発売される少し前に、サウンドノベルの第2弾「かまいたちの夜」(1994)が発売されていた。
この2つの流れ、つまりドラマ重視のアダルトゲームと「全画面にテキストが表示されるサウンドノベル形式」を組みあわせて、ビジュアルノベルという名前で発表されたのが『雫』(1996/Leaf)だ。とはいっても、これと次作『痕(きずあと)』(1996)は、同人誌の作者などの一部のコアなファンの間で話題となるが、大ヒットとは間違ってもいえない状態だった。
これを劇的に変化させたのが『To Heart』(1997)。
これはPC用ソフトとしてはとんでもない大ヒットをし、PCゲームの世界に弟切草から登場した<読むスタイル>を完全に定着させ、主流にのし上げる原動力になる(と同時にドジっこメイドロボを一般化したオーソリティだと思うが)。
そして、これは実はアダルトゲームメーカーにとっては信じられないぐらいありがたいことだった。
というのも、この手のノベル型ゲームはいいシナリオを書けるシナリオライター、それなりの実力のある絵描き、それなりのスクリプトエンジン(ゲームエンジンの一種)がそろえば制作することが可能(音楽は完全に外注が可能なもの)、言い換えるなら比較的低価格(少人数)で制作することができる。
そしてアダルトゲームメーカーの大半は本質的には少人数の会社であり、体力がない。
だからアダルトゲームメーカーにとって、このノベル形式は福音だった。
なにせジャンルもなにも、なんでもありで小説っぽい読ませる方向性で、比較的低価格にゲームを作れるのだから当たり前だ。そしてアダルトゲームにおいてノベル形式は恐ろしく一般化することになり、現在でも間違いなく主流だが、この10年ちょっとで驚くべき変化を「ノベルゲーム」は起こすことになる。
ノベルゲームはテキストを読ませるゲームで、ストーリーラインを追うゲームだ。
もう少し正確に書くなら「ストーリーラインをテキストで追いながら、ユーザーをグラフィックとオーディオで盛り上げる」ゲームといえる。
そのためストーリー上、分岐する必要がないところでは分岐せずにストーリーは進むことになる(まさにクリックゲームだw)。だから、例えば、画面数換算で数十画面も選択肢が存在しないゲームなんてものが成り立ちうるし、実際に普通に売られている。
では、これが極限まで進むとどうなるのか?
選択肢がない、という選択がありえることになる。
これを果たして「ゲーム」と呼ぶのか? と質問されたら、僕の定義からは違う。
なぜなら、僕の定義ではゲームは「最低限、なんらかの理解可能な(論理的な)ルールを持ち、そのルールに基づいたユーザーの選択がある」というものなので、この最低限のルール、選択がなくなってしまう。
これは故・多摩豊氏と結構議論した話題で、僕は最終的には2時間の映画の一番最後にひとつ選択肢があり、それを選択するとで変化が生まれるなら、それはゲームだが、これがないものはゲームでない、つまりユーザーに(続きを読まない以外の)選択が委ねられている部分がひとつでもなければ、ゲームではないというのが結論だった。
だから僕の定義からは外れるし、加えて書くなら、たぶん英語圏の"GAME"という単語で捉える人間はすべからく、これは"game"ではないと否定すると思う。
だがだ。
「ゲーム」なのか? という質問をするなら、これをゲームと呼ぶ人もいるだろう、とは思う。ゲームではなく、新しいスタイルの読書だろう? と僕は(自分の定義から)思うが、それこそ定義の問題で、英語の"game"ではない「ゲーム」ならば「これをゲームです」ということは出来ると思う。
こうして、1970年代後半に登場したアドベンチャゲームは、2011年現在、日本で「ストーリーを語るための特殊な小説のようなもの」が登場するまで分化し、さまざまなスタイルを生み出してきたわけだ。
弟切草が登場して、実は日本のアドベンチャゲームは大きく意味を変える。
それは日本においてアドベンチャがストーリーラインを追うゲームに明白に意味を変えたということだ。
これは極めて重要なことだ。
弟切草以前のアドベンチャはプレイヤーがマップを移動して、誰かと話したり、アイテムを拾ったり、パズルを解いたりするゲーム…いわば行動のゲームだった。
ところが弟切草では、マップを移動する必要は一切ない。行動する必要すらない。
極端な話、それが面白いかはともかくとして、誰もいない部屋で主人公が延々独り言をつぶやいているシチュエーションで
A.僕は天井を見上げしばらく黙ることにした。
B.やっぱり彼女のことをまだ考えよう
なんて選択肢が延々出てくる、一部屋で主人公の頭の中の独り言を追いかけるゲームを作ることも許される。
つまり弟切草以前のアドベンチャでは「プレイヤー(ほぼプレイヤー=ゲーム内の主人公)がマップを移動したり、アイテムを拾ったりすることで、なんらかの具体的な物理的な行動を行う、いわば外面描写のゲーム」だったが、弟切草はプレイヤー≠ゲーム内の主人公とし、プレイヤーの位置をストーリーラインをコントロールする神の視点に置くと同時に、アドベンチャゲームを「キャラクターが行動するゲームではなく、ストーリーを追うゲーム」に変身させた。
ただし弟切草では、まだプレイヤーと主人公の分離は曖昧。またノベル系アドベンチャでは、プレイヤーの感情移入を促すための方便として1人称を使い、意図的にこの分離を曖昧にしていることが多い。
さらに追記すると、弟切草では、まだ従来のマップを移動する感は残っている。これがほぼ完全になくなるのはサウンド/ビジュアルノベル史上のエピック、『街』(1998/チュンソフト/セガサターン)が初めて、と考えていい。
さらに追記すると、弟切草では、まだ従来のマップを移動する感は残っている。これがほぼ完全になくなるのはサウンド/ビジュアルノベル史上のエピック、『街』(1998/チュンソフト/セガサターン)が初めて、と考えていい。
そして、ここで日本のアドベンチャは欧米のアドベンチャと決定的に分かれることになった。
