2011-09-05 Mon [ レビュー::ゲーム ]
前回は習作に近いドラクエ1だが、その中に強烈なオリジナル要素があり、それが死の概念の扱い方だという話を書いた。
ドラクエ1以前はRPGの死には2種類あり「死んだらキャラクタが消滅する(ウィザードリィなど)」と「死んだら最後のセーブまで巻き戻る」で「おお XX しんでしまうとは なさけない おまえに もういちど きかいを やろう」というセリフと共に生き返るドラクエは実はすごくオリジナルだった。
そして、これはプレイアビリティ・ユーザー層・当時のマシンの貧弱なリソース、そしてさらにこれから書く理由を勘案して「死んだら、お金半分」を採用したと思われる…つーところまで書いたわけだけど、今回はその理由。
確かに市場の要請と技術的な問題があったのは疑いもない事実だろう。だが市場の要請やマシンのリソースが「死んだらパスワードを入力させる方式(コンティニュー)を取らない」とする決定的な理由には全くならない。
それどころか、死んだらそれまでの方が技術的には簡単(ゲームオーバーと画面に出せばいいだけだ)で、死んだらお金を半分にして指定された場所に戻す方法の方がよほど特殊な処理が入って面倒だ。
バランスの問題を主張するなら、簡単にするとかいくらでも解決策はあったはずで、わざわざ復活方式を取ったのは堀井雄二氏が「そうするべきだ」と判断したからだ。
逆の書き方をするなら、ここは堀井氏が「このゲームは、こうでなければならない」と考えたポイントのひとつなわけだ。そして、このポイントは他のパソコンのRPGと全く違う所なのだから、まさに堀井雄二の主張が出ていることになる。
すなわち、当時の他のRPGと明らかに扱いの違う復活こそが、ある意味ドラゴンクエストというゲームの本質を現しているとも言えるわけだ。
では、どうしてそれが「RPGの捉え方」と密接に関わっているのか?
それは、ゲームの中に置かれているプレイヤーが何者と考えるのか、ということと繋がっているからだ。
コンピュータRPGの源流となった第一世代(故多摩豊氏の命名による)テーブルトークRPG(以下TRPG)では、プレイヤーキャラクタは本質的に「プレイしているプレイヤーそのもの」で、これがゲームの中に投影されているものだと考えた(今でいうアバター=プレイヤー)。すなわちプレイヤーがゲーム世界の「仮想の住人」となる。ということは、ゲームの中でムチャな行動をすればその世界にいる他のキャラクタと同じように死ぬ。
要はRPGとはプレイヤーが投影されたキャラクタでプレイする(限定された)人生シミュレータであると考えるゲームなわけだ。そしてTRPGの第一世代は最初の世代であり、もっともコンピュータRPGに強い影響を与えたゲームである。
その影響下にあるウィザードリィもウルティマも死のペナルティは大きかった。
だから「セーブ」は、『ウルティマ』ではあくまでゲームの中断として使われるもので、キャラクタのバックアップを取る道具ではなかったし、ウィザードリィでは、そもそも「セーブ」の考え方すらなかったわけだ(ウィザードリィのセーブは常時行われており、事故が起こるとキャラクタ達はダンジョンの中で行方不明になったりする)。
そして日本のRPGは全てこれらの海外RPGを基礎として作られたので(TRPGへの理解の不足から、理由は分からなくとも)やはり同じように死のペナルティは大きかったわけだ。
ところがだ。
ドラクエの世界では主人公達(1では一人だが)だけは「絶対に死なない不死の存在」で、常識的な第一世代TRPG/RPGのルールは全く適用されない存在になっている。
言い換えるなら、ドラクエでは(市場やハードの都合もあるが)、本質的に「プレイヤーキャラクタはゲーム世界の仮想住人よりは神のような存在になっている」わけだ。
では、どうしてプレイヤーキャラクタがそうなのか?
