2010-08-06 Fri [ 転載物::商業誌 ]
これは『電撃王』に載せていたコラムの中で思い入れが深いものを、細かくアップトゥデートして載せようという試み。
新たなコメントは【注】、最初からあったコメントは【原注】と表記している。
「ナイコン」…これってワケのわかんない言葉だよね。
この「ナイコン」、なにかって言うと、1976~80年ごろのマイコンはとてつもなく高くて、なーんの使い道もないし、なーんの実用性もないから親が買うわけもなくて、そして値段が高いから子供の小遣いで買えるわけもない代物だった。
けれども欲しい。
しかたないから雑誌を買ったり、本を読んだりして紙上でプログラムを勉強し、店先のコンピュータでプログラムを打ち込む、そんなコンピュータを持っていないコンピュータマニアを「コンピュータを持っているマニア=マイコン族」の逆、「ナイコン族」と呼んだわけ。
ところで「なーんの実用性もない」と書いたけれど、これはマイコン黎明期、つまり1976-80頃のマシンのパフォーマンスを考えれば当り前。
フルセットのシステム、本体、専用グリーンディスプレイ、放電プリンタ、それにディスクを揃えれば(ディスクは存在すればだけど)100万円以上は当り前。その癖してメモリは8~20キロバイト程度。(奇跡的に32キロとか64キロってシステムは存在したけど)
漢字も出ないし、ソフトを立ち上げるのはだいたいカセットテープで、運良くテープリードエラーが起こらなくても立ち上げるのに10分以上かかる。だいたいそのソフトからしてベーシックがあれば運がいい方。
当然「市販ソフト」なんてないし、ましてやワープロ・スプレッドシートなんてまったくない。(漢字が出ないんだからワープロが出来ないのも当り前だけど)
パワーもなければソフトもない。まさにないないづくしな代物だったわけ。
こういうポンコツが電気屋の店先で麗々しく「マイクロ・コンピュータ(無限の可能性を持つ!)」として飾られていたわけだけど…電気屋の店員にとっては、こいつはまさしく頭痛のタネだった。
「なーんにも使えないゴミのごとき商品」なのに「やたらめったら商品説明が難しい」のだ。
実はこのことは今でも本質的には変らない。コンピュータほど「何に使えますか?」と聞かれて困る物も珍しい。
プログラムを組んで、周辺機器を作れるなら(しかもとんでもなく難しいわけでもない。ある程度の努力をすれば誰でも出来る(!))炊飯器の制御だろうと、シャッターの開け閉めだろうとワープロだろうと電話の制御だろうと、およそ考え付くことなんでも出来るんだから「何に使えますか?」と言われて困るのが当り前。
今は単に「ワープロ」とか「ゲーム」とか「表計算」とか「データベース」なんかに代表される『コンピュータでやれること』を普通の人が認識しているから、店の人も「ワープロに使える」とか「家計簿に使える」って言うだけ。
コンピュータに出来ることが1977年当時から変ってしまったわけじゃない。
単に1977-80年当時のマイコンでワープロとか表計算をするのには1000万円とか2000万円とかの家が一軒買えるほどの金が掛かっただけで、出来ないわけではなかったのだ。
当時のコンピュータでリーズナブルな金の範疇で出来ることは「単純なゲーム」と「ベーシックを動かしてプログラムを組んで遊ぶ」だけだった、と言うのが正しいわけ。
だけど「単純なゲームを自分で組んで遊べます」じゃマニア以外は買わないから「無限の可能性を持っていてプログラムでなんでも出来る」なんてかっこいい台詞で何も知らない素人に押し付けていたわけ。
それでもまだ、こんなワケの分からない商品を面白がって触るのは好奇心旺盛な人間、それも一部の新しいモノ好きの金持ちだけ。店の売り上げから見れば「小さな商売」だったのだ。
そこに「マイコンブーム」ってのが起こって、マイコンは一般に広く名前が知られるようになり、一般の人の興味を引くことになった。
店にマイコンを買いに来る人は後を絶たなくなり、店の売り上げはどんどん伸びた。ところがコンピュータは「拡張機器」とか「ソフト」って奴があるおかげで、売りっぱなしあとは修理以外は知りません、なんて言えるもんじゃない。
アフターサービスが当時の他の電気商品より遥かに複雑だったわけだね。
だから電気屋の店員は、売ってもいないソフトのサポートをしないといけないし、ブームのおかげで、どんどん新製品が出るしでとんでもなく大変だった。
そこに現れた便利な「ヤツ」がナイコン族(マニアだけどね)。
ナイコン族は新製品を店員よりも良く知ってたし、店にとっては複雑な商品も簡単にセットアップしたし、分からないことも聞けば知っていて教えられる便利な人だったわけ。
結果的に、店とナイコン族の間にはある種の共生関係が出来てきた。
店にある機械を使わせてあげることで、ナイコン族は毎日店に現れるようになり、寄せ餌になって他のマニア(買えるぐらい金を持っている人もいるってわけ)も集まってくる。
結果的にナイコン族は客集めまでしてくれるほとんどタダで働くおいしいバイトだったわけ。
皮肉な見方をすれば、ブームが起こった状態ですら、その程度の市場で、実用性がなかったってことの裏返しな訳だけどね。
では、その毎日現れるナイコン族は店で何をやっていたのか?