欧米のアドベンチャゲームはバイオハザードの項目でも書いたとおり、テキストベースからキングスクエスト→アローン(バイオハザード)方式と、ミステリーハウス型グラフィックアドベンチャからテキストを出来るだけ排除したスタイルで描く"MYST"方式の2つに集約されていき、日本のような「徹底的にストーリーラインを追うことに特化したスタイルのゲーム」は今に至るまでアドベンチャとしては登場することはなかった(また日本でもコンソール発のアドベンチャは海外と同じ型が多い。なぜそうなのかといえばもちろんバイオハザードの項目で書いたとおり、バイオハザードの大成功によるのである)。
アドベンチャとしてと書いたのは「アドベンチャでない」なら、HALOやMOH(メダルオブオナー)が生み出し、ギアース・アンチャーテッド・CODなどに繋がる演出とストーリーラインでゲームを見せるTPS/FPSがほぼストーリーを見せることに集中するゲームになっているからだ。
言い換えるなら、弟切草の登場により日本のアドベンチャゲームはアメリカ発のオリジナルの影響から全く離れた、完全な独自のモノになったと考えていい。
だが、弟切草をコピーしたゲームはそれなりにSFCなどでも現れたが、コンソールでは大きな潮流になることはなかった。
これには理由はいくつかある。
まず、当時のSFCユーザー…というかコンソールゲームにとってのメインコンテンツはRPGであり、格闘ゲームであり、アクションゲームであり、どちらかというとテキストを読む文化は異端だった、というのがひとつ。
そして、もうひとつは…これは大きかったと思われるのが1画面に表示できる文字量とフォントの質。
当時の家庭用ゲームマシンの解像度はせいぜい横256~高解像度でも384程度。それなりに読めるテキストなら、横16文字以下とかで、1画面あたりに入る文字量が少なすぎたし、フォントもガタガタで読みやすいとは言いがたいものだった(少なくともキレイとはいえない)。
つまり、あまり文字を読むユーザーがいないうえに、文字を読むのを好む人たちには、イマイチアピールしきれないのがSFCなどでのサウンドのベルの実態だったのだ。
だが、これが極めて大きなジャンルになったのがPCゲーム、具体的にはアダルトゲームだった。
まずアダルトゲームはPCがターゲットで、PCはRGBモニタとワープロなどの実用要素から、当たり前だが、漢字かな混じり文で横40文字ぐらいは出せるのが普通で、かつ漢字も問題なく使えたので、テキスト的な問題は極めて少なかったハードウェア的な部分を前提にしたうえで、1992年当時からことを書いていこう。
アダルトゲームは大きく分けると、弟切草当時(1992)は主流は(従来型)アドベンチャゲームと「それ以外のジャンル」だった。
これがエルフの同級生1(1992)で「極めてストーリーラインが強い、ドラマチックなゲーム」がアダルトゲームで成り立つ、ということがわかり、そしてそのさらに延長の同級生2(1995)の大ヒットで「ドラマのあるゲーム」にアダルトゲームは一気にシフトする。
ちなみに同級生1は「本当に面白いアダルトゲーム」という意味でも大ヒットした。当時は本当に面白いといえるアダルトゲームがまるでない時代だったのだ。
そして、この同級生2の発売される少し前に、サウンドノベルの第2弾「かまいたちの夜」(1994)が発売されていた。
この2つの流れ、つまりドラマ重視のアダルトゲームと「全画面にテキストが表示されるサウンドノベル形式」を組みあわせて、ビジュアルノベルという名前で発表されたのが『雫』(1996/Leaf)だ。とはいっても、これと次作『痕(きずあと)』(1996)は、同人誌の作者などの一部のコアなファンの間で話題となるが、大ヒットとは間違ってもいえない状態だった。
これを劇的に変化させたのが『To Heart』(1997)。
これはPC用ソフトとしてはとんでもない大ヒットをし、PCゲームの世界に弟切草から登場した<読むスタイル>を完全に定着させ、主流にのし上げる原動力になる(と同時にドジっこメイドロボを一般化したオーソリティだと思うが)。
ちなみにノベルゲームは全画面を使ってテキストを表示し、アドベンチャゲームはウィンドウの中にテキストを表示するなんてバカらしい説明をどこだったかで読んだことがあるが、ウィンドウ内のテキストであろうとなかろうと、アドベンチャの歴史に照らして考えれば「ストーリーを追うことが主体で、マップなどは副次的なものでしかないゲーム」がノベルゲームで、移動してアイテムを集めたりキャラクタと話をすることで、ストーリーを進める「マップありき」のゲームがアドベンチャだと、現在ではいえるだろう。
(もちろんこの定義も完璧では全くないが、源流を考えれば少なくともマシな定義なのは確かだ)
(もちろんこの定義も完璧では全くないが、源流を考えれば少なくともマシな定義なのは確かだ)
そして、これは実はアダルトゲームメーカーにとっては信じられないぐらいありがたいことだった。
というのも、この手のノベル型ゲームはいいシナリオを書けるシナリオライター、それなりの実力のある絵描き、それなりのスクリプトエンジン(ゲームエンジンの一種)がそろえば制作することが可能(音楽は完全に外注が可能なもの)、言い換えるなら比較的低価格(少人数)で制作することができる。
そしてアダルトゲームメーカーの大半は本質的には少人数の会社であり、体力がない。
だからアダルトゲームメーカーにとって、このノベル形式は福音だった。
なにせジャンルもなにも、なんでもありで小説っぽい読ませる方向性で、比較的低価格にゲームを作れるのだから当たり前だ。そしてアダルトゲームにおいてノベル形式は恐ろしく一般化することになり、現在でも間違いなく主流だが、この10年ちょっとで驚くべき変化を「ノベルゲーム」は起こすことになる。
ノベルゲームはテキストを読ませるゲームで、ストーリーラインを追うゲームだ。
もう少し正確に書くなら「ストーリーラインをテキストで追いながら、ユーザーをグラフィックとオーディオで盛り上げる」ゲームといえる。
そのためストーリー上、分岐する必要がないところでは分岐せずにストーリーは進むことになる(まさにクリックゲームだw)。だから、例えば、画面数換算で数十画面も選択肢が存在しないゲームなんてものが成り立ちうるし、実際に普通に売られている。
では、これが極限まで進むとどうなるのか?