答えは簡単だ。
それは「ドラゴンクエストは決まった一つのお話を見せるゲームで、その話の途中で終わってもらっては困ると堀井雄二が考えた」からだ。
これを当たり前と考えてもらっては困る。
確かにほとんどのRPGにはシナリオがあるのは事実だがストーリーは必須ではない。
意図的に、この2つを区別するために、以下シナリオと起承転結のあるストーリー(以下ストーリーと略す)を分離しよう。どうしてこんな分離をするかというと、そうでないと分からないことが出てくるからだ。
RPG/TRPGでの元々のシナリオとはどんなものかというと「長さ50メートルの洞窟がある。一番奥には宝箱があり、手前にはモンスターが35匹いる」というような、いわば「場所と仕掛け」が用意されているだけで、ストーリーらしきものは全くなかった。
実際、ウィザードリィも全くこれを敷衍したもので、ダンジョンが10層あり、一番下にワードナーがいる、倒してきなさい、というだけだ(そしてワードナーを倒したからといって、何かがそう変わるわけでもない)。
また、もう一方の雄、ウルティマも似たような物で、1985年に発売されたUltima IVまでは「起承転結のあるストーリー」があったとは言い難い。
だがドラクエには「ストーリーがあり、ストーリーを最後までプレイしてもらう」ことを前提に作られている。きわめて簡単に話をまとめることが出来る『ドラゴンクエスト1』ですらそうで、プレイ上の自由性は低く、イベントにはアメリカのRPGと比較して極めて厳しい制限があり、それらのイベントを順番にこなしていくことで、クライマックスに近づいていき、そしてクリアする構成を取っている。
すなわち「ドラクエは、堀井雄二がRPGをストーリーを語るゲームであると認識して、お話をユーザーに最後まで楽しんでもらうことを重視して作った、だから主人公が死んで、話が途中で終わってもらうと困ると考えた」のを強く示唆しているのが、死と復活のシステムなわけだ。
だが、ここでもう一つの疑問が生じてくる。
「死んでしまうとは情けない」という文章は、考えてみれば極めてラジカルだ。だいたい死んでしまって「情けない」だの「何事だ」もあったものではない。普通は死んでしまえばそれまでだ。
「黙って復活させる」とか「大怪我をして戻ってきた」とか、そういう文章で整合性を取った方が簡単だし、実際、ドラクエと同一スタイルのシステムを持つ様々なゲームを見ても、例えば「退却した」とか「戦略的な後退をよぎなくされた」とか、そういう言葉で済ませてしまう作品が多く、ドラクエのように「死んでしまうとは」などとストレートに表現する方が、例外だ。
では、このムチャとも呼べる文章の発想はどこから出てきたのか?
これは明快で、少年ジャンプに代表される「少年マンガ」だ。ドラゴンクエストに代表される「キャラクタ成長型のゲーム」という奴は、極めて少年漫画的な世界と相性がいいのだ。
強大な敵がいて、主人公がいて、戦い、たまに敗北するが、不死鳥のように立ち上がり、最後には勝利する…
これを極めてストレートな形で、なおかつウィザードリィ的な「死のペナルティの匂い」を感じさせつつ、作られたメッセージが「おお死んでしまうとはなさけない」だと考えられるわけだ。
結果としては、このシステムは当時の高かったRPGの難易度を下げるアイディアとして大成功し、以降の日本のRPGに大きく影響を与え、一時代を築いた。
だが、このドラゴンクエスト1の大成功には、恐ろしくネガな側面も伴っていた。
それは日本におけるRPGの捉え方が「恐ろしく古くさいまま固定された」ということだ。
というのも「ドラゴンクエスト」の大成功により、RPGは「自分が主人公で」、「経験値(レベル)があり」、「モンスターなどと戦って、成長しながら」、「お話を楽しむゲーム」という考え方が出来てしまった。
ところが、これはあくまで故・多摩豊氏の言う「第一世代TRPG」、具体的にはD&Dの時代のTRPG(正確には、それプラスアルファ。一番近いところを言うと、拡張ルールのエキスパートあたりまでのルールが入っている印象に近い)で、それをふまえて、違うスタイルで登場した以降の様々なTRPGの考え方は全くといっていいほど入っていない。
