2011-10-25 Tue [ ゲームについて::歴史のこと ]
続き。やたら長いうえに、どんどん書き直しが増えてきて手間3倍増w
■アドベンチャの復興、そして…
こうして消滅したかに見えた日本でのアドベンチャが復活を始めたのは、まずPCエンジンの登場による。
(一部アダルトゲーム系では確かにアドベンチャは生き延びていたが、それは単純に絵を大きく見せるためと低予算なゲームを作るためでしかなかったので、現時点では無視する。ただし、この低予算とある要素が結びついて違った形のゲームを最終的には生み出すことになるが、それはあとの話だ)。
というのもPCエンジンには、今までにはない巨大な容量を誇るメディア、CDROMが搭載されており、これにより、今までのゲームでは不可能だった莫大な量のグラフィックとオーディオを使用したアドベンチャを作ることが可能になったのだ(なお、PCエンジンは世界初のCDROM搭載ゲームマシンでもある)。
具体的にはハドソンのデジタルコミック(名前はデジタルコミックではないが、実質的には『コブラ 黒竜王の伝説』から)によってアドベンチャは復活を始めるのだが、では、このスタイルはどのような物だったのか?
実はこれはゲーム的にはほとんど見る物は何もない物だった。
ありていに言ってしまえば、極めて簡単な総当たりすれば誰でも解けるアドベンチャゲームにCDROMの容量を利用して多量のグラフィックとオーディオ(主に音声)を付け加えることによって、ボリューム感を出し、満足感を与える戦法をとったものだった。
要は「オーディオとグラフィックを増やせば、ゲームとしては簡単なアドベンチャでも、お話のおかげで、それなりにユーザーは満足する」という、この極めて簡単な(しかし実は重要な、極めて重要な)事実が確認出来たシリーズでしかないが、少なくともアドベンチャの復活に一定の役割を果たしたと意味では価値があったのは間違いのないところだろう。
さて、このハドソンが始めた一連の流れにより、アドベンチャがある程度認知され直したところに登場したのが、チュンソフトの『弟切草』(1992・SFC)。
このソフト、大ヒットを飛ばしたワケなのだが、背景にはノベルウェアを『サウンドノベル』と言い換えただけではなく、いくつかの非常に新しい大きな工夫が入っている。
それは、SFCの音源をうまく使った――ことではなく、挿絵的な絵をキレイにした――ことでもなく、宣伝がうまかった(のは事実だが)――わけでもない。
まず、その1。これが最も重要でゲームとして最も新しい部分だが――
選択=ストーリーの展開、としたことだ。
以降のサウンドノベルの亜種、『ビジュアルノベル』(リーフ/PC&PS系/雫・痕>ToHeart>ToHeart2等)、『やるドラ』(SCE/PS/ダブルキャスト・季節を抱きしめて)など、およそあらゆる選択メニュー・マルチエンド型アドベンチャゲームに決定的な影響を及ぼしていて、そしてこれ以前のアドベンチャゲームに事実上存在しない要素がこれだ。
『弟切草』以前の選択メニュー式アドベンチャゲームでは、基本的には「見る・移動・話す・調べる」といった標準的メニューが存在し、一つの画面で、それらのメニューの選択を組み合わせることによりフラグが立ち、新しい場所に行ける・新しいシーンに進めるという形だった。シナリオ構造的にはそこから脱却したノベルウェアでも見る・話すといった標準的なメニューが存在するのは変わらず、その意味では見かけは従来のアドベンチャゲームと全く変わらなかった。
ここで、分かりやすく、過去主流だったアドベンチャゲームの架空の例を出してみよう。
女の子が部屋にいるシーンがあるとする。従来型のアドベンチャでは「女の子が部屋にいる」などと表示される。
一連の標準的なメニューがあり、メニューにはRPGなどと似たコマンド「見る・調べる・取る・移動」などがある。たいていのコマンドは選択すると「何を」というサブメニューが登場する。