選択肢がない、という選択がありえることになる。
これを果たして「ゲーム」と呼ぶのか? と質問されたら、僕の定義からは違う。
なぜなら、僕の定義ではゲームは「最低限、なんらかの理解可能な(論理的な)ルールを持ち、そのルールに基づいたユーザーの選択がある」というものなので、この最低限のルール、選択がなくなってしまう。
これは故・多摩豊氏と結構議論した話題で、僕は最終的には2時間の映画の一番最後にひとつ選択肢があり、それを選択するとで変化が生まれるなら、それはゲームだが、これがないものはゲームでない、つまりユーザーに(続きを読まない以外の)選択が委ねられている部分がひとつでもなければ、ゲームではないというのが結論だった。
だから僕の定義からは外れるし、加えて書くなら、たぶん英語圏の"GAME"という単語で捉える人間はすべからく、これは"game"ではないと否定すると思う。
だがだ。
「ゲーム」なのか? という質問をするなら、これをゲームと呼ぶ人もいるだろう、とは思う。ゲームではなく、新しいスタイルの読書だろう? と僕は(自分の定義から)思うが、それこそ定義の問題で、英語の"game"ではない「ゲーム」ならば「これをゲームです」ということは出来ると思う。
こうして、1970年代後半に登場したアドベンチャゲームは、2011年現在、日本で「ストーリーを語るための特殊な小説のようなもの」が登場するまで分化し、さまざまなスタイルを生み出してきたわけだ。
最後にちょっと書くとは日本は弟切草のおかげで、アドベンチャゲームに対する制限がほとんどなくなってしまった国だ。
だから、日本ではアドベンチャゲームという言葉はまるで鍋みたいなもんで、逆転裁判のような伝統的アドベンチャとストーリーアドベンチャの折衷のようなゲーム(前半の探偵部分が従来型、後半の裁判部分がストーリー型)や、トワイライトシンドローム、それともICOのようなアクションアドベンチャー…およそ、あらゆるタイプの「アドベンチャが元になったゲーム」が投げ込まれるいい加減な言葉になっている。
そして、en:wikipediaでは、今では世界の70%のアドベンチャゲームが日本で作られている、と書かれるなど、実はアドベンチャ大国だったりするわけだが、日本のユーザーは誰もそれを気にしていないようだw
ま、面白ければ確かにどうでもいいわけだがw
だから、日本ではアドベンチャゲームという言葉はまるで鍋みたいなもんで、逆転裁判のような伝統的アドベンチャとストーリーアドベンチャの折衷のようなゲーム(前半の探偵部分が従来型、後半の裁判部分がストーリー型)や、トワイライトシンドローム、それともICOのようなアクションアドベンチャー…およそ、あらゆるタイプの「アドベンチャが元になったゲーム」が投げ込まれるいい加減な言葉になっている。
そして、en:wikipediaでは、今では世界の70%のアドベンチャゲームが日本で作られている、と書かれるなど、実はアドベンチャ大国だったりするわけだが、日本のユーザーは誰もそれを気にしていないようだw
ま、面白ければ確かにどうでもいいわけだがw
コメント
mannyさんの疑問はまったく正しいのです。
なぜなら、書く上で、一番困ったところがそこだったのです。
例えば、当時のアリスソフトはだいたいゲーム&ストーリー志向が強く、例えば\"DPS(1989)\"でストーリー志向&マルチシナリオなんてのを試してますし、このようなソフトは枚挙に暇がありません。
ただ、確かにストーリーを意識したゲームは当時アダルトなどを中心に出てきたのは事実ですが、それは、結局メジャー足りえなかった、言い換えるなら後の世に影響を与えていない(僕の愛するe-monやSword thrustのようにw)と書いて間違いではないと思うのです(というのが僕の見方、ですが)。
またmannyさんの書くとおり、同級生は「自由度」を意識したゲームだったのは間違いないのです。
例えば、僕が評価したのはその自由度の高さです。
ところが、あのときメモの元になった「イベントが散在することでストーリーが作られる構造」のストーリーの部分が同級生は大ウケしたのです。
そして、それの延長として、似たシステムの癖に自由度が極端に制約されていて「事実上ストーリー指向」だった2が「本当に爆発的な人気」を得たのです。
つまりなんとも奇妙なことにストーリーなどの制約を出来るだけ取り払った同級生1が実はストーリーラインゲームの元になっている、これは疑いもない事実だと僕は考えているわけです。
同じようなことは、実は「ビジュアルノベル」にも起こっています。
ストーリー志向・非行動指向・という話を始めるなら、\"ToHeart\"よりも前作の痕のほうがそうです。ところが大メジャーになり「ビジュアルノベル」という言葉とイメージを決定付けたのは疑いもなく\"ToHeart\"です。そのために「決定付けた作品」としてはどうしても\"ToHeart\"を取り上げざるを得ない。
とまあ、こんなことを考えながら書いていたわけです。
こんな話を出来るところまで深く読んでくださって大変嬉しく思っています。
なぜなら、書く上で、一番困ったところがそこだったのです。
例えば、当時のアリスソフトはだいたいゲーム&ストーリー志向が強く、例えば\"DPS(1989)\"でストーリー志向&マルチシナリオなんてのを試してますし、このようなソフトは枚挙に暇がありません。
ただ、確かにストーリーを意識したゲームは当時アダルトなどを中心に出てきたのは事実ですが、それは、結局メジャー足りえなかった、言い換えるなら後の世に影響を与えていない(僕の愛するe-monやSword thrustのようにw)と書いて間違いではないと思うのです(というのが僕の見方、ですが)。
またmannyさんの書くとおり、同級生は「自由度」を意識したゲームだったのは間違いないのです。
例えば、僕が評価したのはその自由度の高さです。
ところが、あのときメモの元になった「イベントが散在することでストーリーが作られる構造」のストーリーの部分が同級生は大ウケしたのです。
