2011-09-09 Fri [ レビュー::ゲーム ]
「バイオハザード」は1996年にプレイステーション1(以下PS1)で発売されたソフトである。
当初は25万本ほどの販売だったが、徐々に売上を伸ばし、ついにはPS1最初のミリオンセラーソフトとなり、カプコンを代表するシリーズの一つとなった作品である。
どこかの少年マンガ「バイオハザードを作った男たち」では、いい加減なストーリーによるいい加減な開発の話が書かれていた(あのマンガの中で正しいのは名前だけだと思う…)が、実際の「バイオハザード」に至る道は、本当に長く、そのコミックの比ではない。
ここでは、バイオハザードに至るまでの道のりと、さらにバイオハザードがゲーム界に何をもたらしたのかについて論評してみたい。
■始まり
バイオハザードに至る道のりの始まりは、本当のルーツを辿れば、むろん様々なアドベンチャや、その他全てのコンピュータRPG(以降CRPG)と同じ、世界初のロールプレイングゲーム「ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)」(TSR/1974)に求められるわけだが、ここから話を始めるとあまりに様々なソフトと重なる部分があるので──ここでは全てのルーツは「D&D」にあり、コンピュータRPGとアドベンチャの全てのもとは、そこにあると理解しておけばいいだろう。
ではバイオハザードへの始まりは、どこに置くべきか? 始まりを、実際のゲームの中でバイオハザードの形がそこはかとなく見えるところに求めると、バイオハザードへの第一歩は1983年のアメリカに遡る。
なので、そこから話を話を始めることにしよう。
■1983年・アメリカ
1983年、Video Game Crush(日本で言うアタリショック。言葉としては明らかに間違っているが知られている言葉なので、以後、一応アタリショックと言う表現をする)の真っ只中にあったシェラ・オンラインはひとつのアドベンチャゲームをリリースした。
それが「キングズ・クエスト1 Quest for the Crown」(1983・IBM-PC Jr.)。
これがどうして制作されたのかというと、当時IBMはIBM-PCでビジネス市場を確立したので、次にいわゆるホームコンピュータ市場を"IBM-PC Jr."で制覇しようと考えており、そのために当時有名だったシェラ・オンラインに「低年齢層向けのアドベンチャゲーム」を制作してくれるように依頼し、これにシェラ・オン・ラインは応えて、キングズクエスト1を作ったわけだ。
なお、この"PC-Jr."は若干の変更を加え"PC-JX"という名前で日本で発売され、世紀の大失敗ハードと呼ばれることになる(アメリカでも成功したとは言いがたい)。
これがいかなるスタイルだったのかというと、画面にはパースのついたグラフィックが表示され(ほぼ横から見た画面)、その画面の中をキャラクタを歩き回らせ、様々なアイテムを駆使して、謎を解き、ストーリーを進めていくゲームだ(右画面)。
ちなみに右の画面は移植版の"Tandy 1000"版。出展はwikipedia:en。
簡単にまとめるなら、当時のグラフィックアドベンチャゲームでは表示されないのが常識だった主人公をアクションゲームのように表示して、画面の中を動き回れるようにして、画面の上の物に直接触って謎解きをしていくゲームだった。
このソフトは大ヒットとなり"Tandy 1000"など、様々なマシンに移植され、アタリショックの在庫に喘いでいたシェラ・オンラインを救うドル箱ゲームとなっただけでなく「キングズクエストスタイル」とででも呼ぶべきスタイル──すなわち、主人公が画面の中を歩き回り、実際にキャラクタがグラフィックに触ることにより、取ったり動かしたりして、謎を解いていくスタイルを確立した。
例えば天才ゲームデザイナー、ブライアン・モリアーティが手がけ、ルーカツアーツより発売された"LOOM"もそうだし、はたまたインディジョーンズ・アドベンチャもしかり、全然日本では知られていないけれど内容的に大好きな"The DIG"もそうだ(実はルーカスアーツは結構この手のスタイルのゲームを出している)。
また日本でも結構知られている超理不尽アドベンチャ「ミシシッピー殺人事件」ももちろんこれの系列と言うことになるし、SFCで発売された「アウターワールド(原題"another world"。これがどうして"outer world"になるのやら…)」などの作品群もそうだ。
つまり海外では「キングズクエスト1」の登場以降、このゲームが生み出したルールは、いわばリアルタイムアドベンチャとでも呼ぶべきスタイルとして一般化していったわけだ。
ところでだ。
普通に考えれば、ゲームデザイン的には驚くことはなく"APPLE-II"の全盛時代に登場していても、なんら不思議のない当たり前な、日本なら容易に登場しそうな、このスタイルのアドベンチャが、どうして海外では1983年まで登場しなかったのか?