故・多摩豊氏の命名による第二世代、第三世代のTRPGになると「自分が主人公でないRPG」、「自由度の低いRPG」、「経験値の存在しないRPG」が続々と登場し、これがもちろんコンピュータRPGに強い影響を与えている。(例えばSword Thrust、Sun Dog、成功作Might&Magicなどなど、特に初期には様々な実験作が頻出している)
ところが、日本にはTRPGの伝統がなかったところへ、ドラゴンクエストが大ヒットしたことにより「RPGの定義」が出来上がってしまった。
結果として、日本のRPGは極端に演出に寄った発達をすることになり、今でも古色蒼然たるRPGの定義がまかり通ってしまっている有様だ。
これは「ドラゴンクエスト1」が作り出してしまった悲劇と呼べないこともないだろう。
だがだ。
この「ドラゴンクエスト」は、疑いもなく、日本のRPGの…いや、テレビゲームにおける決定的な分水嶺であったのは間違いない。
というのも、これより以前のファミコンはアーケードからの移植と、アクション/シューティングがジャンルの中心だったのだが「ドラゴンクエスト」の大ヒットによって「お話を語ることをゲームの核として、指先のテクニック」をさほど必要としないゲームが「メインジャンル」になっていく。
そして、指先が不器用で「ゲームなど子供の遊びだ」と嘯いていた大人が、テレビゲームに入り込んでいくきっかけが出来上がる。
つまり、この「ドラゴンクエスト」こそが、テレビゲームを子供だけの物でなくし、今のPSなどの家庭用ゲームの隆盛へと繋いだ決定的なリングであったのは、疑いもないところだろう。
まさに「ドラゴンクエスト」は歴史を変えたゲームだったのだ。
最後に半分余談だが、ドラゴンクエスト1が日本のゲームに与えた「極めて大きなプレゼント」が、映画のようなエンディングとスタッフロール。
ドラクエ1以前はゲームのエンディングというと、おっそろしく簡素なものだったが、ドラクエの圧倒的な成功以降、エンディングとスタッフロールが非常に重視されるようになった。
そして今でも海外のゲームは、このエンディングが軽い作品が多く、クリアしたとき「え? これで終わり?」と思うことも多々ある。そう考えたとき、エンディングはドラクエが与えてくれた素晴らしくポジティブなプレゼントだと思う。
ドラクエ1以前はRPGの死には2種類あり「死んだらキャラクタが消滅する(ウィザードリィなど)」と「死んだら最後のセーブまで巻き戻る」で「おお XX しんでしまうとは なさけない おまえに もういちど きかいを やろう」というセリフと共に生き返るドラクエは実はすごくオリジナルだった。
そして、これはプレイアビリティ・ユーザー層・当時のマシンの貧弱なリソース、そしてさらにこれから書く理由を勘案して「死んだら、お金半分」を採用したと思われる…つーところまで書いたわけだけど、今回はその理由。
確かに市場の要請と技術的な問題があったのは疑いもない事実だろう。だが市場の要請やマシンのリソースが「死んだらパスワードを入力させる方式(コンティニュー)を取らない」とする決定的な理由には全くならない。
それどころか、死んだらそれまでの方が技術的には簡単(ゲームオーバーと画面に出せばいいだけだ)で、死んだらお金を半分にして指定された場所に戻す方法の方がよほど特殊な処理が入って面倒だ。
バランスの問題を主張するなら、簡単にするとかいくらでも解決策はあったはずで、わざわざ復活方式を取ったのは堀井雄二氏が「そうするべきだ」と判断したからだ。
逆の書き方をするなら、ここは堀井氏が「このゲームは、こうでなければならない」と考えたポイントのひとつなわけだ。そして、このポイントは他のパソコンのRPGと全く違う所なのだから、まさに堀井雄二の主張が出ていることになる。
すなわち、当時の他のRPGと明らかに扱いの違う復活こそが、ある意味ドラゴンクエストというゲームの本質を現しているとも言えるわけだ。
では、どうしてそれが「RPGの捉え方」と密接に関わっているのか?