そして、それの延長として、似たシステムの癖に自由度が極端に制約されていて「事実上ストーリー指向」だった2が「本当に爆発的な人気」を得たのです。
つまりなんとも奇妙なことにストーリーなどの制約を出来るだけ取り払った同級生1が実はストーリーラインゲームの元になっている、これは疑いもない事実だと僕は考えているわけです。
同じようなことは、実は「ビジュアルノベル」にも起こっています。
ストーリー志向・非行動指向・という話を始めるなら、\"ToHeart\"よりも前作の痕のほうがそうです。ところが大メジャーになり「ビジュアルノベル」という言葉とイメージを決定付けたのは疑いもなく\"ToHeart\"です。そのために「決定付けた作品」としてはどうしても\"ToHeart\"を取り上げざるを得ない。
とまあ、こんなことを考えながら書いていたわけです。
こんな話を出来るところまで深く読んでくださって大変嬉しく思っています。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 12/01/29 11:46 | RIUwVqg. |
返答ありがとうございます。基本的な姿勢は理解しました。
確かにかえって80年代半ばまでの昔のものほどいろいろ混ざっていて、ややこしい面はありますからね。
後世への影響という視点で語る方が分かりやすいですし、他方で「僕が、あるジャンルについて、後の世に、影響を与えた決定的なポイントと考えている作品」と言われると個人の評価が絡んでしまいますので、基本的にこれ以上私がどうこう言うべきではないのでしょう。
これ以上は出すぎたまねになるので今回を最後にさせてもらいますが、こういう要素がありそれが後につながっていったと書かれればまだすんなり読めたのでしょうが、前にはなかったみたいな表現が多々あったもので、それがひっかかってしまいました。
揚げ足取りみたいで申し訳ないのですが、好きだった古い作品の存在自体を否定されたようであまり気分は良くなかったですし、これだけを読むと岩崎さんの深い知識から過去の事実を学ぼうとした新規の人にもかなりの誤解を与えてしまうように思ったものですから。
それと、選択肢により次々にストーリーが変わっていくゲームの後世に大きな影響を及ぼしたゲームが弟切草であるとしても、標準メニューからの脱却の話は論点が別であり、アイデス・エルフ・全流通・ドット企画・ハードなどは80年代後半には既に脱却し始めています。一般でもエニックスのミスティブルーなどもジャンルとしてはADVになるのでしょうが、会話での選択肢の連続というのが基本的な構造になっています。
88年頃からPCにおける複数のメーカーが標準メニューによる弊害からの脱却を図り始めており、この点に関しては弟切草も後追いでしかないでしょう。
でも弟切草は単なる後追いではなく、「選択肢が複雑に絡み合っていて、プレイする度に新しいストーリーラインが出てくる」といった発展要素があったから他と違うのだと言われれば抵抗なく読めたと思うのですけれど。
また、やっぱりこの流れでの同級生の記載はかなり違和感があります。
同級生は92年の末ですが、そこに至るまでの90年代前半はゲーム性は皆無でもストーリーでみせようという流れになっていたはずです。
その中には完全にプレイヤーと切り離し、今日に近い読み物的な色彩の強いものもありましたし。
同級生は最大級のインパクトを与えたゲームで私も大好きですが、まさに主人公を動かそうというゲームであり、ストーリーを追わせる流れとはむしろ真っ向から反対に位置する作品でしょう。
同級生2は同じようなシステムでありながらかなり縛りが強く、ストーリーを追わせようとした意図が読み取れますので、影響の大きいストーリーを追うゲームとして挙げるのは納得できるのですけれどね。
90年代半ばのアダルトゲームに対して与える印象に関しては恣意的で、ちょっと悪意すら感じでしまいます。
そして一番違和感があるのはその先で、全画面に文字があるからノベルという構造を無視した表記の方法だけで判断する人ならばここでleafの作品を持ち出すのも理解できます(もっともその場合でもメッセンジャ~がありますが)。
しかし岩崎さんはここまでの流れの中で、ノベルとADVの違いを理論的に構造の違いから説明しようとしています。
その姿勢には大いに賛同する部分もありますし、その観点からはむしろ行動概念の強いTo Heartを挙げるべきではなかったように思います。
むしろ構造的には93年からPC-98末期頃にアダルトゲームで流行った分岐型ADVの方が、よっぽど岩崎さんのノベルの定義に当てはまるのではないでしょうか。
また長くなってすみません。
私はゲーム業界と何ら関係のない身ですし、同人誌とかそういう類のものにも無縁です。
ブログにまとまったものを書くにしても本業以外にそこまで時間を割けないのが現状ですし、書いたとしてもあまり意味はないでしょう。
ろくでもないライターの戯言なら無視するところですが、昔雑誌を読んでいた頃には岩崎さんの記事も何度も読んだ記憶がありますし、読んで楽しめたことが多かったです。
当時のライターの名前などほとんど覚えていませんから、それだけ楽しめたり納得する部分も多かったのでしょうね。
そういう人は他にもいると思いますし、岩崎さんのようなこれまでの実績による影響力と深い知識があるであろう方からより正確なことが伝えられた方が良いように思います。
仕事でもないブログの記事だから手を抜いた面もあるかもしれませんが、この記事に関しては納得しかねる部分が多かったです。
願わくば岩崎さんのようなプロがその有する長年の知識を存分に活かして、ADVの歴史みたいな本を出して欲しいのですけどね。
それこそ、その時にはたとえいくらでも買いますから。
最後に余談ですが、LOOMとTHE DIGは日本語版があることもありますが主観的には私も大好きです。Monkey Islandシリーズは歴史を作った偉大なシリーズでしょうし、システムの変遷の歴史からは絶対に外せないゲームでしょうが、感性が違うのか私の理解が足りないのか、何で欧米の人たちはあんなに好きなんだろうって不思議に思ってしまい、その域に至れない自分を寂しく感じたりもします。