1983年といえば、日本ではファミコンが発売された年で、すでに、この手のスタイルのアクションゲームはゴロゴロ…とまでは言わないけれど、結構一般化していたわけで、登場しない理由は全くない。
むしろ普通に考えて「どうして出てこないのか分からない」代物が、どうして1983年まで出なかったのか?
その理由は、海外のゲームデザインの考え方に大きな手がかりがある。
海外のゲームデザイン、特にアドベンチャとCRPGはどちらもテーブルトークRPGに端を発している。
そして、テーブルトークRPG、特にCRPGに強い影響を与えた第一世代RPG群(故・多摩豊氏命名)は本質的にはプレイヤー個人がなんらかの役を演じるゲームとしてゲームデザインされている。
これをコンピュータに持ち込むとき、当時のマシンではリソースがまるで不足でmお話と戦闘や成長を同時に持ち込むのがとても難しかった。だからテーブルトークのお話の部分を再現する(正確にはマスターとのセッション)ために作られたのがアドベンチャで、戦闘と探索の部分を再現するために作られたのがCRPGだ。
そして、プレイヤーがゲーム内のキャラになるのを率直に解釈すると、コンピュータのモニタは世界を覗く窓ということになり画面=プレイヤーの視界ということになる。
プレイヤーの視界なのだから画面上にプレイヤーの手や足は出てきても、プレイヤーの姿それ自体は見えないのが当たり前ということになる。
だから、海外のゲームでは「一人称視点(First Person Perspectiveと表現される)」が中心になったわけだ。フライトシミュレータの歴史が長いからとか、そういうわけではなくRPGの捉え方に決定的な理由があるわけだ。
そして、この思考の延長で迷路は3Dでキングスフィールドの元ネタになっている"Ultima Underworld"が現れ、海外では主流ジャンルの一つであるFPSが登場することになるが、それは1983年から数えて9年後ということになる。
この考え方があったので、当時の3Dではないアドベンチャでもグラフィックの描かれ方は「プレイヤーの目から見た画面をグラフィックにした」。だから、プレイヤーが画面に出てこないのが常識で「キングズクエスト」に至るまで、主人公が画面の中に登場するアドベンチャは実質的になかったわけだ。さらに書くと、主人公の性格付けなども行われなかった。なぜなら、本質的にプレイヤーキャラクタ=プレイヤーの性格となる、と考えられていたからだ。
とすると、逆の疑問が出てくる。
「なぜ、キングスクエストは主人公が歩くアドベンチャゲームとしてデザインされたのか?」
つまりプレイヤー=主人公の考え方を徹底していたアメリカで、どうして、このような歩くアドベンチャ、まるでプレイヤーが第三者のようなゲームが登場したのだろうか?
この理由は実は簡単で「PC Jr.」用、すなわちホームコンピュータ、ご家庭用の教育的なゲームだったからだ。
"King's Quest"は家庭用の、いわゆる「教育用ゲーム」としてデザインされたので、謎の難易度は低めで、子供が興味を持ってプレイ出来るようにわかりやすく、プレイヤーが操れるキャラクタを画面内に置いたのだ。
もっと噛み砕いて言うなら「キングスクエスト」はパソコンを使った、ゲームの形態を取った絵本としてゲームデザインされているわけだ。
そして、絵本なら読者(プレイヤー)とは別に主人公がいる。だから、主人公が第三者視点の画面の上に登場しているわけだ。
(ちなみに難易度低めと言っても、かなり考えないと解けないゲームだった記憶があるのだが…記憶違いだろうか)
この項目続く。
当初は25万本ほどの販売だったが、徐々に売上を伸ばし、ついにはPS1最初のミリオンセラーソフトとなり、カプコンを代表するシリーズの一つとなった作品である。
どこかの少年マンガ「バイオハザードを作った男たち」では、いい加減なストーリーによるいい加減な開発の話が書かれていた(あのマンガの中で正しいのは名前だけだと思う…)が、実際の「バイオハザード」に至る道は、本当に長く、そのコミックの比ではない。
ここでは、バイオハザードに至るまでの道のりと、さらにバイオハザードがゲーム界に何をもたらしたのかについて論評してみたい。
ちなみにマンガとして面白かった、とは思う。
少なくとも僕にとっては「ポップアップだ!」は一生の宝物のネームであるw
少なくとも僕にとっては「ポップアップだ!」は一生の宝物のネームであるw
■始まり