そして例えば「見る>女の子」と選択すると「女の子はブローチをつけている」となり、ブローチが「見る」のサブメニューに登場する。
次に「見る>ブローチ」>「ブローチはちぎって取れそうだ」となり、ブローチが調べるのサブメニューに登場する。
「調べる>ブローチ」>「何するの! 女の子は怒りの表情でM-16を構えると、君を撃った」
というように、弟切草以前のアドベンチャは「いくつかのプレイヤーの行動を示すコマンド」が存在し、それらを使って「プレイヤーの汎用的な行動を示す」ことでゲームは進んでいた。
これに対し、弟切草では、例えば――
この状態でAかBを選ぶというように、メニューを選択すること=次の行動=ストーリーラインを選ぶものとして、なおかつ選択肢は、それぞれのシーン専用としてしまったのだ。
この手法それ自体は、もともとはゲームブックなどの紙媒体で先に登場した。当たり前だが印刷なので標準的なメニューなど用意しても意味がないわけだ。
また、この方法はノベルウェアやデジタルコミックシリーズ、さまざまなアドベンチャゲームで「最終的な特別な選択肢」として登場することも良くあった。例えばコブラで「サイコガンを撃つ」ようなシーンだ。
だが、常に選択肢=次のゲーム展開まで徹底的にいらない物をそぎ落としたコンピュータゲームはサウンドノベルが元祖と考えていいだろう。
次に弟切草のスゴいところは「普通の意味のゲームオーバー」をなくしてしまった。お笑いだろうとシリアスだろうと、イマイチだろうとともかくなんらかのエンディングにたどり着くようにしたのだ(ここに至るまでのアドベンチャゲームはノベルウェアですらゲームオーバーがあった)。
そして、この選択肢=ストーリーラインでかつ選択肢をそのシーン専用の選択肢とすることと「ともかくエンディングまでたどりつく」という2つにより、従来のアドベンチャとは決定的に一線を画したのが次の特徴だ。
■ 選択肢が複雑に絡み合っていて、プレイする度に新しいストーリーラインが出てくる。■
この選択肢、すなわちストーリーの展開としたことで、簡単に(作り手側のリソースは必要だが)「新たな選択肢を追加可能」になった。さっきの例の選択肢なら
こんな風にいくらでも作ることが出来る。
つまり「1度プレイすると新たな選択肢が登場し、新しいストーリーラインが登場する」
これこそがサウンドノベル以降の小説系アドベンチャゲームの最大の特徴だ。選択式のアドベンチャゲームの最大の問題点だった「選択していくだけで終了に至る」を逆用したわけだ。
これは実はアドベンチャゲームとしてはとんでもない革命だった。
なぜならアドベンチャゲームの最大の問題点の一つが「一度プレイしたゲームを再プレイする意味が極端に少ない」ことだったからだ。
本のように読みたい箇所を拾い読みする(DVDなどがあれば映画でも同じ事が出来る)が出来ず、最初から最後までやらざるを得ないゲーム(セーブデータはしおりのようなもので、拾い読みではない)では、本やDVDのような楽しみを提供することも出来ない。
しかも、絵やアニメがあってとばし読みがしづらい構造なので「好きなところだけをじっくり読み込みながらスキップしていく」というのも難しかった。
ところが、弟切草はほとんどの問題を一挙に解決した。なぜなら絵は挿絵的なもので(意図的だと思う)音声はないから、知っている(既読の)ストーリーラインはスキップ可能。拾い読みはさすがに出来ないが、これのおかげで読み飛ばしが楽になった。
しかも選択肢が増えてリピート性が出ると同時に「全ての選択肢を出すと、さらに新しいゲームモードが登場する」といったやり込みまで加え、まさに隙なく改良した。
結果としてサウンドノベルはアドベンチャにお手軽さ・リピート性・コレクション性を加えることに成功し、ゲームとしての寿命を大きく伸ばし、新しい「ディスプレイの上で読む文化」を作り出すことに成功したわけだ。