確かにかえって80年代半ばまでの昔のものほどいろいろ混ざっていて、ややこしい面はありますからね。
後世への影響という視点で語る方が分かりやすいですし、他方で「僕が、あるジャンルについて、後の世に、影響を与えた決定的なポイントと考えている作品」と言われると個人の評価が絡んでしまいますので、基本的にこれ以上私がどうこう言うべきではないのでしょう。
これ以上は出すぎたまねになるので今回を最後にさせてもらいますが、こういう要素がありそれが後につながっていったと書かれればまだすんなり読めたのでしょうが、前にはなかったみたいな表現が多々あったもので、それがひっかかってしまいました。
揚げ足取りみたいで申し訳ないのですが、好きだった古い作品の存在自体を否定されたようであまり気分は良くなかったですし、これだけを読むと岩崎さんの深い知識から過去の事実を学ぼうとした新規の人にもかなりの誤解を与えてしまうように思ったものですから。
それと、選択肢により次々にストーリーが変わっていくゲームの後世に大きな影響を及ぼしたゲームが弟切草であるとしても、標準メニューからの脱却の話は論点が別であり、アイデス・エルフ・全流通・ドット企画・ハードなどは80年代後半には既に脱却し始めています。一般でもエニックスのミスティブルーなどもジャンルとしてはADVになるのでしょうが、会話での選択肢の連続というのが基本的な構造になっています。
88年頃からPCにおける複数のメーカーが標準メニューによる弊害からの脱却を図り始めており、この点に関しては弟切草も後追いでしかないでしょう。
でも弟切草は単なる後追いではなく、「選択肢が複雑に絡み合っていて、プレイする度に新しいストーリーラインが出てくる」といった発展要素があったから他と違うのだと言われれば抵抗なく読めたと思うのですけれど。
また、やっぱりこの流れでの同級生の記載はかなり違和感があります。
同級生は92年の末ですが、そこに至るまでの90年代前半はゲーム性は皆無でもストーリーでみせようという流れになっていたはずです。
その中には完全にプレイヤーと切り離し、今日に近い読み物的な色彩の強いものもありましたし。
同級生は最大級のインパクトを与えたゲームで私も大好きですが、まさに主人公を動かそうというゲームであり、ストーリーを追わせる流れとはむしろ真っ向から反対に位置する作品でしょう。
同級生2は同じようなシステムでありながらかなり縛りが強く、ストーリーを追わせようとした意図が読み取れますので、影響の大きいストーリーを追うゲームとして挙げるのは納得できるのですけれどね。
90年代半ばのアダルトゲームに対して与える印象に関しては恣意的で、ちょっと悪意すら感じでしまいます。
そして一番違和感があるのはその先で、全画面に文字があるからノベルという構造を無視した表記の方法だけで判断する人ならばここでleafの作品を持ち出すのも理解できます(もっともその場合でもメッセンジャ~がありますが)。
しかし岩崎さんはここまでの流れの中で、ノベルとADVの違いを理論的に構造の違いから説明しようとしています。
その姿勢には大いに賛同する部分もありますし、その観点からはむしろ行動概念の強いTo Heartを挙げるべきではなかったように思います。
むしろ構造的には93年からPC-98末期頃にアダルトゲームで流行った分岐型ADVの方が、よっぽど岩崎さんのノベルの定義に当てはまるのではないでしょうか。
また長くなってすみません。
私はゲーム業界と何ら関係のない身ですし、同人誌とかそういう類のものにも無縁です。
ブログにまとまったものを書くにしても本業以外にそこまで時間を割けないのが現状ですし、書いたとしてもあまり意味はないでしょう。
ろくでもないライターの戯言なら無視するところですが、昔雑誌を読んでいた頃には岩崎さんの記事も何度も読んだ記憶がありますし、読んで楽しめたことが多かったです。
当時のライターの名前などほとんど覚えていませんから、それだけ楽しめたり納得する部分も多かったのでしょうね。
そういう人は他にもいると思いますし、岩崎さんのようなこれまでの実績による影響力と深い知識があるであろう方からより正確なことが伝えられた方が良いように思います。
仕事でもないブログの記事だから手を抜いた面もあるかもしれませんが、この記事に関しては納得しかねる部分が多かったです。
願わくば岩崎さんのようなプロがその有する長年の知識を存分に活かして、ADVの歴史みたいな本を出して欲しいのですけどね。
それこそ、その時にはたとえいくらでも買いますから。
最後に余談ですが、LOOMとTHE DIGは日本語版があることもありますが主観的には私も大好きです。Monkey Islandシリーズは歴史を作った偉大なシリーズでしょうし、システムの変遷の歴史からは絶対に外せないゲームでしょうが、感性が違うのか私の理解が足りないのか、何で欧米の人たちはあんなに好きなんだろうって不思議に思ってしまい、その域に至れない自分を寂しく感じたりもします。
| manny | EMAIL | URL | 12/01/29 00:22 | NDeJ3z2M |
長文での指摘、疑問などありがとうございます。
まず「XXってYYが最初じゃね?」というような萌芽と呼べる作品はいろいろあり、そういう話をするなら、実はいくらでもできてしまいます。
例えばAdventureとRPGが分離されていたのかというと、そうではありません。だいたいZORKは経験値を持っています。だからCRPGじゃね? という主張は成り立ちます。APPLEIIで発売されていたe-monと、その延長のsword thrustはテキストアドベンチャの形をとりながらCRPGで、しかも成長システムはパラメータ制で、そのうえ「システム固定で、シナリオが供給される」ほぼ初期の試みですが、後の世にまったくといっていいほど影響を与えていないので、このテキストの中ではほぼネグっています。