なんと驚くべきことにプログラムを組んで遊んでいたのだ。
学校から帰れる4時頃には店に現れ、店が閉まるまでプログラム。日曜は朝の10時から夜の7時に店が閉まるまでプログラム。まさに店に居座ってプログラムをしていた。(いやまったく今から考えれば唖然とする話だ。今で言えば店先のマシンでゲームを遊んでいるのに感覚的には近いと思うけど、それにしても無茶だ)
なにせ、電気店なら自分の小遣いじゃ高くて買えないマシンもタダで使えるし、機種もたくさんあったし、メモリもだいたい目一杯に拡張されていた。
寝転がったり出来ないのを除けば、家でプログラムをするよりよっぽど楽しい場所だった。
てなわけで1977年頃から、電気屋のコンピュータが置いてある場所(コンピュータショップなんて気の利いたものはまだなかった)はナイコン族の溜り場となって、来る日も来る日も、マニアがプログラムを作っている不思議な場になっていった。
なにを隠そう、愛機を持っていた僕も「店に棲んでいるマニア」の一人だった。中学~高校の受験勉強なんてそっちのけで毎日コンピュータと共に暮らしていたってわけ。
こうして店に集まったマニア達。
毎日、同じ顔ぶれを見ていればだんだん顔なじみになるし、話もするようになる。話が合えば友達になっていく。(だいたいコンピュータの事しか話さないんだから合うに決っている)
段々、顔なじみが確実に集まるようになっていき、人数も増える。なんとなく仲間意識も出来て来る。
そしてある日、誰かが言い出した。
「コンピュータ倶楽部を作ろうじゃないか」
まあ、今の人には『電気屋で集まったマニア達がコンピュータ倶楽部を作ろうと思う』なんてバカな話は信じられないかもしれないけれど、本当。
当時はマイコンなんてマイナーな代物に興味を持っている人間はほとんどいなかったから、学校で話題になったりするもんじゃない。
そしてまたマイコンって趣味は一人で出来るもので、人が集まらないと趣味として遊べないようなものでもない。
ところがその趣味の中核をなすプログラミングって作業は一人でも出来るけど、一人で高いレベルのプログラムを組めるようになるのは難しい。プログラムのレベルを上げるには人に見せて、使ってもらうのが一番いい。
今なら人に見せるにはネットって手もあるけれど、当時はネットなんて存在しなかった。(だいたいモデムなんてありゃあしなかった)
結局のところ本屋のマイコンコーナーか電気屋の店先が仲間を見つけるのに一番いい場所だったんだから、考えてみれば店先にコンピュータ倶楽部が出来たのも不思議じゃなかったわけ。
そんなこんなで、ついに店先のコンピュータ倶楽部は活動を始めた。
じゃあ、なんのプログラムを作っていたのかと言えば、やっぱり大半はゲーム。
市販のゲームなんてほとんど存在しなかったから、ゲームは自分で作るか、雑誌に載っているリストを入力するしかなかった。
ところが雑誌で出ているゲームも結局下らないものが多かったし、数少ない市販されているゲームなんて値段を考えれば絶対にコストパフォーマンスがいいもんじゃなかった。
だから自分で作るゲームの方がよっぽど面白かったわけ。
それにプレイしてくれる人間がすぐ近くにいるし、その評価も聞ける。だから作る気合いも違ったし、ホントに熱中して作ったものだ。結果的にはメンバーがゲームを作って交換しあうことで倶楽部だけのオリジナルなゲームのライブラリが出来ていった。正確には憶えいないんだけれど、軽く100本は持っていたと思う。
こんな風に楽しくやっていれば、倶楽部に新しく入りたがる奴も出てくるし、元のメンバーは辞めるわけもない。メンバーがどんどん増えて行くのが当り前。
倶楽部は順風満帆。
電気屋の店先のコンピュータ倶楽部の繁栄は永遠に続くと思えた。
けれど、世の中、何事にも始まりがあれば終りがある。
それが証拠に今では電気屋の店先にあるコンピュータ倶楽部なんてどこにもない。(まさかないよね?)