それは、ゲームの中に置かれているプレイヤーが何者と考えるのか、ということと繋がっているからだ。
コンピュータRPGの源流となった第一世代(故多摩豊氏の命名による)テーブルトークRPG(以下TRPG)では、プレイヤーキャラクタは本質的に「プレイしているプレイヤーそのもの」で、これがゲームの中に投影されているものだと考えた(今でいうアバター=プレイヤー)。すなわちプレイヤーがゲーム世界の「仮想の住人」となる。ということは、ゲームの中でムチャな行動をすればその世界にいる他のキャラクタと同じように死ぬ。
要はRPGとはプレイヤーが投影されたキャラクタでプレイする(限定された)人生シミュレータであると考えるゲームなわけだ。そしてTRPGの第一世代は最初の世代であり、もっともコンピュータRPGに強い影響を与えたゲームである。
この第一世代…第二世代といった考え方は、多摩豊氏の『次世代RPGはこーなる!』という本に非常に分かりやすく簡潔に説明されている。またこの本はTRPGの歴史、CRPGの歴史をおっそろしく簡潔に説明していて、とても勉強になる…のだけど、自分が取り上げられているのを読んだときは恥ずかしくて脂汗が出た…
その影響下にあるウィザードリィもウルティマも死のペナルティは大きかった。
だから「セーブ」は、『ウルティマ』ではあくまでゲームの中断として使われるもので、キャラクタのバックアップを取る道具ではなかったし、ウィザードリィでは、そもそも「セーブ」の考え方すらなかったわけだ(ウィザードリィのセーブは常時行われており、事故が起こるとキャラクタ達はダンジョンの中で行方不明になったりする)。
そして日本のRPGは全てこれらの海外RPGを基礎として作られたので(TRPGへの理解の不足から、理由は分からなくとも)やはり同じように死のペナルティは大きかったわけだ。
ところがだ。
ドラクエの世界では主人公達(1では一人だが)だけは「絶対に死なない不死の存在」で、常識的な第一世代TRPG/RPGのルールは全く適用されない存在になっている。
言い換えるなら、ドラクエでは(市場やハードの都合もあるが)、本質的に「プレイヤーキャラクタはゲーム世界の仮想住人よりは神のような存在になっている」わけだ。
では、どうしてプレイヤーキャラクタがそうなのか?
答えは簡単だ。
それは「ドラゴンクエストは決まった一つのお話を見せるゲームで、その話の途中で終わってもらっては困ると堀井雄二が考えた」からだ。
これを当たり前と考えてもらっては困る。
確かにほとんどのRPGにはシナリオがあるのは事実だがストーリーは必須ではない。
意図的に、この2つを区別するために、以下シナリオと起承転結のあるストーリー(以下ストーリーと略す)を分離しよう。どうしてこんな分離をするかというと、そうでないと分からないことが出てくるからだ。
RPG/TRPGでの元々のシナリオとはどんなものかというと「長さ50メートルの洞窟がある。一番奥には宝箱があり、手前にはモンスターが35匹いる」というような、いわば「場所と仕掛け」が用意されているだけで、ストーリーらしきものは全くなかった。
実際、ウィザードリィも全くこれを敷衍したもので、ダンジョンが10層あり、一番下にワードナーがいる、倒してきなさい、というだけだ(そしてワードナーを倒したからといって、何かがそう変わるわけでもない)。
また、もう一方の雄、ウルティマも似たような物で、1985年に発売されたUltima IVまでは「起承転結のあるストーリー」があったとは言い難い。