この文字文化…というか小説系・マルチエンド型・選択肢方式・後戻り不可アドベンチャゲームの構造はグラフィックだろうと、オーディオだろうとなんだろうと、およそコンピュータゲームのどんなスタイルにでも移植することが可能で、かなりいろいろなスタイルが登場することとなった。
…と弟切草が出てきたところまでで終了…なげーよ、これ。
■アドベンチャの復興、そして…
こうして消滅したかに見えた日本でのアドベンチャが復活を始めたのは、まずPCエンジンの登場による。
(一部アダルトゲーム系では確かにアドベンチャは生き延びていたが、それは単純に絵を大きく見せるためと低予算なゲームを作るためでしかなかったので、現時点では無視する。ただし、この低予算とある要素が結びついて違った形のゲームを最終的には生み出すことになるが、それはあとの話だ)。
というのもPCエンジンには、今までにはない巨大な容量を誇るメディア、CDROMが搭載されており、これにより、今までのゲームでは不可能だった莫大な量のグラフィックとオーディオを使用したアドベンチャを作ることが可能になったのだ(なお、PCエンジンは世界初のCDROM搭載ゲームマシンでもある)。
具体的にはハドソンのデジタルコミック(名前はデジタルコミックではないが、実質的には『コブラ 黒竜王の伝説』から)によってアドベンチャは復活を始めるのだが、では、このスタイルはどのような物だったのか?
実はこれはゲーム的にはほとんど見る物は何もない物だった。
ありていに言ってしまえば、極めて簡単な総当たりすれば誰でも解けるアドベンチャゲームにCDROMの容量を利用して多量のグラフィックとオーディオ(主に音声)を付け加えることによって、ボリューム感を出し、満足感を与える戦法をとったものだった。
要は「オーディオとグラフィックを増やせば、ゲームとしては簡単なアドベンチャでも、お話のおかげで、それなりにユーザーは満足する」という、この極めて簡単な(しかし実は重要な、極めて重要な)事実が確認出来たシリーズでしかないが、少なくともアドベンチャの復活に一定の役割を果たしたと意味では価値があったのは間違いのないところだろう。
さて、このハドソンが始めた一連の流れにより、アドベンチャがある程度認知され直したところに登場したのが、チュンソフトの『弟切草』(1992・SFC)。
このソフト、大ヒットを飛ばしたワケなのだが、背景にはノベルウェアを『サウンドノベル』と言い換えただけではなく、いくつかの非常に新しい大きな工夫が入っている。
それは、SFCの音源をうまく使った――ことではなく、挿絵的な絵をキレイにした――ことでもなく、宣伝がうまかった(のは事実だが)――わけでもない。
まず、その1。これが最も重要でゲームとして最も新しい部分だが――
選択=ストーリーの展開、としたことだ。
以降のサウンドノベルの亜種、『ビジュアルノベル』(リーフ/PC&PS系/雫・痕>ToHeart>ToHeart2等)、『やるドラ』(SCE/PS/ダブルキャスト・季節を抱きしめて)など、およそあらゆる選択メニュー・マルチエンド型アドベンチャゲームに決定的な影響を及ぼしていて、そしてこれ以前のアドベンチャゲームに事実上存在しない要素がこれだ。
『弟切草』以前の選択メニュー式アドベンチャゲームでは、基本的には「見る・移動・話す・調べる」といった標準的メニューが存在し、一つの画面で、それらのメニューの選択を組み合わせることによりフラグが立ち、新しい場所に行ける・新しいシーンに進めるという形だった。シナリオ構造的にはそこから脱却したノベルウェアでも見る・話すといった標準的なメニューが存在するのは変わらず、その意味では見かけは従来のアドベンチャゲームと全く変わらなかった。
ここで、分かりやすく、過去主流だったアドベンチャゲームの架空の例を出してみよう。
女の子が部屋にいるシーンがあるとする。従来型のアドベンチャでは「女の子が部屋にいる」などと表示される。
一連の標準的なメニューがあり、メニューにはRPGなどと似たコマンド「見る・調べる・取る・移動」などがある。たいていのコマンドは選択すると「何を」というサブメニューが登場する。
