CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
<<  2024 - 11  >>

PROFILE
同人誌 電子書籍版
Re:ゼロから始める
ゲームシナリオ


ライトニング伝説


さよならハドソン


ドラクエとFFと
ToHeart


誰得ゲームライフ


ときめきメモリアル
の時代

イースI・II製作メモ

頒布ページ
LINKS
NEW ENTRIES
CATEGORIES
COMMENTS
    イースⅠ・Ⅱ通史(3):『リグラス』から『ロマンシア』
  • タムロ (02/03)
    イースⅠ・Ⅱ通史(1):PC88MkⅡSRの発売
  • tamuro (01/05)
  • おお! (01/03)
TRACBACKS
OTHERS
SEARCH BOX
POWERED BY
POWERED BY
ぶろぐん
DESIGN BY
ブログンサポート

決戦前夜(6) - 追補
過去記事の集合体はコレ

このパートは「決戦前夜」の内容について書ききれなかったことを、いろいろ落ち穂拾いしておこうってネタ。
つまり、全くの書き下ろしパート、ということになる。

■■■


(1)の追補
「1」本文
「ギャルゲー」を期待できないと思った理由は明白で、まず書いたとおり、PCエンジンのソフトの本数が減り始めて、ハードの終わりが見えてきていたからだ。
そして、当時、コナミは僕にとってフェイバリットメーカーの一つだったので、マーシャルチャンピオンの出来にはガッカリさせられたうえに、前は

92/10 - スナッチャー
92/12 - グラディウスII
93/10 - 悪魔城ドラキュラX

このなんとも豪華なラインアップで、今でも名作といわれている作品ばかり。これの後が出来の悪いマーシャルチャンピオンで、次がギャルゲーと聞いたら期待できるわけもない(苦笑)
「ああ、コナミも数合わせに走ったワケね」と思うに決まっている。

(2)の追補
「2」本文
「ときメモ」が発売された年は、まさに「次世代戦争」といわれた年で、3DO、PC-FX(遅れたけど)、PS1、SS、N64(遅れたけど)の5機種が発表された年でもある。
(そしてエメラルドドラゴンが発売された年でもあったりするけれど(笑))

世の中のほとんどの人は忘れているであろう"3DO"は、その登場は衝撃的だったけれど、あっという間にPS1とSSの次世代戦争の中で負けていった。
日本ではあまり知られていない3DO社を創業したトリップ・ホーキンスはEAの創業者の1人で、僕の知り合いの編集者がインタビューしている。
そのとき「3DOは成功する」と自信満々なのに対して「値段が高すぎると思うのですが?」と質問したら「マルチメディアマシンなのだから大丈夫だ」と言ったと言っていた。僕は、この言葉を聞いて3DOはダメだと思った。
なぜならこの言葉、常に同じセリフを僕は聞いてきた。CD-iのとき、僕が最初に入った会社の人は言った。
「マルチメディアでデジタルエンタテイメントはファミコンとは違う」
アメリカでフィリップスと喧嘩したときもフィリップスの連中は同じ事を言った。でも、結局のところ、フィリップスも会社の上司も、マルチメディアマシンとゲーム機に「(値段の違い以外に)なんの違いがあるのか」をわかりやすく説明できた人はおらず、CD-iは言うまでもなく惨敗した。
そして、次に聞いたのは3DOで、やっぱり惨敗したわけだ。
「マルチメディア」は「なんでも出来ることになってます」の言い替えでしかなく、で「なにが出来るの?」の問いに正しくは答えられない。その点で、ゲームはとてもわかりやすく明快で「これはゲームが出来ます」と言える。
だいたいパソコンだって、普通買うときメインに使う目的がある。つまりその目的を定められていない「マルチメディアマシン」など最初から失敗する運命にあるわけだ。

また1994年にPS1とサターンが発表されたとき、業界はどちらかというと、PS1よりはサターンの方が勝つと思っていた。例えばPS発売直後、僕はハドソンの中本さんと会食しているのだが、そのとき中本さんは「PSはブームだからサターンが一時的に勝って、最後は任天堂じゃないかな」といいながら、僕にPC-FXの話をしていた。
当時ハドソンはPSとサードパーティ契約をしておらず、セガとサードパーティ契約する方針を取っていた。つまりメインはPC-FX、サイドのラインにサターンというのがハドソンの考え方だった。
これには理由はある。
(2)で書いたが、PS1は極端なまでに3Dに特化した設計だった。
そして、SFC後期、アメリカでは第一次3Dゲームブーム…とでも呼ぶ状態で「フライトシミュレータ/シューティング系」を中心に、様々な3Dゲームが次から次へと出ている状態だった(僕はそれをGatewayの386機で夢中になって遊んでいた)。
これらのゲームの中で日本でも売れそうなものが、日本に移植されていたのだが、日本ではさっぱり売れなかった。つまり当時のゲーム業界では「3Dゲームは売れない」という認識だったわけだ。
そんなところに新参者がやってきて「これから全てのゲームは3Dになる。時代は光学メディアだ」と言っても、信じられないのが当たり前だろう。
SSはそういう意味では「3Dもやれる超高性能2Dマシン」だったので、業界内ではウケがとても良かった。