Ultima IVは起承転結があるとは言い難いが、極めて複雑なストーリーがあった(これには理由もある)。そして、このゲームはドラクエ2に恐ろしく多大な影響を与えることになる。
だがドラクエには「ストーリーがあり、ストーリーを最後までプレイしてもらう」ことを前提に作られている。きわめて簡単に話をまとめることが出来る『ドラゴンクエスト1』ですらそうで、プレイ上の自由性は低く、イベントにはアメリカのRPGと比較して極めて厳しい制限があり、それらのイベントを順番にこなしていくことで、クライマックスに近づいていき、そしてクリアする構成を取っている。
アメリカのRPGは相互のイベントには関係性はなく、どれをプレイするのも勝手であることが多い。極めてゲームが複雑になった今でもその傾向は強くある
すなわち「ドラクエは、堀井雄二がRPGをストーリーを語るゲームであると認識して、お話をユーザーに最後まで楽しんでもらうことを重視して作った、だから主人公が死んで、話が途中で終わってもらうと困ると考えた」のを強く示唆しているのが、死と復活のシステムなわけだ。
だが、ここでもう一つの疑問が生じてくる。
「死んでしまうとは情けない」という文章は、考えてみれば極めてラジカルだ。だいたい死んでしまって「情けない」だの「何事だ」もあったものではない。普通は死んでしまえばそれまでだ。
「黙って復活させる」とか「大怪我をして戻ってきた」とか、そういう文章で整合性を取った方が簡単だし、実際、ドラクエと同一スタイルのシステムを持つ様々なゲームを見ても、例えば「退却した」とか「戦略的な後退をよぎなくされた」とか、そういう言葉で済ませてしまう作品が多く、ドラクエのように「死んでしまうとは」などとストレートに表現する方が、例外だ。
では、このムチャとも呼べる文章の発想はどこから出てきたのか?
これは明快で、少年ジャンプに代表される「少年マンガ」だ。ドラゴンクエストに代表される「キャラクタ成長型のゲーム」という奴は、極めて少年漫画的な世界と相性がいいのだ。
強大な敵がいて、主人公がいて、戦い、たまに敗北するが、不死鳥のように立ち上がり、最後には勝利する…
これを極めてストレートな形で、なおかつウィザードリィ的な「死のペナルティの匂い」を感じさせつつ、作られたメッセージが「おお死んでしまうとはなさけない」だと考えられるわけだ。
実際、少年ジャンプの世界では「実際にキャラクタが死んで(パワーアップして)甦ることが珍しくないのは、どこのどなたでも知っているだろう。
結果としては、このシステムは当時の高かったRPGの難易度を下げるアイディアとして大成功し、以降の日本のRPGに大きく影響を与え、一時代を築いた。
だが、このドラゴンクエスト1の大成功には、恐ろしくネガな側面も伴っていた。
それは日本におけるRPGの捉え方が「恐ろしく古くさいまま固定された」ということだ。
というのも「ドラゴンクエスト」の大成功により、RPGは「自分が主人公で」、「経験値(レベル)があり」、「モンスターなどと戦って、成長しながら」、「お話を楽しむゲーム」という考え方が出来てしまった。
ところが、これはあくまで故・多摩豊氏の言う「第一世代TRPG」、具体的にはD&Dの時代のTRPG(正確には、それプラスアルファ。一番近いところを言うと、拡張ルールのエキスパートあたりまでのルールが入っている印象に近い)で、それをふまえて、違うスタイルで登場した以降の様々なTRPGの考え方は全くといっていいほど入っていない。