バイオハザードに至る道のりの始まりは、本当のルーツを辿れば、むろん様々なアドベンチャや、その他全てのコンピュータRPG(以降CRPG)と同じ、世界初のロールプレイングゲーム「ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)」(TSR/1974)に求められるわけだが、ここから話を始めるとあまりに様々なソフトと重なる部分があるので──ここでは全てのルーツは「D&D」にあり、コンピュータRPGとアドベンチャの全てのもとは、そこにあると理解しておけばいいだろう。
ではバイオハザードへの始まりは、どこに置くべきか? 始まりを、実際のゲームの中でバイオハザードの形がそこはかとなく見えるところに求めると、バイオハザードへの第一歩は1983年のアメリカに遡る。
なので、そこから話を話を始めることにしよう。
■1983年・アメリカ
1983年、Video Game Crush(日本で言うアタリショック。言葉としては明らかに間違っているが知られている言葉なので、以後、一応アタリショックと言う表現をする)の真っ只中にあったシェラ・オンラインはひとつのアドベンチャゲームをリリースした。
それが「キングズ・クエスト1 Quest for the Crown」(1983・IBM-PC Jr.)。
これがどうして制作されたのかというと、当時IBMはIBM-PCでビジネス市場を確立したので、次にいわゆるホームコンピュータ市場を"IBM-PC Jr."で制覇しようと考えており、そのために当時有名だったシェラ・オンラインに「低年齢層向けのアドベンチャゲーム」を制作してくれるように依頼し、これにシェラ・オン・ラインは応えて、キングズクエスト1を作ったわけだ。
なお、この"PC-Jr."は若干の変更を加え"PC-JX"という名前で日本で発売され、世紀の大失敗ハードと呼ばれることになる(アメリカでも成功したとは言いがたい)。
シェラ・オンラインは史上初のグラフィックアドベンチャ、不滅の金字塔"MYSTERY HOUSE"をAPPLE-IIでリリースした会社。それだけでもゲーム史上に燦然と名を輝かせるのは間違いないのに、King's Questもあるのだから…いやはや。
これがいかなるスタイルだったのかというと、画面にはパースのついたグラフィックが表示され(ほぼ横から見た画面)、その画面の中をキャラクタを歩き回らせ、様々なアイテムを駆使して、謎を解き、ストーリーを進めていくゲームだ(右画面)。
ちなみに右の画面は移植版の"Tandy 1000"版。出展はwikipedia:en。
簡単にまとめるなら、当時のグラフィックアドベンチャゲームでは表示されないのが常識だった主人公をアクションゲームのように表示して、画面の中を動き回れるようにして、画面の上の物に直接触って謎解きをしていくゲームだった。
このソフトは大ヒットとなり"Tandy 1000"など、様々なマシンに移植され、アタリショックの在庫に喘いでいたシェラ・オンラインを救うドル箱ゲームとなっただけでなく「キングズクエストスタイル」とででも呼ぶべきスタイル──すなわち、主人公が画面の中を歩き回り、実際にキャラクタがグラフィックに触ることにより、取ったり動かしたりして、謎を解いていくスタイルを確立した。
例えば天才ゲームデザイナー、ブライアン・モリアーティが手がけ、ルーカツアーツより発売された"LOOM"もそうだし、はたまたインディジョーンズ・アドベンチャもしかり、全然日本では知られていないけれど内容的に大好きな"The DIG"もそうだ(実はルーカスアーツは結構この手のスタイルのゲームを出している)。
また日本でも結構知られている超理不尽アドベンチャ「ミシシッピー殺人事件」ももちろんこれの系列と言うことになるし、SFCで発売された「アウターワールド(原題"another world"。これがどうして"outer world"になるのやら…)」などの作品群もそうだ。
つまり海外では「キングズクエスト1」の登場以降、このゲームが生み出したルールは、いわばリアルタイムアドベンチャとでも呼ぶべきスタイルとして一般化していったわけだ。
ところでだ。
普通に考えれば、ゲームデザイン的には驚くことはなく"APPLE-II"の全盛時代に登場していても、なんら不思議のない当たり前な、日本なら容易に登場しそうな、このスタイルのアドベンチャが、どうして海外では1983年まで登場しなかったのか?
