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昔のこと::Colorful Pieces of Game

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星恵太君のこと
今まで、ほとんど、このブログに出たことがなかった人の話をちょっと書きたくなった。
この記事のタイトルにもなっている星恵太君のことだ。

星君は、僕がハドソンでお金をもらって関わった仕事4作(凄ノ王伝説・イース・ボンバーボーイ・天外魔境2)+1個(CDROMシステムカード)のうち、3作にかかわったサウンドアーティストだ。
…と書いても、今と当時ではサウンドアーティストの仕事がぜんぜん違うものになっているので、ちょっと当時(1990年代後半まで)のサウンドアーティストの話を書いておく。

当時のサウンドアーティストってのはどんな仕事をするのかというと、今のゲームマシンで仕事してる人には信じられないだろうけれど、ものすごくプログラマに近い存在で、かつ効果音と曲の両方を作る人だった。しかも、たいてい作曲までやるのが当たり前だった。どうみてもムチャだ。

続きを読む▽
|| 14:43 | comments (5) | trackback (0) | ||

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Kenさんのこと
ふと思い出したので、忘れないようにメモっておいたTwitterでのつぶやきのまとめ+追加したエントリ。

僕がはじめて就職した会社に、Kenさんという人がやってきた。
最初の会社の提携会社から出向、今で言う派遣の形でやってきた人だった。
もちろん本名は覚えているけれど、ここではKenさんとしておく。少なくともKenさんは本名をゲームで書いたことはないはずなので、伏せておきたい。
【11/04/27 追記】と、当時の記憶で書いたのだけれど、今日、たまたまあとで出てくるゲームのエンディングを見たところ"Ken Hasegawa"と名前が書かれていた。
それどころか、当時の感覚からすると珍しい事に、あとで出てくるゲームのスタッフロールはほぼ本名で構成されていた。
なので、この話の主役、Kenさんは"Ken Hasegawa"さんだ。

さて、入社してきたとき、Kenさんは68000(モトローラのCPU。68Kと略される)のアセンブラのエキスパートでCも書けるという話だったが、実際そのとおりの人だった。OS/9の経験はさすがになかったけれど(OS/9はCD-iのOSのベースになっていた)、そんなのはすぐに覚えてしまった。
【注】 当時のアーケードのCPUは、ザイログ(インテル系)のZ80からモトローラの68Kに移行が進んでいた。というのもアーケードで使われるデータの量が大きくなってZ80では扱えない範囲に入りだしていたからだ。
そしてインテル系の16bitCPU、8086はアセンブラレベルでの移植が簡単…とかいうワケのわからないメリットを打ち出したために、大きなデータを扱うのがヘタクソで、おまけにいろいろ扱いにくいCPUだったので、よりアーキテクチャとして分かりやすく扱いやすかった、68Kがアーケードを席捲することになった。
86系・ARM・Power・一部MIPSの世界が普通になっている今の人からは想像もつかないだろうが、68Kは長くアーケード界のCPUの王座に君臨し、これが崩れるのは2000年代に入ってからになる。

転職だというのは聞いていたので、昔、何をしていたのか…と聞くとタイトーでゲーム作ってて、ダライアスのメインプログラマで、スタッフロールの一番最初に出る名前だというのだから驚いた。どうして辞めたのかというと、まあ会社でゲーム作るのに疲れて、ダライアスを作ってゲーム作りから引退しようと思った…ということだった。

当時、僕はBeep!でライターを始めていて、普通の人よりは業界側にいたが、まだゲームを作るプロではなくプロになりたい人でしかなかったから舞い上がった。本当に嬉しくてしょうがなくて、ゲーセンでダライアスをクリアするのを見せて、いろいろな話を聞いた。
例えば、Kenさんはコナミのグラディウスのザコの弾の撃ち方が美しくカッコイイと思っていて、そんな弾幕を作りたかったんだけど、どうにもそうならなかったとか、アーティストの書いてきたバリアがかっこ悪いと思っていて、アーティストが書いたドットを自分でいじったとか、敵に適当にスタッフの名前の逆読みで振ってたら、いつの間にか本当の名前になっていたとか、そんな普通はまず聞けない話を聞いた。

その中でも抜群に面白かったのはAMショーの話だった。
ダライアスをAMショーに出展したとき、あるボスのところで次の面に行かない(か、それともボスが死ななくなる)という致命的なバグが発生した。それが分かったとき、ショーの真っ最中で、どうしようもない。
そこで開発の人間がそ知らぬ顔をして待機し、バグが発生したらケーブルにつまづいて電源を抜いて、リセットすることにした。
バグが出るたびに「うわーバグったよー、俺さっきいったから、今度はお前行けよー」みたいな感じで、スタッフで回り持ちで、けつまずいて電源を抜いたわけだ。結構出て、何回もリセットするはめになったといっていた。
それでショーが終わった後、Kenさんは営業の人に「バグだしてゴメンナサイ」と言いにいった。
そしたら営業の人から「いいよ、いいよ、ウチのブースにこんなに人が来てくれたの初めてだよ」と言われた。
当時のタイトーは、自分の中ではもはや眼中にない、数はともかく出すけれどクソゲーばかりという印象で、ダライアスは本当に衝撃的なゲームだった(あのタイトーが、とんでもなく面白カッコイイシューティングを!)から、そういわれるのも当たり前だよなあ、と思った。