故・多摩豊氏の命名による第二世代、第三世代のTRPGになると「自分が主人公でないRPG」、「自由度の低いRPG」、「経験値の存在しないRPG」が続々と登場し、これがもちろんコンピュータRPGに強い影響を与えている。(例えばSword Thrust、Sun Dog、成功作Might&Magicなどなど、特に初期には様々な実験作が頻出している)
ところが、日本にはTRPGの伝統がなかったところへ、ドラゴンクエストが大ヒットしたことにより「RPGの定義」が出来上がってしまった。
結果として、日本のRPGは極端に演出に寄った発達をすることになり、今でも古色蒼然たるRPGの定義がまかり通ってしまっている有様だ。
これは「ドラゴンクエスト1」が作り出してしまった悲劇と呼べないこともないだろう。
だがだ。
この「ドラゴンクエスト」は、疑いもなく、日本のRPGの…いや、テレビゲームにおける決定的な分水嶺であったのは間違いない。
というのも、これより以前のファミコンはアーケードからの移植と、アクション/シューティングがジャンルの中心だったのだが「ドラゴンクエスト」の大ヒットによって「お話を語ることをゲームの核として、指先のテクニック」をさほど必要としないゲームが「メインジャンル」になっていく。
そして、指先が不器用で「ゲームなど子供の遊びだ」と嘯いていた大人が、テレビゲームに入り込んでいくきっかけが出来上がる。
つまり、この「ドラゴンクエスト」こそが、テレビゲームを子供だけの物でなくし、今のPSなどの家庭用ゲームの隆盛へと繋いだ決定的なリングであったのは、疑いもないところだろう。
まさに「ドラゴンクエスト」は歴史を変えたゲームだったのだ。
ちなみにこの大人のやるゲームだ云々というセリフが本格的に言われたのはドラクエ2。僕は週間朝日で「ドラクエ2はファミコンの他のゲームと違い、大人のゲームだ」という主張を読んで失笑した。「それは君らが、単にアクションを出来ないだけでしょ」と思ってしまったのだ。しかも、このセリフを今でも言う人がいるのだからさらに笑ってしまう。じっくり考えるのが大人のゲームなら、囲碁や将棋が好きな子供は全部大人かよとか突っ込みを入れたくなってしまう
最後に半分余談だが、ドラゴンクエスト1が日本のゲームに与えた「極めて大きなプレゼント」が、映画のようなエンディングとスタッフロール。
ドラクエ1以前はゲームのエンディングというと、おっそろしく簡素なものだったが、ドラクエの圧倒的な成功以降、エンディングとスタッフロールが非常に重視されるようになった。
そして今でも海外のゲームは、このエンディングが軽い作品が多く、クリアしたとき「え? これで終わり?」と思うことも多々ある。そう考えたとき、エンディングはドラクエが与えてくれた素晴らしくポジティブなプレゼントだと思う。
コメント
うわお、Ultima IVってドラクエ1より早いんだ
どんだけ進んでたんだ!
あれもめっちゃ良いゲームですよね
どっちかっていうと、DQ2より3の方に影響があるように見えますが(職業とか空飛ぶ乗り物とか)、DQ2のどの辺がウルティマ4なんですかね?
どんだけ進んでたんだ!
あれもめっちゃ良いゲームですよね
どっちかっていうと、DQ2より3の方に影響があるように見えますが(職業とか空飛ぶ乗り物とか)、DQ2のどの辺がウルティマ4なんですかね?
