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ファミコン版FFⅡのアルテマはなぜ弱かったのか?
Twitterでメモ書きした話をもう少しちゃんと残しておこうと思った。

ただの記憶でしかなく、細かいところに間違いがある可能性は十分にあるが、大枠は間違っていないはず。
25年前(1989年の初頭だったはず)、僕は自分のデビュー作、さいきょーRPG『凄ノ王伝説』の宣伝で、マル勝ファミコンの座談会に出してもらえることになった。この座談会は1988年冬~1989年初頭のゲーム業界で、言うまでもなく1988年2月に出た『ドラゴンクエストⅢ』で空前のRPGブームが来ていた、まさにRPGの全盛時代といっていいタイミングで行われていた。
僕自身はというとPCエンジン版の『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入る前で、さくまセンセイのところでどんちゃんに叩きのめされる前だったと思う。
自分のゲームに対する考え方とアプローチは『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入るまでの2ヶ月ほどで激変するのだけど、こんときはまだゲームを作るプロになれた嬉しさに舞い上がっていたと思う。
この座談会にどんなメンツが集まっていたのかというと、これまたあやふやなのだが、当時はまだバリバリゲームを作っていたポニーキャニオンの『ウルティマ』シリーズのプロデューサーの方、スクゥエアより坂口さん、あと…当時のマル勝がらみで『摩陀羅』(コナミからRPGとして発売されるのが発表された直後だったと記憶している)の黒田さんが来ていたと記憶している。

古本もいいところだが雑誌があるはずなので、調べれば何年の何月かもわかるのだが。1989年なのはほぼ間違いないけど…もしかしたら88年だったかもしれない。

座談会は新宿の中華料理屋で行われたと記憶している。当時は僕はプロとしてゲームが出せて舞い上がっているガキだったので、ずいぶん失礼だったと思うのだけど、まあ四半世紀も前の話なので…ざっくりトイレに流してしまいたいところだ。

さて。
座談会の内容自体は普通のものだったのだけど、話が一気に面白くなったのは座談会が終ってからだった。

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|| 22:29 | comments (8) | trackback (3) | ||

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続・PCエンジン版R-TYPEの話
遥か遠い昔、PCエンジン版R-TYPEのコトという記事を書いたのだけど、最近、これについてTwitterで聞かれて「どうしてオーバークロックになるのか?」という説明がうまく出来なくて、ずっと考えていたのだけど、どうしてこれがオーバークロックになるのか、うまい(と思う)説明を思いついたので、説明してみたい。

まず縦1ドット、横Nドットの紐のように細い横長の画面があると考えて欲しい。
当時のゲームマシンは今のように複数画面分のフレームバッファを持たず(持てるわけもないメモリ事情だった)、この1ドットの横長の線を水平帰線期間毎に、1ドットずつ下に下りながら、だいたい250回ほど描くことで画面を作っていた。
この1ドットの線をラインバッファと呼ぶ。ここで1本のラインバッファを作るのではなく、スプライト用のラインバッファバックグラウンド(背景画面)用のラインバッファがあり、この2つを水平帰線期間毎に描画して、合成して画面を作っている…と想像して欲しい(この説明は正確には違うのは百も承知だ)。

ブラウン管テレビの原理や垂直帰線期間・水平帰線期間といったコトについての説明は勘弁していただきたい。
ココとかココとか、なんか比較的わかりやすいと思う。


そしてPCエンジンが横256ドットモードで動いているとする。
バックグラウンド(背景画面)のラインバッファは当たり前だけど256ドット。
次にスプライトはというとPCエンジンのスプライトは最大横が32ドットになるので、32ドット*16個が最大になり、512ドット分ということになる。
つまりPCエンジンの256ドットモードでは、256+512=768で、水平帰線期間毎ごとに最大768ドット分の絵を描くことになる。