同じようにペンギンソフトの同一システムを使った一連のシリーズがあり、これはウルティマとアドベンチャをあわせたような平面マップゲームでやっぱRPG要素が思い切り入ってますが、これまた後の世に影響を与えていないと判断し、全てカットしています。
またPCアドベンチャの歴史については最終的にはバイオハザードというアクションアドベンチャのメルクマークにいたる枝の話なので、それ以外の枝に関しては切っています。そちらの指摘にある作品、特にマニアックマンション以降のルーカスアーツの一連の作品は非常に大きな影響を及ぼしていますが(僕自身はLOOMとTHE DIGが大好きだったりします。海外ではみんなMonkey Islandが死ぬほど好きだったりしますがw)、海を渡ってバイオハザードに影響を与えた作品ではないので、この話では無視しています。
あと追記すると、バイオハザード4は実はギアースなどに代表される、肩越し射撃型TPSのほぼ元祖のはずなのですが、こんな話を始めるとまた違う話になるのでカットしています。
また当時の「ストーリーライン重視に傾いていたアダルトアドベンチャ」の話はわかっていて、あえて切っています。なぜなら、これは僕の考えですが、同級生/同級生2ほど決定的な影響を後の世に与えていない、と僕は考えているからです。
つまり、このテキストは「僕が、あるジャンルについて、後の世に、影響を与えた決定的なポイントと考えている作品」を取り上げているということです。
だから「これを取り上げるなら、こっちは取り上げないのはなぜ?」という質問はまったくあって当たり前ですが、その答えは根本的には「全体を見た結果、これがわかりやすいと思った。あとこの作品がキーになったというのが僕の考えだ」ということです。
(ただ全流通は当時コンプティークでプレイしていたはずなのにまったく覚えていませんでしたし、メッセンジャーフロムザナイトはマジで覚えてませんでした。指摘ありがとうです)。
同じように「弟切草がかまいたちがなかったら、孤高の作品になってしまったのではないか?」というmannyさんの疑問はまさに「mannyさんの作品に対する見方」を示しているわけです。
僕はその可能性があったことは否定しませんし、できません。当たり前ですけれど。
ですが、歴史のIFなので証明はできないですが、僕は「弟切草が決定的だったと思っている(つまりかまいたちがなくても似た歴史になっただろうと考えている)」ということです。
ご理解いただけたでしょうか?
あと、ここまでゲームの歴史に関して知識があるのなら、個人的には「mannyさんの目から見たアドベンチャの歴史」をブログに書いていただきたいと思ってしまいます。ぜひ読んでみたいので。
まじめな話、mannyさんの見ているゲーム史を楽しみにしています。
あ、同人誌でもかまいません。買いに行きますので。
まず「XXってYYが最初じゃね?」というような萌芽と呼べる作品はいろいろあり、そういう話をするなら、実はいくらでもできてしまいます。
例えばAdventureとRPGが分離されていたのかというと、そうではありません。だいたいZORKは経験値を持っています。だからCRPGじゃね? という主張は成り立ちます。APPLEIIで発売されていたe-monと、その延長のsword thrustはテキストアドベンチャの形をとりながらCRPGで、しかも成長システムはパラメータ制で、そのうえ「システム固定で、シナリオが供給される」ほぼ初期の試みですが、後の世にまったくといっていいほど影響を与えていないので、このテキストの中ではほぼネグっています。
同じようにペンギンソフトの同一システムを使った一連のシリーズがあり、これはウルティマとアドベンチャをあわせたような平面マップゲームでやっぱRPG要素が思い切り入ってますが、これまた後の世に影響を与えていないと判断し、全てカットしています。
またPCアドベンチャの歴史については最終的にはバイオハザードというアクションアドベンチャのメルクマークにいたる枝の話なので、それ以外の枝に関しては切っています。そちらの指摘にある作品、特にマニアックマンション以降のルーカスアーツの一連の作品は非常に大きな影響を及ぼしていますが(僕自身はLOOMとTHE DIGが大好きだったりします。海外ではみんなMonkey Islandが死ぬほど好きだったりしますがw)、海を渡ってバイオハザードに影響を与えた作品ではないので、この話では無視しています。
あと追記すると、バイオハザード4は実はギアースなどに代表される、肩越し射撃型TPSのほぼ元祖のはずなのですが、こんな話を始めるとまた違う話になるのでカットしています。
また当時の「ストーリーライン重視に傾いていたアダルトアドベンチャ」の話はわかっていて、あえて切っています。なぜなら、これは僕の考えですが、同級生/同級生2ほど決定的な影響を後の世に与えていない、と僕は考えているからです。
つまり、このテキストは「僕が、あるジャンルについて、後の世に、影響を与えた決定的なポイントと考えている作品」を取り上げているということです。
だから「これを取り上げるなら、こっちは取り上げないのはなぜ?」という質問はまったくあって当たり前ですが、その答えは根本的には「全体を見た結果、これがわかりやすいと思った。あとこの作品がキーになったというのが僕の考えだ」ということです。
(ただ全流通は当時コンプティークでプレイしていたはずなのにまったく覚えていませんでしたし、メッセンジャーフロムザナイトはマジで覚えてませんでした。指摘ありがとうです)。
同じように「弟切草がかまいたちがなかったら、孤高の作品になってしまったのではないか?」というmannyさんの疑問はまさに「mannyさんの作品に対する見方」を示しているわけです。
僕はその可能性があったことは否定しませんし、できません。当たり前ですけれど。
ですが、歴史のIFなので証明はできないですが、僕は「弟切草が決定的だったと思っている(つまりかまいたちがなくても似た歴史になっただろうと考えている)」ということです。
ご理解いただけたでしょうか?
