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ゲームレビューについて(1)
実は結構書いてから時間のたった文だったりする。
4gamerのダンガンロンパの記事を読んだとき、同人誌にちょろっとレビューに関する文を書いてから思っていたことが、一気に凝縮した感じで書き上げたのだけど、公開したからといって、別にだからどうしただよなあと思って放置してたのだけど、聞いてみたら、結構読みたい人がいるらしいのでアップすることにした。
馬鹿馬鹿しく長い文なので、3-4回ぐらいに分割してアップするつもり。

さて。話はここから始まる。
ゲームの評価ってなんだろう?――クリエイター魂が溢れ出る怪作「ダンガンロンパ」を遊びながら考えてみる
結構納得できる内容だったのだが、一つ「え?」と思ったのが、この一節。
ここから話は少し本作自体から離れるが,ここ数年,開発費数十億円,場合によっては100億円超というハリウッド映画クラスの大作ゲームが世界を席巻しているのはご存じの通り。それらのゲームは確かに凄いし面白いのだが,半面,それらを評価するゲームメディア(主に海外)の評価の仕方に,一抹の疑問を覚えることも少なくない。端的に言うと,
最上級のグラフィックス。隙のないゲームシステム……100点。
とか,そういう書き方のことなんだよね。なんと言うか,「隙がない作りなら,ゲームって面白いのかよ?」という至極まっとうな疑問が,筆者の頭の中で反芻されてしまうというか。ゲームって,エンターテイメントって,クリエイティブさって,そんな単純なものじゃないだろう。既存の表現手法の延長で隙無く完璧に作られたゲーム,それって本当にイコールで「最高のゲーム」になるものなんだろうか?


海外だけでもないし、ここ最近でもない。
点数をつける形式のゲームのレビューの点数には、10点満点・100点満点・S-Eまでで表す…ともかく、さまざまな方法があるが、遥か遠い昔、コンソールゲームが登場したときから満点からの減点方式だったし、それ以外であったことはない。(ごくごくまれに点数のないレビューは存在したが、僕の記憶する限り、エッセイ以外の方法で、その手のレビューが長続きしたことはないと思う)。

そしてこの点数方式を取る限り、隙がない作りが高得点になるし、これは今のゲームにとって問題で、とても不幸なことだと思っている。
これはレビューをやめる前後から約10年ほど思っていたが、同人誌に一度書いただけで、本当に詳しく書いたことは一度もなかったのだけど、いい機会なので書いておきたい。
書いておくと、僕はいわゆる「レビュワー」として、1988-1999年の間、PCエンジン・PS1のレビュワーをずっとやっていた。以降は、電撃PSのコラムで気が向いたらゲームのレビューを書くことはあるが「プロのレビュワー」として点数をつけたことはない。
また評価・評論という話になると、Beepからやってたわけで、だいたい1986年から今まで、ずっとゲームの(評価・評論という意味での)レビューをやっていることになる。
まあBeep時代のレビューは、僕の頭をぶん殴りたいぐらい腹が立つけれど。



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|| 19:47 | comments (0) | trackback (x) | ||

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ゲーム史について思ったこと
ハドソンの第3話を書きたいのだけど、決定的なところを誰も彼も覚えてない、って微妙な状況で、状況証拠だけで煮詰めて書いていくのがイヤで、今、この人たちが覚えてなかったらアウツって人たちに聞いてるところだったりする。

ちなみに自分が書いていることは、任天堂もしくはハドソン(現コナミ)が1983年ごろの覚書とか契約書を公開するとか、そのレベルのことをやってくれない限りは、個人の記憶に頼るしかない代物なので全く大変だ。
そして、公開されても日付がわかるだけで、やっぱり個人の記憶に頼らないとどうしようもない部分があるので、ますますまずいのだけどw

ところで、ゲーム史に関する本格的な研究や記録は日本ではほぼない。
これは世界のゲーム史から見たとき、恐ろしく不幸なことだ。
というのも、日本はアメリカと並んで間違いなく「世界のテレビゲーム」を作り出した国で、歴史的に見ると恐ろしく重要な話が大量にあるはずなのに、これらが消え去っていこうとしているのは、かなりまずいだろうと思う。
ハドソンのファミコンへの参入の歴史はたまたま調べたからよかったけれど(それもだいたいはツイッターで話をしたとき、大雑把に聞いた話をしゃべったら、それが本当かに興味が出たってだけだ)、ほぼ同時に参入したナムコのことは全く分からない。

それに今回のハドソンのことを調べてわかったのだけど、当時、何があったのかを知っている人達も30年経って記憶がいい加減になって、忘れたことがたくさん出てきている。
例えば、今回のハドソンの件を調べたとき、最初にハドソンではX1用のBASICコンパイラを使ってゲームを作っていたって証言があって、作ったとされている本人に確認したら「ぜんぜん覚えてない、そんなことしてたかなあ」だ。
さらに当時は本当に口約束で決まったことなんかもあったはずで、そうなったら本人が忘れたらもう終わりだ。
30年以上前の記憶なんだから、しょうがないといえばしょうがないけれど、10年早く記録を始めていたら、絶対に違ったはずで、あまりにもったいなかったなあと思ってしまう。