1983年といえば、日本ではファミコンが発売された年で、すでに、この手のスタイルのアクションゲームはゴロゴロ…とまでは言わないけれど、結構一般化していたわけで、登場しない理由は全くない。
ちなみにKing's Questも「下敷きにした」と思われるゲームがある。
それが1982に発売されたAPPLE-II の AZTEC。
ただ、このゲームはアドベンチャというよりはアクション(それも操作性が洗練されていない理不尽なアクション)なので「原点」ではないと判断した。ちなみに当時のゲームはアクションの初期なのもあって、全く操作系が洗練されておらず、1つの動作に1つのボタンが割り当てられているようなムチャなものが多かった。
それが1982に発売されたAPPLE-II の AZTEC。
ただ、このゲームはアドベンチャというよりはアクション(それも操作性が洗練されていない理不尽なアクション)なので「原点」ではないと判断した。ちなみに当時のゲームはアクションの初期なのもあって、全く操作系が洗練されておらず、1つの動作に1つのボタンが割り当てられているようなムチャなものが多かった。
むしろ普通に考えて「どうして出てこないのか分からない」代物が、どうして1983年まで出なかったのか?
その理由は、海外のゲームデザインの考え方に大きな手がかりがある。
海外のゲームデザイン、特にアドベンチャとCRPGはどちらもテーブルトークRPGに端を発している。
そして、テーブルトークRPG、特にCRPGに強い影響を与えた第一世代RPG群(故・多摩豊氏命名)は本質的にはプレイヤー個人がなんらかの役を演じるゲームとしてゲームデザインされている。
これをコンピュータに持ち込むとき、当時のマシンではリソースがまるで不足でmお話と戦闘や成長を同時に持ち込むのがとても難しかった。だからテーブルトークのお話の部分を再現する(正確にはマスターとのセッション)ために作られたのがアドベンチャで、戦闘と探索の部分を再現するために作られたのがCRPGだ。
そして、プレイヤーがゲーム内のキャラになるのを率直に解釈すると、コンピュータのモニタは世界を覗く窓ということになり画面=プレイヤーの視界ということになる。
プレイヤーの視界なのだから画面上にプレイヤーの手や足は出てきても、プレイヤーの姿それ自体は見えないのが当たり前ということになる。
だから、海外のゲームでは「一人称視点(First Person Perspectiveと表現される)」が中心になったわけだ。フライトシミュレータの歴史が長いからとか、そういうわけではなくRPGの捉え方に決定的な理由があるわけだ。
そして、この思考の延長で迷路は3Dでキングスフィールドの元ネタになっている"Ultima Underworld"が現れ、海外では主流ジャンルの一つであるFPSが登場することになるが、それは1983年から数えて9年後ということになる。
ちなみに史上初の商用フライトシミュレータはsublogic Flight Simulator(1980)のはずなので、キングスクエストは、それと3年しか違わないうえに、Mystery Houseは同じ1980年。その一点を取っても、フライトシミュレータや3Dにその理由を求めるのには無理がある。
また3D迷路は1979年には既に登場しているし、3D迷路の大傑作ゲーム"WAYOUT"は1982年である。さらに追記しておくと、お話と成長の融合はアドベンチャの方が先に試みており、例えばinfocomのZorkは経験値がある
また3D迷路は1979年には既に登場しているし、3D迷路の大傑作ゲーム"WAYOUT"は1982年である。さらに追記しておくと、お話と成長の融合はアドベンチャの方が先に試みており、例えばinfocomのZorkは経験値がある
この考え方があったので、当時の3Dではないアドベンチャでもグラフィックの描かれ方は「プレイヤーの目から見た画面をグラフィックにした」。だから、プレイヤーが画面に出てこないのが常識で「キングズクエスト」に至るまで、主人公が画面の中に登場するアドベンチャは実質的になかったわけだ。さらに書くと、主人公の性格付けなども行われなかった。なぜなら、本質的にプレイヤーキャラクタ=プレイヤーの性格となる、と考えられていたからだ。
とすると、逆の疑問が出てくる。
「なぜ、キングスクエストは主人公が歩くアドベンチャゲームとしてデザインされたのか?」
つまりプレイヤー=主人公の考え方を徹底していたアメリカで、どうして、このような歩くアドベンチャ、まるでプレイヤーが第三者のようなゲームが登場したのだろうか?
この理由は実は簡単で「PC Jr.」用、すなわちホームコンピュータ、ご家庭用の教育的なゲームだったからだ。
"King's Quest"は家庭用の、いわゆる「教育用ゲーム」としてデザインされたので、謎の難易度は低めで、子供が興味を持ってプレイ出来るようにわかりやすく、プレイヤーが操れるキャラクタを画面内に置いたのだ。
もっと噛み砕いて言うなら「キングスクエスト」はパソコンを使った、ゲームの形態を取った絵本としてゲームデザインされているわけだ。
そして、絵本なら読者(プレイヤー)とは別に主人公がいる。だから、主人公が第三者視点の画面の上に登場しているわけだ。
(ちなみに難易度低めと言っても、かなり考えないと解けないゲームだった記憶があるのだが…記憶違いだろうか)
この項目続く。
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