なぜ倶楽部は消えていったんだろう?
それはマイコンがパソコンになったからだ。
マイコンは、まさにみるみるうちに力を付けていった。
ハードを見れば、メモリは1年毎に16キロから32キロ、64キロと倍々ゲームで増えた。モニタを繋いで電源を入れるだけでベーシックが立ち上がるようになった。
比較的安い価格でディスクが繋がるようになり、DOSが動くようになり、とうとう画面に漢字が表示出来るようになった。
そしてソフトはと言えば、カセットからディスクへとメディアは進化し、財政管理も出来ればワープロも出来た。ゲームも市販のものが溢れるようになり、マイ・コンピュータはパーソナルコンピュータとなった。
パソコンの名にふさわしいものにマイコンがなるに従って、コンピュータはマニアのものではなく、誰にでも使える普通の道具になって行った。
そしてパソコンのパワーアップに伴って、パソコンは店にとってどんどん「大きな商売」になっていった。
店の片隅のうす暗い所にあった「マイコンコーナー」は「パソコンコーナー」と呼ばれるようになり、明るく、広くなって、画面に円グラフやワープロのデモがいつでも映っているきれいな場所になっていった。
パソコンコーナーは「お金を持った人」が「仕事のための道具」を買いに来る場所となり、次第にマニアは邪魔者となり、いる場所はなくなっていった。
倶楽部のメンバーが一番好きだった、空いている時間の全てを使って、あらゆる努力を傾けたマイコン。
なんとも皮肉なことに、そのマイコンが力をつけて実用に耐えるもの、つまりパーソナルコンピューターになったとき、マイコンは「ただの趣味」から実用品になり、店とマニアの共生関係は崩れて、店のコーナーはマニアの棲息する場所ではなくなった。
最後には、店にとってマニアはただの「商売の邪魔をする人」になり、マニアは居場所を失って、静かに店から消えて行った。
こうして電気屋の店先の倶楽部は消滅した。
だれどメンバーのコンピュータに対する入れ込みは、電気屋の店先から追い出されたぐらいでコンピュータをあきらめられる程度のものじゃなかった。
コンピュータでプログラムをする魅力にとりつかれて、もはやプログラムがない生活なんて考えられなかった。
だから、なんとか場所を確保して(場合によっては下宿を借りたり、人の下宿に部室を作っちゃったりして)しゃかりきになって倶楽部を続けて行った。
それほどの努力をして続けようとした倶楽部だったけれど、やっぱり倶楽部は一部の例外を除いて、徐々に消滅していった。
就職や入学で主要メンバーが抜けるに従って、活力や求心力が失われて倶楽部そのものが意味をなくしていったのだ。
そして活力を失った倶楽部が分解・消滅していったとき、メンバーの大半は静かに消えていった。
1977年の昔はメンバーもマイコンも若く、恐れを知らず、力に溢れていたけれど、マイコンがパソコンになって「無限の可能性」を忘れた時、それぞれのメンバーも大人になってマイコンから卒業していった‥
な~~~~んて『嘘』。
卒業なんて誰もしなかった。
1977年の当時、マイコンの持つ魅力にとりつかれた人間の大半はマイコンと共に生きることを選び、一人、また一人とコンピュータ関連のプロになっていったのだ。
そして僕がマイコンと出会ってから16年が過ぎた。(*9)
今‥コンピュータなしの生活は考えられないほど、コンピュータは途方もなく強力になり、実用に耐えるようになり、自由に使えるようになった。
だけど、1977年を振り返ったとき、あの時だけ、まさにあの時だけにあった、今から見ればオモチャのようなマシンに感じた「驚異」や「感動」はどこにもない。