あと、ここまでゲームの歴史に関して知識があるのなら、個人的には「mannyさんの目から見たアドベンチャの歴史」をブログに書いていただきたいと思ってしまいます。ぜひ読んでみたいので。
まじめな話、mannyさんの見ているゲーム史を楽しみにしています。
あ、同人誌でもかまいません。買いに行きますので。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 12/01/28 07:11 | RIUwVqg. |
はじめまして
読ませていただきながら幾つか疑問に思ったので、質問させていただきます。
(3)の方で、「選択=ストーリーの展開」がこれ以前のアドベンチャゲームに事実上存在しない要素とされておりますが、全流通の艶談シリーズをはじめ、88年頃には一部のアダルトゲームではそのようなゲームは既に存在していました。
汎用でない個別の選択肢が常に表示されますし、それによって展開も変わりましたしから。
事実上という表記が曖昧なのですが、ここにあえて無視するような何かしらの理由が存在するのでしょうか。
次に『弟切草』以前の選択メニュー式アドベンチャゲームでは標準的メニューが存在しており「常に選択肢=次のゲーム展開まで徹底的にいらない物をそぎ落としたコンピュータゲームはサウンドノベルが元祖と考えていいだろう」とありますが、DOMEはともかく後期のノベルウェアや上記の一部アダルトゲームでは既に汎用的なメニューはなくなっていたはずではないでしょうか。
38万キロの虚空なども、肯定するのかしないのかといった態度を示すということの繰り返しではありましたが、標準的なメニューは存在しませんし、また必ずしもプレイヤーの行動を示すというものでもないように思うのですが。
ここからは(4)ですが、「弟切草はプレイヤー≠ゲーム内の主人公」でないことから大きく意味を変えたとありますが、自身でご指摘のように弟切草での分離は曖昧です。
それなのに意味が変わったと言うのは少々強引でしょう。
プレイヤーの行動ではなく読ませること・ストーリーを追うゲームであることに主眼を置くならば、それこそノベルウェアが当てはまるのではないでしょうか。
また完全なるマップを移動する感の除去という点では、90年代前半の女性主人公のアダルトゲームなどでは完全にプレイヤーの行動を無視して読み物に徹しており、街を持ち出すまでもないと思います。
また欧米のアドベンチャゲームについてですが、少々誤解を招く表現ではないでしょうか。
確かに日本のノベルのようにただ読ませるゲームは皆無に近いのでしょうが、90年代前半のルーカスアーツやシエラに見られるポイント&クリック式や、windows以降もsanitariumのようにほぼストーリーラインだけでもって評価を得たゲームもあります。
Full motion video系のゲームにしてもMYSTの出た頃はテキストを廃していく作品も多かったですが、従来のドット絵やアニメーションの代わりにムービーや実写を使っただけで、GK2のように内容的には古くからのADVと同じものも多かったです。
アローン方式とMYST方式が90年代半ばに流行したのは確かですが、その期間はあまり長くないですし、それが全てみたいな印象を抱かせる書き方はどうなのかなと。
さらに「同級生で極めてストーリーラインが強い、ドラマチックなゲームがアダルトゲームで成り立つということがわかり」という表現の根拠が私には理解できませんでした。
確かに大ヒットした金字塔ですが、それはシステム面も含め総合的に優れていたからであり、単純にストーリーラインの強さだけで見るならばそれ以上の物が以前にもあったはずです。
ストーリーは個人の好みもあるので一概には言えませんが、同じエルフでもDEJAシリーズがありますし、他社なら古くは殺しのドレスやイミテーションは愛せない、同級生と近い年代でも狂った果実やコズミックサイコなどもあり、高い支持を受けていたはずですから。
さらにドラマ重視のアダルトゲームと全画面にテキストが表示されるサウンドノベル形式」を組みあわせて、」雫が登場とありますが、同形式では先に95年のメッセンジャーフロムダークナイトがあると思うのですが、これでは駄目な理由があるのでしょうか。
そもそもそれ以前に上記の艶談シリーズや90年代半ばのエルフの河原崎やカクテルソフトのBAKAノベルなどのそれに類する作品らも「ストーリーを追うことが主体で、マップなどは副次的なものでしかないゲーム」だと思います。
岩崎さんの「ノベルゲームは全画面を使ってテキストを表示し、アドベンチャゲームはウィンドウの中にテキストを表示するなんてバカらしい」という説明は全くもって同意見なのですが、そうであるがゆえにPC98時代の分岐型ADVの存在を無視するのは理解できないのですが。
むしろTo Heartは画面全体を文字を覆うので全画面を使うものがノベルという定義ならば確かにノベルなのでしょうが、かなり移動を伴うマップありきのゲームであり、岩崎さんの考え方からすればTo Heartはノベルではなくアドベンチャーになるのではないでしょうか。
最後に個人的な考えを書かせてもらいますが、かまいたちの夜がなかったとしたら、弟切草も「孤高の作品」で終わっていたのではないでしょうか。
遊べるゲームとして凝っていたという点ではかまいたちよりも断然弟切草の方が上なのでしょうが、追従する作品を生み出した影響力という観点からはかまいたちの方が上だったのではないかと思うのです。
長文、失礼致しました。
読ませていただきながら幾つか疑問に思ったので、質問させていただきます。
(3)の方で、「選択=ストーリーの展開」がこれ以前のアドベンチャゲームに事実上存在しない要素とされておりますが、全流通の艶談シリーズをはじめ、88年頃には一部のアダルトゲームではそのようなゲームは既に存在していました。
汎用でない個別の選択肢が常に表示されますし、それによって展開も変わりましたしから。
事実上という表記が曖昧なのですが、ここにあえて無視するような何かしらの理由が存在するのでしょうか。
次に『弟切草』以前の選択メニュー式アドベンチャゲームでは標準的メニューが存在しており「常に選択肢=次のゲーム展開まで徹底的にいらない物をそぎ落としたコンピュータゲームはサウンドノベルが元祖と考えていいだろう」とありますが、DOMEはともかく後期のノベルウェアや上記の一部アダルトゲームでは既に汎用的なメニューはなくなっていたはずではないでしょうか。
38万キロの虚空なども、肯定するのかしないのかといった態度を示すということの繰り返しではありましたが、標準的なメニューは存在しませんし、また必ずしもプレイヤーの行動を示すというものでもないように思うのですが。