そして例えば「見る>女の子」と選択すると「女の子はブローチをつけている」となり、ブローチが「見る」のサブメニューに登場する。
次に「見る>ブローチ」>「ブローチはちぎって取れそうだ」となり、ブローチが調べるのサブメニューに登場する。
「調べる>ブローチ」>「何するの! 女の子は怒りの表情でM-16を構えると、君を撃った」
というように、弟切草以前のアドベンチャは「いくつかのプレイヤーの行動を示すコマンド」が存在し、それらを使って「プレイヤーの汎用的な行動を示す」ことでゲームは進んでいた。
これに対し、弟切草では、例えば――
「どっちからにする?」
A.「こっちだ!」
ぼくらは勇ましく最初のドアへ歩き出した。
B.「そっちかな? そっちから見てみる?」
ぼくは恐る恐る次のドアを開けた。
A.「こっちだ!」
ぼくらは勇ましく最初のドアへ歩き出した。
B.「そっちかな? そっちから見てみる?」
ぼくは恐る恐る次のドアを開けた。
この状態でAかBを選ぶというように、メニューを選択すること=次の行動=ストーリーラインを選ぶものとして、なおかつ選択肢は、それぞれのシーン専用としてしまったのだ。
この手法それ自体は、もともとはゲームブックなどの紙媒体で先に登場した。当たり前だが印刷なので標準的なメニューなど用意しても意味がないわけだ。
また、この方法はノベルウェアやデジタルコミックシリーズ、さまざまなアドベンチャゲームで「最終的な特別な選択肢」として登場することも良くあった。例えばコブラで「サイコガンを撃つ」ようなシーンだ。
だが、常に選択肢=次のゲーム展開まで徹底的にいらない物をそぎ落としたコンピュータゲームはサウンドノベルが元祖と考えていいだろう。
次に弟切草のスゴいところは「普通の意味のゲームオーバー」をなくしてしまった。お笑いだろうとシリアスだろうと、イマイチだろうとともかくなんらかのエンディングにたどり着くようにしたのだ(ここに至るまでのアドベンチャゲームはノベルウェアですらゲームオーバーがあった)。
そして、この選択肢=ストーリーラインでかつ選択肢をそのシーン専用の選択肢とすることと「ともかくエンディングまでたどりつく」という2つにより、従来のアドベンチャとは決定的に一線を画したのが次の特徴だ。
■ 選択肢が複雑に絡み合っていて、プレイする度に新しいストーリーラインが出てくる。■
この選択肢、すなわちストーリーの展開としたことで、簡単に(作り手側のリソースは必要だが)「新たな選択肢を追加可能」になった。さっきの例の選択肢なら
C.「どっちにしようか…」
僕はドアの前で途方にくれた。
D.「いや、と見せかけて上だ!」
僕は天井につり下がっているシャンデリアに向かってジャンプした。
E.「待て! これは孔明の罠だ!」
僕は彼女に囁くととゆっくりと後ずさりを始めた。
僕はドアの前で途方にくれた。
D.「いや、と見せかけて上だ!」
僕は天井につり下がっているシャンデリアに向かってジャンプした。
E.「待て! これは孔明の罠だ!」
僕は彼女に囁くととゆっくりと後ずさりを始めた。
こんな風にいくらでも作ることが出来る。
つまり「1度プレイすると新たな選択肢が登場し、新しいストーリーラインが登場する」
これこそがサウンドノベル以降の小説系アドベンチャゲームの最大の特徴だ。選択式のアドベンチャゲームの最大の問題点だった「選択していくだけで終了に至る」を逆用したわけだ。
これは実はアドベンチャゲームとしてはとんでもない革命だった。
なぜならアドベンチャゲームの最大の問題点の一つが「一度プレイしたゲームを再プレイする意味が極端に少ない」ことだったからだ。
本のように読みたい箇所を拾い読みする(DVDなどがあれば映画でも同じ事が出来る)が出来ず、最初から最後までやらざるを得ないゲーム(セーブデータはしおりのようなもので、拾い読みではない)では、本やDVDのような楽しみを提供することも出来ない。