あるのは「発展途上の成熟」(変な表現出来ないけど、ホントにそうだと思う)だけで1977年の黎明期のマイコンにあった熱気溢れる若さはどこにもない。
僕は思う。
疑いもなく、1977年はマイコンの青春時代だったのだと。
そして、マイコンがパソコンになったとき、マイクロ・コンピュータの青春時代は終ったのだと。
新たなコメントは【注】、最初からあったコメントは【原注】と表記している。
■■■
「ナイコン」…これってワケのわかんない言葉だよね。
この「ナイコン」、なにかって言うと、1976~80年ごろのマイコンはとてつもなく高くて、なーんの使い道もないし、なーんの実用性もないから親が買うわけもなくて、そして値段が高いから子供の小遣いで買えるわけもない代物だった。
けれども欲しい。
しかたないから雑誌を買ったり、本を読んだりして紙上でプログラムを勉強し、店先のコンピュータでプログラムを打ち込む、そんなコンピュータを持っていないコンピュータマニアを「コンピュータを持っているマニア=マイコン族」の逆、「ナイコン族」と呼んだわけ。
【注】 当時はパソコンではなく、マイクロコンピュータを略して「マイコン」と呼ばれていた。で、この「マイ」が「マイ・ホーム」なんかの「マイ」と同じなんで「マイ・コンピュータ」とも引っかけられていた。
だから「ナイ・コン」なんて言葉が成り立つ余地があったワケだ。
だから「ナイ・コン」なんて言葉が成り立つ余地があったワケだ。
ところで「なーんの実用性もない」と書いたけれど、これはマイコン黎明期、つまり1976-80頃のマシンのパフォーマンスを考えれば当り前。
フルセットのシステム、本体、専用グリーンディスプレイ、放電プリンタ、それにディスクを揃えれば(ディスクは存在すればだけど)100万円以上は当り前。その癖してメモリは8~20キロバイト程度。(奇跡的に32キロとか64キロってシステムは存在したけど)
漢字も出ないし、ソフトを立ち上げるのはだいたいカセットテープで、運良くテープリードエラーが起こらなくても立ち上げるのに10分以上かかる。だいたいそのソフトからしてベーシックがあれば運がいい方。
当然「市販ソフト」なんてないし、ましてやワープロ・スプレッドシートなんてまったくない。(漢字が出ないんだからワープロが出来ないのも当り前だけど)
パワーもなければソフトもない。まさにないないづくしな代物だったわけ。
【注】
■グリーンディスプレイ
当時はカラー表示なんて高級なマイコンにしかなかった。で、目が疲れない専用ディスプレイとして緑の文字を出すブラウン管があったのだ。
■放電プリンタ
当時主流だった安くて、それなりに使えるプリンタ。アルミ蒸着された特殊な紙を放電で焼くから「放電プリンタ」と呼ばれた。
■カセットテープ
オーディオ用のカセットテープを利用して、当時はデータやプログラムのセーブが行われていた。速度は110~2400bps。
■グリーンディスプレイ
当時はカラー表示なんて高級なマイコンにしかなかった。で、目が疲れない専用ディスプレイとして緑の文字を出すブラウン管があったのだ。
■放電プリンタ
当時主流だった安くて、それなりに使えるプリンタ。アルミ蒸着された特殊な紙を放電で焼くから「放電プリンタ」と呼ばれた。
■カセットテープ
オーディオ用のカセットテープを利用して、当時はデータやプログラムのセーブが行われていた。速度は110~2400bps。
こういうポンコツが電気屋の店先で麗々しく「マイクロ・コンピュータ(無限の可能性を持つ!)」として飾られていたわけだけど…電気屋の店員にとっては、こいつはまさしく頭痛のタネだった。