| mozu | EMAIL | URL | 11/09/13 21:02 | a1eiOolg |
>> 近藤@古代図書館 様
軽井沢のRPGシーンについては取り上げるほどのことはない、というのが僕の判断でした。
また「ハマり」がないというのは、良くある勘違いでして、オリジナルのPC版ではオホーツクにはハマりがあるんです。
軽井沢のRPGシーンについては取り上げるほどのことはない、というのが僕の判断でした。
また「ハマり」がないというのは、良くある勘違いでして、オリジナルのPC版ではオホーツクにはハマりがあるんです。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/09/13 18:19 | GrHP1aYc |
最後まで出てこなかったようなので……。
堀井雄二アドベンチャー三部作三作目の軽井沢誘拐案内 (1985/5 発売) 第六章に、実は DQ のようなトップビュータイプの簡易 RPG タイプのシーンがあったりしますね。
順番通りに敵を倒していかないといけない (基本的にパターンが決まっている) というのはありますが、敵を倒して成長していったり、強い装備を入手していったり……という具合。
ただし根本的にボリュームが小さいので、こちらの場合は死ぬと「夢だった」扱いでそのシーンの最初までリセットされます。
それでもあっさり終わるくらいのボリュームだからそうしたのでしょうけど。
堀井雄二三部作は PC 系でも基本的にハマりがないという点も DQ の話に通じる「ストーリーを楽しんでもらう」点に流れがあるように思えます。
堀井雄二アドベンチャー三部作三作目の軽井沢誘拐案内 (1985/5 発売) 第六章に、実は DQ のようなトップビュータイプの簡易 RPG タイプのシーンがあったりしますね。
順番通りに敵を倒していかないといけない (基本的にパターンが決まっている) というのはありますが、敵を倒して成長していったり、強い装備を入手していったり……という具合。
ただし根本的にボリュームが小さいので、こちらの場合は死ぬと「夢だった」扱いでそのシーンの最初までリセットされます。
それでもあっさり終わるくらいのボリュームだからそうしたのでしょうけど。
堀井雄二三部作は PC 系でも基本的にハマりがないという点も DQ の話に通じる「ストーリーを楽しんでもらう」点に流れがあるように思えます。
| 近藤@古代図書館 | EMAIL | URL | 11/09/13 16:41 | FBPQlkC. |
>> atsu 様
ペナルティですが、難易度を自分で調整出来る、すなわち石橋を叩いて渡るマネも出来れば、僕のように宝箱が道に見えても「あれは安物だからいらない」と速攻切り捨てるとか、そういうプレイスタイルの幅の広さがあるのがRPGのいいところです。
>> CDi 様
ま、昔の話なので…w
ショップが登場しているゲームはその前後にはあるのですけれど、メジャーにしたのはドラクエ&ゼルダでしょうね。
ちなみにドラクエのマルチウィンドウはウィザードリィの「リルガミンの遺産」が発売された直後にAPPLE-II版がバージョンアップされ、マルチウィンドウのゲームになったのですが、ぶっちゃけそれのパクりですw
ペナルティですが、難易度を自分で調整出来る、すなわち石橋を叩いて渡るマネも出来れば、僕のように宝箱が道に見えても「あれは安物だからいらない」と速攻切り捨てるとか、そういうプレイスタイルの幅の広さがあるのがRPGのいいところです。
>> CDi 様
ま、昔の話なので…w
ショップが登場しているゲームはその前後にはあるのですけれど、メジャーにしたのはドラクエ&ゼルダでしょうね。
ちなみにドラクエのマルチウィンドウはウィザードリィの「リルガミンの遺産」が発売された直後にAPPLE-II版がバージョンアップされ、マルチウィンドウのゲームになったのですが、ぶっちゃけそれのパクりですw
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/09/11 15:35 | GrHP1aYc |
ドラクエ1の当時のファミコンのユーザー層は子供がメインだったから、
そういう層に分からせるにはああいう方式や文章がベストだったと思います。
変に元ネタを意識して小難しいものにしてたら絶対について来れなかったと思う。
ゲーム中に金を貯めて買い物をするとかも当時は他ではゼルダくらいしかなく、
そういったもの1つ取っても当時のメインプレイヤーだった子供には新鮮で楽しかった。