またFXについて触れておくと、これはハドソンが主導で開発したマシンだがWikipediaに書いてある「3Dを考えて開発していたがチップが間に合わず、ああいったハードになった」と書いてあるが、これはまるでウソだ。
当時、ハドソンの社内では3Dについてほとんど考えておらず、PCエンジンの延長で動画メインの設計を考えていたら、PSが出てきて、あわててフレームバッファ方式を考えはじめたのが真相だ。
ここらへんの見る目のなさはハドソンが「ハイエンド側の例えば、当時のSGIのIRISやらindigoといったワークステーションのような環境で仕事をしたことがない」とか「アーケードでちょうど始まっていた熾烈な3D競争をちゃんと見ていない」ことに尽きる。要は彼らはPCエンジンの延長で動画強化すればいいと考えていたわけだ。

(3)の追補
「3」本文
レビューについては、今はむしろ最低30分~1時間以上はプレイしたあと、ライターから借りてでもいいから、10時間ぐらいプレイした後を見ないと逆に怖い時代だと思う。
というのも、最近のゲームはユーザーの心をつかむために前半部にやたらイベントを入れていることが多く、後半部にダルになることが多々あるのだ。
また、エンディングが緑の画面になったときは本当に呆然とした。
発売がこれほど間近(1ヶ月しかなかったわけだが)で、エンディングが入っていないソフトがレビューに来たのは初めてだったと記憶している。

(4)の追補
「4」本文
未だもって、一番後悔しているのが95点だ。これは今では100点をつけておくべきだったと思う。
だがまた反面95点にした最大の理由もあった。それは2回目、時間がない中レビューをしたとき感じたプレイタイムの長さだった。
何度も繰り返しプレイをするのに一度のプレイが「急いでプレイしても8時間以上かかる」ということは、数回のプレイで簡単に数十時間になるということだし、フルクリアを目指せば100時間以上。さすがに長さ的に厳しいと思ったわけだ。
ちなみにあとから作者に聞いたら「当初は初プレイは8時間程度、慣れると5時間弱」ぐらいのつもりだったらしい。
どうして伸びたのかというと、フルボイスは想像以上にゲームのプレイ時間を延ばした、というのが答えだった。
またニフティでの特設会議室は、ある意味革命的だったと思う。SNS的な盛り上がりで自分たちで勝手に盛り上がる面白さ、というのを本当に感じた瞬間だった(今では祭やいろいろな形でフォーマットになってしまっている盛り上がり方だが、当時は本当に間違いなく初めてだったのだ)。

(5)の追補
「5」本文
書き忘れていたが「あいたくて」は2000年に発売された。まるで話題にならなかったが、結構面白いアイディアが組み込まれていた作品だった。

以下は、Twitterでちょっと触れた「ときメモ」についての個人的な今の所の評価だ。
本質的には「全くゲームの事をしっかり考えられないプロデューサーが迷走させた挙げ句に自滅したシリーズ」というのが僕の評価だ。

特に致命傷だったのはオンラインだろう。偉そうにユーザーのコミュニケーションだなんだと語っていたがmixiがあるご時世に数千円毎月払って、出来るのがチャット&クイズ&出来の悪い恋愛ゲームでは話にもならない。どういうビジョンで「ユーザーの満足度を得るつもり」だったのか、いまだもって聞きたく思うぐらいだ。
|| 02:03 | comments (3) | trackback (0) | ||

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント
いやぁ、とある場所からこのブログが目に入ってどれも懐かしく新しいことばかりだったのでつい一気に全部読んでしまいました。
ときメモはギャルゲー?けっ、とか思っていまだにプレイしたことがないのですが、当時熱狂していた友人知人を目の当たりにしていたので確かにそうだったなと当時のことを思い出しました。
そういえば、ときメモが出ると雑誌で知ったときにはコナミが壊れたと思ったものです。余談ですがパネルでポンが任天堂から出ると知ったときも任天堂が壊れたと思いました。
| ゆう | EMAIL | URL | 11/05/05 01:24 | t7emAFwA |
開発環境や、様々なものをPCエンジンの資産を引き継ぐことで有利に展開しよう、という発想だったんです。
良くも悪くもPC的な発想ですね。

実際、3DO・サターンと「2D戦争をやる」なら、PC-FXは致命的な性能のマシンではありませんでした。
動画性能ではPS1よりいいぐらいですし、スプライト性能はヘボいけれど、そこはがんばって、次のチップで「PC-FX2」に繋げばよかったわけです。

問題はSCEが登場して「これからのゲームは3D!」って叫びだしたことと、アーケードに3Dの波が押し寄せてきて、パラダイムシフトが起こったときにPC-FXではどうしようもなかった、ということです。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 10/06/05 14:23 | 2OXmdoFs |
>要は彼らはPCエンジンの延長で動画強化すればいいと考えていたわけだ。
80年代はのハドソンは結構先見の明はあったと思いますが、
さすがにPC-FXメインで行くという戦略は、当時としても暴挙にしか見えませんね。

http://bbs80.meiwasuisan.com/bbs/bin/img/gamehard/12636264410001.jpg

>業界はどちらかというと、PS1よりはサターンの方が勝つと思っていた
私個人の当時の主観ですが、設計思想はもとより、サターンは本体のデザインや
カラーも地味だし、パッドも従来型の延長など、さほど目新しさは感じませんでしたね。

一方のPSの方は、割り切って特化した設計思想、本体デザインの良さ、多分家庭用では
初のグリップ付きのパッドの採用、1Pと2Pに挿せるメモリーカード、そしてなんといっても
当時のSCEの秀逸な広報戦略が強烈に印象に残ってます。TVCMのスポンサーに
「プレイステーション」とか製品名でついたりするのはゲーム業界ではこれが初だったのでは?
| はちはち | EMAIL | URL | 10/06/04 22:17 | 7Q0Cf0A. |
この記事のトラックバックURL :
トラックバック