また、Kenさんは故MTJ氏(バブルボブル・レインボーアイランドなどのゲームデザイナー)とも仕事をしたことがあり(何をしたのかは知らない)、「あいつ何にも打ち合わせの時きいてねえんだよ、ハードがこうだから、コレしかできないよって言うと、フンフンとか言ってんだけど、仕様書来ると全然無視なんだよ、ひどい奴だよ」と言っていた。

そんなこんなで、プログラムを書くプロにはなったしライターにもなったけれど、ゲームを作るプロにはなれていない僕には、Kenさんの話はゲームを作るプロの世界がかいま見えて、ワクワクするものだった。

そしてKenさんの方から見ると、僕みたい三度の飯よりゲームが好きな人間がいるのは驚きだったらしい。自分が作っていたゲームをこんなにやっていて、ゲーム作りたくてしょうがない人間がいるのを知って、本当に驚いていた。

でも僕とKenさんの会社でのつきあいは1年も続かなかった。なぜなら僕が会社を辞めて、ハドソンにゲームを作りにいってしまったからだ。
僕はCD-iでゲームを作りたかったがCD-iでアーケードやファミコンのようなゲームは作れそうにもなかった。MSXすら怪しかった。それを言うと「CD-iはマルチメディアマシンでゲームマシンとは違う」と言われた。でも「じゃあマルチメディアとやらとファミコンの間で何が違うのか?」という僕の質問には「マルチメディアはファミコンのようなチャチなもんじゃない」という、何の根拠もない答え以外は返ってこなかった。
そして開発も遅れ、CD-iは話にならないと確信していたところに、やってきたのがハドソンの話だった。僕は結局ゲームを作りたくてしょうがない人で(今でもそうだけど)、ゲームを作れる魅力にはウンザリしていたCD-iでは全く勝てなかった。
僕はハドソンに行ってしまい、Kenさんとのつきあいも終わった。

それから1年ほどしてKenさんも僕が元いた会社への出向を辞めたという話を人づてに聞いた。僕が最初に勤めた会社は2つの親会社の出資で成り立っていたベンチャーだったが、紆余曲折があって、一つの親会社が手を引いて、もう一方の親会社が吸収する形になった時に出向を辞めた(もしくは条件が変って契約を終了した)というのが正しい流れだったと思うのだけど、少々記憶は曖昧だったりする。

だが、Kenさんの付き合いは思いもかけない形で続くことになった。Kenさんと、なんと北海道のハドソンで再び会うことになった。Kenさんの会社も、僕とほぼ同じつて(当時の角川メディアオフィスのマル勝の企画をした編集)からハドソンと仕事をすることになったのだった。結局、Kenさんもゲームの世界に舞い戻ってきたわけだが、そのとき嬉しいことを言われた。
「タイトーでゲームを作っていたときは、プレイヤーの顔が見えなくて情熱がなくなっていた。でも岩崎君がものすごいゲームが好きなのを見て、またゲームを作りたくなった」
本当に嬉しい言葉だった。

今、Kenさんが何をしているのかは知らない。でも、少なくともKenさんがプログラムを書いたダライアスはシューティング史上、不滅の名作の一つとしてアーケード史上…いや、ゲーム史上に燦然と光を放っている。
そして、あれを作れたKenさんを、今でも尊敬し、うらやましく思っているのだ。
ところで、今、ワイド画面だからこそ、ダライアスを移植して欲しいと思ってしまう。
オリジナルのダライアスの1画面あたりの解像度がいくらかはわからないが、当時のアーケードだから、1画面は256x240もしくは320x240。
モニタを1920とすると、256なら3画面で768x240。2.5倍して1920x600に出来るし、320で960x240。1920x480で3画面を完全に表示することが出来る。
正直、ダライアス完全移植版(2/3画面モード切替つき。2P可能)なら、フルプライスでも余裕で買う。X360/PS3のどちらでもいいので、真剣に検討してもらえないでしょうか、スクウェアエニックス様(;´ω`)
ついでにニンジャウォリアーズとダライアスIIもあれば完璧!