ここからは(4)ですが、「弟切草はプレイヤー≠ゲーム内の主人公」でないことから大きく意味を変えたとありますが、自身でご指摘のように弟切草での分離は曖昧です。
それなのに意味が変わったと言うのは少々強引でしょう。
プレイヤーの行動ではなく読ませること・ストーリーを追うゲームであることに主眼を置くならば、それこそノベルウェアが当てはまるのではないでしょうか。
また完全なるマップを移動する感の除去という点では、90年代前半の女性主人公のアダルトゲームなどでは完全にプレイヤーの行動を無視して読み物に徹しており、街を持ち出すまでもないと思います。
また欧米のアドベンチャゲームについてですが、少々誤解を招く表現ではないでしょうか。
確かに日本のノベルのようにただ読ませるゲームは皆無に近いのでしょうが、90年代前半のルーカスアーツやシエラに見られるポイント&クリック式や、windows以降もsanitariumのようにほぼストーリーラインだけでもって評価を得たゲームもあります。
Full motion video系のゲームにしてもMYSTの出た頃はテキストを廃していく作品も多かったですが、従来のドット絵やアニメーションの代わりにムービーや実写を使っただけで、GK2のように内容的には古くからのADVと同じものも多かったです。
アローン方式とMYST方式が90年代半ばに流行したのは確かですが、その期間はあまり長くないですし、それが全てみたいな印象を抱かせる書き方はどうなのかなと。
さらに「同級生で極めてストーリーラインが強い、ドラマチックなゲームがアダルトゲームで成り立つということがわかり」という表現の根拠が私には理解できませんでした。
確かに大ヒットした金字塔ですが、それはシステム面も含め総合的に優れていたからであり、単純にストーリーラインの強さだけで見るならばそれ以上の物が以前にもあったはずです。
ストーリーは個人の好みもあるので一概には言えませんが、同じエルフでもDEJAシリーズがありますし、他社なら古くは殺しのドレスやイミテーションは愛せない、同級生と近い年代でも狂った果実やコズミックサイコなどもあり、高い支持を受けていたはずですから。
さらにドラマ重視のアダルトゲームと全画面にテキストが表示されるサウンドノベル形式」を組みあわせて、」雫が登場とありますが、同形式では先に95年のメッセンジャーフロムダークナイトがあると思うのですが、これでは駄目な理由があるのでしょうか。
そもそもそれ以前に上記の艶談シリーズや90年代半ばのエルフの河原崎やカクテルソフトのBAKAノベルなどのそれに類する作品らも「ストーリーを追うことが主体で、マップなどは副次的なものでしかないゲーム」だと思います。
岩崎さんの「ノベルゲームは全画面を使ってテキストを表示し、アドベンチャゲームはウィンドウの中にテキストを表示するなんてバカらしい」という説明は全くもって同意見なのですが、そうであるがゆえにPC98時代の分岐型ADVの存在を無視するのは理解できないのですが。
むしろTo Heartは画面全体を文字を覆うので全画面を使うものがノベルという定義ならば確かにノベルなのでしょうが、かなり移動を伴うマップありきのゲームであり、岩崎さんの考え方からすればTo Heartはノベルではなくアドベンチャーになるのではないでしょうか。
最後に個人的な考えを書かせてもらいますが、かまいたちの夜がなかったとしたら、弟切草も「孤高の作品」で終わっていたのではないでしょうか。
遊べるゲームとして凝っていたという点ではかまいたちよりも断然弟切草の方が上なのでしょうが、追従する作品を生み出した影響力という観点からはかまいたちの方が上だったのではないかと思うのです。
長文、失礼致しました。
| manny | EMAIL | URL | 12/01/27 22:34 | NDeJ3z2M |
そうですね。優れた作品ではありますが、優れた商品でもなかった。後のADVに与えた影響も皆無。「孤高の作品」というのが正しい評価というか、事実ですね。
| makira | EMAIL | URL | 11/12/11 00:21 | 0W/HlWfg |
一応、このシリーズは「後に影響を与えた」という要素の観点から見ていて、その点から見ると、あのシリーズはですね、いわば「孤高の作品」なんですよ。
当時のマシンでまともな質でムービーが出来たのはFM-Townsだけだったと(PCエンジンはもちろんMDもcinepakは質が高いとはいえない…つーか低い)。
そしてTownsはあこがれではあったけれど、メジャーではないハードだったのもあって「インパクト」はあったけれど、影響は少ないって作品なんですよね。
当時のマシンでまともな質でムービーが出来たのはFM-Townsだけだったと(PCエンジンはもちろんMDもcinepakは質が高いとはいえない…つーか低い)。
そしてTownsはあこがれではあったけれど、メジャーではないハードだったのもあって「インパクト」はあったけれど、影響は少ないって作品なんですよね。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/12/10 07:46 | zC5XlH0o |
FM TOWNSででていたサイキック・ディテクティヴシリーズの意見も聞きたいです。1作目から4作目までは名作とおもうのですが(すくなくとも志の高さを評価して欲しい。版権ものにたよらなかった動画をつかった映画的手法を取り入れたADV)
| makira | EMAIL | URL | 11/12/10 02:08 | 0W/HlWfg |
んーとですね、ACT3は、ACT3だけでは捉えられないですからね。ただ、あれはいわばビジュアルノベルの走り的なところははっきりありました。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/11/16 13:52 | jL2fvUUo |
PCエンジンでスナッチャーを遊んだときに、act.3でトイレに行けない状態になって困った思い出がありますが、岩崎さんのとらえ方だとact.3はどういう扱いになりますか?
記憶では文字が表示されなかったので、聞き漏らすまいと緊張しつつ、やたらと長い時間喋ってるのでコナミの技術力に感心したり・・・
そういう面も含めて物語自体が強烈に印象に残っています。
記憶では文字が表示されなかったので、聞き漏らすまいと緊張しつつ、やたらと長い時間喋ってるのでコナミの技術力に感心したり・・・
そういう面も含めて物語自体が強烈に印象に残っています。
| も | EMAIL | URL | 11/11/14 22:40 | 8JnsR7G2 |
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