では、これが320ドットモードになるとどうなるのか?
バックグラウンドが320ドットになるので320+512=832ドット。
832ドット分の絵を描くことになり、256ドットモードより、64ドット増えることになる。
ところが水平帰線期間は一定の長さで変わらない。
だから追加の64ドット分を描くために、832/768=1.08で、8%ほど速いスピードで描画することが要求される。すなわち8%ほど速いスピードでVRAMやイロイロなところにアクセスすることになる。
そして、8%ほどいろんなところに速くアクセスする(可能性がある)のは、当時使われていたRAMの保証の範囲を超えていた。
だからNECに「使っちゃダメ!」と、怒られたわけだ。

ここでスプライトの幅が32ドット最大だったことを思い出して欲しい。増えた64ドットはスプライト2つ分。なので横に並ぶスプライトの数を最大14個に設定すると…768ドット分の描画になり、256ドットモードと同じ描画量で済むことになる。

かくして、PCエンジンの320ドットモードではスプライトは14個しか並ばなかったわけである。

|| 18:59 | comments (0) | trackback (0) | ||

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エメラルドドラゴンPCエンジン版20周年
最近、エメラルドドラゴン(以下、エメドラ)のPCエンジン版が20周年だっと言われたので、ちょっと移植が始まった時の話をメモ代わりに簡単に。

もともと、エメドラを作る理由になったのは、当時結構騒ぎになった角川のお家騒動のせいだった。
お家騒動の件については、インターネットで検索でもしてもらえばいいのだけど、そのとき、角川メディアオフィスから飛び出たメンバーで創業されたのがメディアワークスで、そこに僕が参加してたゲーム事業部があった。で、なんにしても立ち上げた雑誌とタイアップで盛り上がれる目玉が欲しいというので、当時複雑だった権利関係をまとめあげられてスタートしたのが『エメラルドドラゴン』

ちなみに複雑怪奇だった権利関係を誰がまとめあげたのかはさっぱり知らないので、そこらへんを僕に聞かれても困る。あと、この権利が今ではどうなってるかもわからないので、リメイクとかできないんですかとか聞かれてもわからない。同じ理由で配信についてもわからない。



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|| 21:52 | comments (1) | trackback (0) | ||

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なくなりゆくコネクタ
ふっと思ったことを、なんとなく書く。

僕が初めてパソコン…というかマイコンに付き合い始めた1970年代後半初期はワンボードマイコンの時代、まさに自分のオンリーワンのコンピュータを作る時代だった。
だから、電源から、回路から、ソフトから、あらゆるものがオンリーワンで互換性はほぼゼロだった。

ソフトすら互換性がなかった。ソフトの互換性と呼べるものは、アセンブラレベルでソースを書き直す前提での互換性だった。だから、80年より前の雑誌では全ソースリストが(アセンブラであろうと)掲載されているのが当たり前だった。そしてアセンブラのリストはとんでもなく長いので、ソースリストが連載されているなんてムチャな例も普通にあった。
アセンブラは1キロバイトが500行以上になるのが普通。そして当時のBASICは2キロバイト程度以上あるので、2,000行とかあることになる。



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|| 21:50 | comments (7) | trackback (0) | ||

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またまた落穂拾い
落穂拾いというか、なんというか、さよならハドソンでビックリするような、同じ間違いを書いてしまったのでw
FACEの『はにぃ・いん・ざ・すかい』を、またヒューマン製とあとがきで書いてしまった…呆然だ。
第二版を出す機会があったら直しておきたいと思う。
ところで、前回の落ち穂拾いから、またコマゴマと話がやってきたので、また書いておこうと思う。

■ハドソン関係者
すたソルの菊田氏は敵の動きがメインでマップは山本さん。


■ハドソン関係者
どらえもんはメインが菊田さん、マップは山本さんと野沢さん(マップスクロール周りプログラム)。
列車の分割部分スクロールと割り込み周りは野沢さんでメインは菊田さん。
あとは菊田さんさくだよ。確かキャラデザインも菊田さんと山本さんでやってたはず。
音楽はわすれたけど。。。。。。

ということで、さよならハドソンで書いた初期の作者について若干の修正が入った。
それから、多分「ハドソンの初期のサウンドドライバは笹川さんが書いたのだろう」と書いていたのだけど、元ハドソンの方から「そうだ」という答えがもらえたりした。

というわけで、またまた落穂拾いだったけど、オワリ。

|| 21:31 | comments (0) | trackback (0) | ||

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