しかも、絵やアニメがあってとばし読みがしづらい構造なので「好きなところだけをじっくり読み込みながらスキップしていく」というのも難しかった。
ところが、弟切草はほとんどの問題を一挙に解決した。なぜなら絵は挿絵的なもので(意図的だと思う)音声はないから、知っている(既読の)ストーリーラインはスキップ可能。拾い読みはさすがに出来ないが、これのおかげで読み飛ばしが楽になった。
しかも選択肢が増えてリピート性が出ると同時に「全ての選択肢を出すと、さらに新しいゲームモードが登場する」といったやり込みまで加え、まさに隙なく改良した。
結果としてサウンドノベルはアドベンチャにお手軽さ・リピート性・コレクション性を加えることに成功し、ゲームとしての寿命を大きく伸ばし、新しい「ディスプレイの上で読む文化」を作り出すことに成功したわけだ。
この文字文化…というか小説系・マルチエンド型・選択肢方式・後戻り不可アドベンチャゲームの構造はグラフィックだろうと、オーディオだろうとなんだろうと、およそコンピュータゲームのどんなスタイルにでも移植することが可能で、かなりいろいろなスタイルが登場することとなった。
…と弟切草が出てきたところまでで終了…なげーよ、これ。
コメント
そういえば、Mac等がCD-ROMを積み始めた当時のマルチメディア系タイトルなどは
あまり顧みられることがないですね。
SpaceShip WarlockとかGADGET、マンホール、MYSTあたりまでのタイトルでしょうか。
ゲーム性等は今ひとつだったような記憶があるのですが、なぜかアドベンチャ形式っぽいものが多く、
個人的には初めて自分のPCを手に入れたこともあって、それなりに楽しんでいたように思います。
(Directorベースのものが多かったような)
どのタイトルも、CD-ROMみたいな大容量メディアをどう使うか、という点と
静止画としての3Dグラフィックスの目新しさ、という点をフォローしたような傾向で
そういう意味では、コンシューマー機が本格的に光学メディアに移行する前の
過渡期だったのかもしれませんが・・・
あまり顧みられることがないですね。
SpaceShip WarlockとかGADGET、マンホール、MYSTあたりまでのタイトルでしょうか。
ゲーム性等は今ひとつだったような記憶があるのですが、なぜかアドベンチャ形式っぽいものが多く、
個人的には初めて自分のPCを手に入れたこともあって、それなりに楽しんでいたように思います。
(Directorベースのものが多かったような)
どのタイトルも、CD-ROMみたいな大容量メディアをどう使うか、という点と
静止画としての3Dグラフィックスの目新しさ、という点をフォローしたような傾向で
そういう意味では、コンシューマー機が本格的に光学メディアに移行する前の
過渡期だったのかもしれませんが・・・
| atsu | EMAIL | URL | 11/10/27 23:53 | jB3nOvqE |
PCエンジンの「コブラ」は2作目の方をやりましたが、戦闘があって、敵を倒さないと先に進めないのでクリアできませんでした。なんせサイコガン数発で打ち止めですからw
CD-ROMの大容量を生かした声優のセリフが売り文句でしたが、テキストだけの箇所が多くて声が出るのはほんの一部。デジタルコミックというより紙芝居のようなシロモノでした。
そういう意味ではかなり特殊なゲームだったと思います。
CD-ROMの大容量を生かした声優のセリフが売り文句でしたが、テキストだけの箇所が多くて声が出るのはほんの一部。デジタルコミックというより紙芝居のようなシロモノでした。
そういう意味ではかなり特殊なゲームだったと思います。
| take | EMAIL | URL | 11/10/27 08:34 | TpEJXH0E |
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