「なーんにも使えないゴミのごとき商品」なのに「やたらめったら商品説明が難しい」のだ。
実はこのことは今でも本質的には変らない。コンピュータほど「何に使えますか?」と聞かれて困る物も珍しい。
プログラムを組んで、周辺機器を作れるなら(しかもとんでもなく難しいわけでもない。ある程度の努力をすれば誰でも出来る(!))炊飯器の制御だろうと、シャッターの開け閉めだろうとワープロだろうと電話の制御だろうと、およそ考え付くことなんでも出来るんだから「何に使えますか?」と言われて困るのが当り前。
今は単に「ワープロ」とか「ゲーム」とか「表計算」とか「データベース」なんかに代表される『コンピュータでやれること』を普通の人が認識しているから、店の人も「ワープロに使える」とか「家計簿に使える」って言うだけ。
【注】 ここにインターネットとメールが入っていないのは、当時はインターネットもメールも普及していなかったから。当時、パソコン使う上で最も大きな要素はワープロだった。
コンピュータに出来ることが1977年当時から変ってしまったわけじゃない。
単に1977-80年当時のマイコンでワープロとか表計算をするのには1000万円とか2000万円とかの家が一軒買えるほどの金が掛かっただけで、出来ないわけではなかったのだ。
当時のコンピュータでリーズナブルな金の範疇で出来ることは「単純なゲーム」と「ベーシックを動かしてプログラムを組んで遊ぶ」だけだった、と言うのが正しいわけ。
だけど「単純なゲームを自分で組んで遊べます」じゃマニア以外は買わないから「無限の可能性を持っていてプログラムでなんでも出来る」なんてかっこいい台詞で何も知らない素人に押し付けていたわけ。
それでもまだ、こんなワケの分からない商品を面白がって触るのは好奇心旺盛な人間、それも一部の新しいモノ好きの金持ちだけ。店の売り上げから見れば「小さな商売」だったのだ。
そこに「マイコンブーム」ってのが起こって、マイコンは一般に広く名前が知られるようになり、一般の人の興味を引くことになった。
【注】 マイコンブーム時代、出来るサラリーマンはBASICを使いこなす、なんて本まであった。とても信じられないだろうが。
店にマイコンを買いに来る人は後を絶たなくなり、店の売り上げはどんどん伸びた。ところがコンピュータは「拡張機器」とか「ソフト」って奴があるおかげで、売りっぱなしあとは修理以外は知りません、なんて言えるもんじゃない。
アフターサービスが当時の他の電気商品より遥かに複雑だったわけだね。
だから電気屋の店員は、売ってもいないソフトのサポートをしないといけないし、ブームのおかげで、どんどん新製品が出るしでとんでもなく大変だった。
そこに現れた便利な「ヤツ」がナイコン族(マニアだけどね)。
ナイコン族は新製品を店員よりも良く知ってたし、店にとっては複雑な商品も簡単にセットアップしたし、分からないことも聞けば知っていて教えられる便利な人だったわけ。
結果的に、店とナイコン族の間にはある種の共生関係が出来てきた。
店にある機械を使わせてあげることで、ナイコン族は毎日店に現れるようになり、寄せ餌になって他のマニア(買えるぐらい金を持っている人もいるってわけ)も集まってくる。
結果的にナイコン族は客集めまでしてくれるほとんどタダで働くおいしいバイトだったわけ。
皮肉な見方をすれば、ブームが起こった状態ですら、その程度の市場で、実用性がなかったってことの裏返しな訳だけどね。
では、その毎日現れるナイコン族は店で何をやっていたのか?