マルチウインドウシステムも、当時としてはゲーム機では最新の表現方法で非常に見やすく、
情報が整理されていて子供にも理解しやすく遊びやすかったです。
今回の一連の岩崎さんのドラクエ考察論を見てると、大昔にマルカツファミコンで
似たようなことを書いてて、読者から大ブーイングを喰らってたのを思い出しました。
次の号で岩崎氏の意見は批判ではなくこういう考えに則ったものだというのを、
対談形式でわざわざページ割いて解説してたような覚えがあります。
そういう層に分からせるにはああいう方式や文章がベストだったと思います。
変に元ネタを意識して小難しいものにしてたら絶対について来れなかったと思う。
ゲーム中に金を貯めて買い物をするとかも当時は他ではゼルダくらいしかなく、
そういったもの1つ取っても当時のメインプレイヤーだった子供には新鮮で楽しかった。
マルチウインドウシステムも、当時としてはゲーム機では最新の表現方法で非常に見やすく、
情報が整理されていて子供にも理解しやすく遊びやすかったです。
今回の一連の岩崎さんのドラクエ考察論を見てると、大昔にマルカツファミコンで
似たようなことを書いてて、読者から大ブーイングを喰らってたのを思い出しました。
次の号で岩崎氏の意見は批判ではなくこういう考えに則ったものだというのを、
対談形式でわざわざページ割いて解説してたような覚えがあります。
| CDi | EMAIL | URL | 11/09/11 12:23 | 7Q0Cf0A. |
DQシリーズの死に関しては、色々思うところがあるのですが:
上記の論とはややズレた話ですが、プレーヤーがDQ上の死に関してどう思うか、で
結構プレイスタイルが変わってくるのかな、と思います。
私は(小心者だからか)そのリスク内容(所持金半分等)の大小に関わらず、
「絶対に死にたくない」タイプなので、新たな街に入った時は
次の攻略ポイント(近場の洞窟など)に赴く前に、その街の最強装備を「必ず」揃えます。
それで死んだらしょうがないのですが、その辺りがゲーム進行の要になっているので
「レベル」という概念は、数字としても程度としてもあまり気にしていません。
装備を揃えてたらいつの間にか上がってた、という程度です。
この辺の話は、DQに限らずRPG全般で言えることなんですが、
初めて本格的にプレイしたDQ上でのスタイルが強く影響していると思います。
※wizなんかだと街の移動がないのですが、プレイ指向が「フロア最強の装備」の探索等に
※切り替わったりします。
効率は悪いのですが、長く楽しめていいですよ。ゲーム的なスリルは減りますけど・・・
(ザラキなんかは邪道だと思ってます)
この辺は、作り手の「死」と難易度に関する意向はともかく、
「死んだら終わり」なRPG以前のゲーム体験も影響してるのかもしれません。
ゲーム自体をあまりやらない人にやらせてみると、無謀を繰り返して結構アッサリと
バカスカ死んでるんですよねぇ。
上記の論とはややズレた話ですが、プレーヤーがDQ上の死に関してどう思うか、で
結構プレイスタイルが変わってくるのかな、と思います。
私は(小心者だからか)そのリスク内容(所持金半分等)の大小に関わらず、
「絶対に死にたくない」タイプなので、新たな街に入った時は
次の攻略ポイント(近場の洞窟など)に赴く前に、その街の最強装備を「必ず」揃えます。
それで死んだらしょうがないのですが、その辺りがゲーム進行の要になっているので
「レベル」という概念は、数字としても程度としてもあまり気にしていません。
装備を揃えてたらいつの間にか上がってた、という程度です。
この辺の話は、DQに限らずRPG全般で言えることなんですが、
初めて本格的にプレイしたDQ上でのスタイルが強く影響していると思います。
※wizなんかだと街の移動がないのですが、プレイ指向が「フロア最強の装備」の探索等に
※切り替わったりします。
効率は悪いのですが、長く楽しめていいですよ。ゲーム的なスリルは減りますけど・・・
(ザラキなんかは邪道だと思ってます)
この辺は、作り手の「死」と難易度に関する意向はともかく、
「死んだら終わり」なRPG以前のゲーム体験も影響してるのかもしれません。
ゲーム自体をあまりやらない人にやらせてみると、無謀を繰り返して結構アッサリと
バカスカ死んでるんですよねぇ。
| atsu | EMAIL | URL | 11/09/07 12:22 | EnmY2ESs |
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