しかし、本当に初期のゲーム史をちゃんと歴史に残すなら、これから10年は最後のチャンスなんだけどなあ…きっと日本はそんなものぜんぜん残さなくてガッカリな結果になるんだろうなあ…と思ってしまう。

|| 20:46 | comments (2) | trackback (0) | ||

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現代ゲームデザイナー向け基礎教養本
ゲームを作る…というか、ゲーデザイナーとして仕事をしていく上でいろいろ自分にとって役に立っている本を並べておきたい。他にもイロイロあるけれど、近代的ゲームを作るうえで、ゲームデザイナーがなんとなく知っておかないと困る
●「(マーケットに基づく論理的)ゲームデザイン」
●「ゲームエンジン全般とゲームエンジンでゲームを作るときのコンテンツフロー」、
●「AI」
●「3D技術」
●「シナリオ」
の5つの要素技術について、僕が大いに参考にしている本を並べる次第。もちろん、自分の浅学菲才をなんとかするために、日夜参考にするレベルw
実は、これ全部横には並べてあるのだけど、なんの説明もしていないも同然だし、一度自分自身の整理もかねてレビューを書いておこうという次第。

もちろん、あなたが天才なら、こんなものいらない。
世の中には、普通の人が壁になって苦しむことを簡単に乗り越えていく超人がウン万人に一人ぐらいいる。そしてそういう人はみんな「え? なんか難しい?」とか平気で言う。
けれど、たいていの人(もちろん僕も含めてw)は、そうじゃない。そして、そうじゃない人にとっては、こういう困ったときに立ち返れる基礎知識はとても大事だと思っている。

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|| 19:25 | comments (1) | trackback (0) | ||

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Zorkと弟切草とビジュアルノベル(4/終)
そしてビジュアルノベル
弟切草が登場して、実は日本のアドベンチャゲームは大きく意味を変える。
それは日本においてアドベンチャがストーリーラインを追うゲームに明白に意味を変えたということだ。

これは極めて重要なことだ。
弟切草以前のアドベンチャはプレイヤーがマップを移動して、誰かと話したり、アイテムを拾ったり、パズルを解いたりするゲーム…いわば行動のゲームだった。

ところが弟切草では、マップを移動する必要は一切ない。行動する必要すらない。
極端な話、それが面白いかはともかくとして、誰もいない部屋で主人公が延々独り言をつぶやいているシチュエーションで

A.僕は天井を見上げしばらく黙ることにした。
B.やっぱり彼女のことをまだ考えよう


なんて選択肢が延々出てくる、一部屋で主人公の頭の中の独り言を追いかけるゲームを作ることも許される。

つまり弟切草以前のアドベンチャでは「プレイヤー(ほぼプレイヤー=ゲーム内の主人公)がマップを移動したり、アイテムを拾ったりすることで、なんらかの具体的な物理的な行動を行う、いわば外面描写のゲーム」だったが、弟切草はプレイヤー≠ゲーム内の主人公とし、プレイヤーの位置をストーリーラインをコントロールする神の視点に置くと同時に、アドベンチャゲームを「キャラクターが行動するゲームではなく、ストーリーを追うゲーム」に変身させた。

ただし弟切草では、まだプレイヤーと主人公の分離は曖昧。またノベル系アドベンチャでは、プレイヤーの感情移入を促すための方便として1人称を使い、意図的にこの分離を曖昧にしていることが多い。
さらに追記すると、弟切草では、まだ従来のマップを移動する感は残っている。これがほぼ完全になくなるのはサウンド/ビジュアルノベル史上のエピック、『街』(1998/チュンソフト/セガサターン)が初めて、と考えていい。



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|| 20:56 | comments (9) | trackback (0) | ||

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Zorkと弟切草とビジュアルノベル(3)
続き。やたら長いうえに、どんどん書き直しが増えてきて手間3倍増w

アドベンチャの復興、そして…
こうして消滅したかに見えた日本でのアドベンチャが復活を始めたのは、まずPCエンジンの登場による。
(一部アダルトゲーム系では確かにアドベンチャは生き延びていたが、それは単純に絵を大きく見せるためと低予算なゲームを作るためでしかなかったので、現時点では無視する。ただし、この低予算とある要素が結びついて違った形のゲームを最終的には生み出すことになるが、それはあとの話だ)。
というのもPCエンジンには、今までにはない巨大な容量を誇るメディア、CDROMが搭載されており、これにより、今までのゲームでは不可能だった莫大な量のグラフィックとオーディオを使用したアドベンチャを作ることが可能になったのだ(なお、PCエンジンは世界初のCDROM搭載ゲームマシンでもある)
具体的にはハドソンのデジタルコミック(名前はデジタルコミックではないが、実質的には『コブラ 黒竜王の伝説』から)によってアドベンチャは復活を始めるのだが、では、このスタイルはどのような物だったのか?
実はこれはゲーム的にはほとんど見る物は何もない物だった。


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|| 22:51 | comments (2) | trackback (0) | ||

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