なんと驚くべきことにプログラムを組んで遊んでいたのだ。
学校から帰れる4時頃には店に現れ、店が閉まるまでプログラム。日曜は朝の10時から夜の7時に店が閉まるまでプログラム。まさに店に居座ってプログラムをしていた。(いやまったく今から考えれば唖然とする話だ。今で言えば店先のマシンでゲームを遊んでいるのに感覚的には近いと思うけど、それにしても無茶だ)
なにせ、電気店なら自分の小遣いじゃ高くて買えないマシンもタダで使えるし、機種もたくさんあったし、メモリもだいたい目一杯に拡張されていた。
寝転がったり出来ないのを除けば、家でプログラムをするよりよっぽど楽しい場所だった。
てなわけで1977年頃から、電気屋のコンピュータが置いてある場所(コンピュータショップなんて気の利いたものはまだなかった)はナイコン族の溜り場となって、来る日も来る日も、マニアがプログラムを作っている不思議な場になっていった。
なにを隠そう、愛機を持っていた僕も「店に棲んでいるマニア」の一人だった。中学~高校の受験勉強なんてそっちのけで毎日コンピュータと共に暮らしていたってわけ。
【注】 ここに書かれていることは、今の人達に取って全く信じられない話だろうが、嘘も偽りもない本当だ。僕の場合には学校が終わったらともかく店に来て、店で4時-8時ぐらいまでプログラムし、そのあとゲーセンに行って遊ぶという生活をしていた
こうして店に集まったマニア達。
毎日、同じ顔ぶれを見ていればだんだん顔なじみになるし、話もするようになる。話が合えば友達になっていく。(だいたいコンピュータの事しか話さないんだから合うに決っている)
段々、顔なじみが確実に集まるようになっていき、人数も増える。なんとなく仲間意識も出来て来る。
そしてある日、誰かが言い出した。
「コンピュータ倶楽部を作ろうじゃないか」
まあ、今の人には『電気屋で集まったマニア達がコンピュータ倶楽部を作ろうと思う』なんてバカな話は信じられないかもしれないけれど、本当。
当時はマイコンなんてマイナーな代物に興味を持っている人間はほとんどいなかったから、学校で話題になったりするもんじゃない。
そしてまたマイコンって趣味は一人で出来るもので、人が集まらないと趣味として遊べないようなものでもない。
ところがその趣味の中核をなすプログラミングって作業は一人でも出来るけど、一人で高いレベルのプログラムを組めるようになるのは難しい。プログラムのレベルを上げるには人に見せて、使ってもらうのが一番いい。
今なら人に見せるにはネットって手もあるけれど、当時はネットなんて存在しなかった。(だいたいモデムなんてありゃあしなかった)
結局のところ本屋のマイコンコーナーか電気屋の店先が仲間を見つけるのに一番いい場所だったんだから、考えてみれば店先にコンピュータ倶楽部が出来たのも不思議じゃなかったわけ。
そんなこんなで、ついに店先のコンピュータ倶楽部は活動を始めた。
じゃあ、なんのプログラムを作っていたのかと言えば、やっぱり大半はゲーム。
市販のゲームなんてほとんど存在しなかったから、ゲームは自分で作るか、雑誌に載っているリストを入力するしかなかった。
ところが雑誌で出ているゲームも結局下らないものが多かったし、数少ない市販されているゲームなんて値段を考えれば絶対にコストパフォーマンスがいいもんじゃなかった。
だから自分で作るゲームの方がよっぽど面白かったわけ。
それにプレイしてくれる人間がすぐ近くにいるし、その評価も聞ける。だから作る気合いも違ったし、ホントに熱中して作ったものだ。結果的にはメンバーがゲームを作って交換しあうことで倶楽部だけのオリジナルなゲームのライブラリが出来ていった。正確には憶えいないんだけれど、軽く100本は持っていたと思う。
こんな風に楽しくやっていれば、倶楽部に新しく入りたがる奴も出てくるし、元のメンバーは辞めるわけもない。メンバーがどんどん増えて行くのが当り前。
倶楽部は順風満帆。
電気屋の店先のコンピュータ倶楽部の繁栄は永遠に続くと思えた。
けれど、世の中、何事にも始まりがあれば終りがある。
それが証拠に今では電気屋の店先にあるコンピュータ倶楽部なんてどこにもない。(まさかないよね?)
なぜ倶楽部は消えていったんだろう?
それはマイコンがパソコンになったからだ。
マイコンは、まさにみるみるうちに力を付けていった。
ハードを見れば、メモリは1年毎に16キロから32キロ、64キロと倍々ゲームで増えた。モニタを繋いで電源を入れるだけでベーシックが立ち上がるようになった。
比較的安い価格でディスクが繋がるようになり、DOSが動くようになり、とうとう画面に漢字が表示出来るようになった。
そしてソフトはと言えば、カセットからディスクへとメディアは進化し、財政管理も出来ればワープロも出来た。ゲームも市販のものが溢れるようになり、マイ・コンピュータはパーソナルコンピュータとなった。
パソコンの名にふさわしいものにマイコンがなるに従って、コンピュータはマニアのものではなく、誰にでも使える普通の道具になって行った。
そしてパソコンのパワーアップに伴って、パソコンは店にとってどんどん「大きな商売」になっていった。
店の片隅のうす暗い所にあった「マイコンコーナー」は「パソコンコーナー」と呼ばれるようになり、明るく、広くなって、画面に円グラフやワープロのデモがいつでも映っているきれいな場所になっていった。
パソコンコーナーは「お金を持った人」が「仕事のための道具」を買いに来る場所となり、次第にマニアは邪魔者となり、いる場所はなくなっていった。
倶楽部のメンバーが一番好きだった、空いている時間の全てを使って、あらゆる努力を傾けたマイコン。
なんとも皮肉なことに、そのマイコンが力をつけて実用に耐えるもの、つまりパーソナルコンピューターになったとき、マイコンは「ただの趣味」から実用品になり、店とマニアの共生関係は崩れて、店のコーナーはマニアの棲息する場所ではなくなった。
最後には、店にとってマニアはただの「商売の邪魔をする人」になり、マニアは居場所を失って、静かに店から消えて行った。
こうして電気屋の店先の倶楽部は消滅した。
だれどメンバーのコンピュータに対する入れ込みは、電気屋の店先から追い出されたぐらいでコンピュータをあきらめられる程度のものじゃなかった。
コンピュータでプログラムをする魅力にとりつかれて、もはやプログラムがない生活なんて考えられなかった。
だから、なんとか場所を確保して(場合によっては下宿を借りたり、人の下宿に部室を作っちゃったりして)しゃかりきになって倶楽部を続けて行った。
それほどの努力をして続けようとした倶楽部だったけれど、やっぱり倶楽部は一部の例外を除いて、徐々に消滅していった。
就職や入学で主要メンバーが抜けるに従って、活力や求心力が失われて倶楽部そのものが意味をなくしていったのだ。
そして活力を失った倶楽部が分解・消滅していったとき、メンバーの大半は静かに消えていった。
1977年の昔はメンバーもマイコンも若く、恐れを知らず、力に溢れていたけれど、マイコンがパソコンになって「無限の可能性」を忘れた時、それぞれのメンバーも大人になってマイコンから卒業していった‥
な~~~~んて『嘘』。
卒業なんて誰もしなかった。
1977年の当時、マイコンの持つ魅力にとりつかれた人間の大半はマイコンと共に生きることを選び、一人、また一人とコンピュータ関連のプロになっていったのだ。
そして僕がマイコンと出会ってから16年が過ぎた。(*9)
今‥コンピュータなしの生活は考えられないほど、コンピュータは途方もなく強力になり、実用に耐えるようになり、自由に使えるようになった。
だけど、1977年を振り返ったとき、あの時だけ、まさにあの時だけにあった、今から見ればオモチャのようなマシンに感じた「驚異」や「感動」はどこにもない。
あるのは「発展途上の成熟」(変な表現出来ないけど、ホントにそうだと思う)だけで1977年の黎明期のマイコンにあった熱気溢れる若さはどこにもない。
僕は思う。
疑いもなく、1977年はマイコンの青春時代だったのだと。
そして、マイコンがパソコンになったとき、マイクロ・コンピュータの青春時代は終ったのだと。
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