記事編集記録
□2011/04/30 - 編集記録を入れた(日付は更新してない)
□2011/04/27 - Kenさんが名前を出していたのを知って更新
□2010/08/25 - オリジナル投稿

|| 21:56 | comments (10) | trackback (1) | ||

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TRCと電撃PSD
今のゲーム屋なら、誰でもTRCというものを知っている…と思う。

ハードによって呼び方が違うのだが、僕はPS1時代にこれが初登場したときにTRCと呼ばれていたのでTRCと呼ぶクセがある。

TRCっていうのはどういうものかというと、大雑把にはハードメーカーが決めている規定を守っていますか? というチェックシートだ。これをマスター提出時にひっつけて出すことになる。
で、TRCを守っているかどうか、バグがないかも兼ねてハードメーカーがチェックを行い、OKなら発売される。
つまり、ゲームが発売にいたるためには

1)ゲームを作り、社内でデバッグし
2)TRCをつけて、マスターを提出し
3)ハードメーカー側がTRCを守っているか、加えてバグがないかチェックし
4)全てOKなら発売される

…というシステムだが、これが出来たのは、僕が知っている限りではPS1からだ。
もちろんFCやPCエンジンの時代も似たようなものはあったが、システマチックに完成されたのはPS1が最初だと思う(もしメガCDでこれがあったならスマンだけど。僕はMDは手伝ったことしかないのよ…)。

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|| 20:33 | comments (3) | trackback (0) | ||

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本当に怖い目に会うと顔色は白になる
Twitterで
『ツイッターで見る、反原発の人ってヒステリックに叫ぶけど、背景知識が全くなく、仮にある場合でも全然間違っているとしか思えない知識ばかりなのはナゼなんだろう(;´ω`)』
と、ふっとぼやいたところ、
『「私は不安です!」を他の言葉で言い換えてるだけだからじゃないですかね。('ω')』
みたいな返事があり、フムフムと思うと同時に
『 ぶっちゃけ、今の反原発って「映画のスクリーンからジェイソンが飛び出してきて俺を刺したらどうするんだ!?」ってぐらい非合理なことばっかりいってるのでポカーンとなるのです('A`)』
(追記。もちろん反原発運動をしている人全てがこういうワケではない。たまたツイッター上で見たデマ拡大マシーンみたいな方々がそうだったというだけだ)

と、書いた瞬間に、電光のように思い出した、ちょっと面白い話を書きたい。

人は本当の恐怖を味わうと、顔は青いを通り越して白くなる。

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|| 21:20 | comments (0) | trackback (0) | ||

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PCエンジンの開発環境(補足)
今と余りに時代が違いすぎて分からないことが多いだろうから、PCエンジンを作っていた時代について、いろいろと補足。

DOSについて
88年当時、使っていたのはDOS 3.1-3.3。DOSはマイクロソフトが作ったMS-DOSというヤツ。今では普通の人はまず画面を見ることがほとんどないが、見たければアクセサリ>コマンドプロンプトを選択することで見ることが出来る。
PCエンジンが開発されている間にDOS4、DOS5とバージョンは上がったが、DOS4はあまりに中途半端なバージョンで、開発環境として使えるか? と言われると微妙すぎたのでスルーされた。91年あたりからDOS 5.0が発売されたが、いろいろな都合で、結局、PCエンジンの開発機は最後まで3.1-3.3あたりのバージョンを使っていた。

さてDOSと言うヤツは8086というとても古くさいCPUに対応して作られていた…とはいっても、この8086は今のX86といわれるコード体系の最初の一歩で偉大な…いや、そうでもないけど、まあ大ヒットCPUだ。8086は扱えるメモリの上限が1メガバイトだったのでDOSが使えるメモリの上限も1メガバイトになる。この1メガバイトのメモリのことを「コンベンショナルメモリ」と呼ぶ。
コンピュータの持ってる全てのメモリ領域が1メガバイトで、画面表示用のメモリや、BIOSや、I/Oやいろんなものがあるわけだから、全部がDOSの物にはならない。だからDOSはそのうちの640-768キロバイトぐらいしか使うことは出来なかった。そして仮想メモリとかそういう気が利いたことは一切ない(DOS EXTENDERとかそういうのはムシ)。だから640キロのメモリなら640キロのサイズのプログラムまでしか動かない、とてもわかりやすい構造になっている(そしてPC-9801は640キロが上限だった)。
ところで1メガバイトで「エー?」と言うなかれ。当時は64キロバイトのメモリが凄かった時代なのだ。15倍もある1メガバイトは途方もないメモリ量だった。

PCが起動すると、まずDOS自体がコンベンショナルメモリに入り、システムとして動くようになる。メモリは全く保護されていないので、プログラムを1文字間違えるだけで、DOSそのものを壊してしまい、簡単にDOSはハングアップする。ウィンドウズで言えば「ブルーデス」するのが全く当たり前だった。ただしレジストリや遅延書き込みもなかったので、ディスクに直接アクセスするようなプログラムでもなければディスクの破壊は起らなかったし、DOSはおっそろしく小さかったから起動は10秒もかからなかったので、ハングアップしたら「ちっ!」とかいってリセットすれば良かった。

DOSは設定にもよるが、だいたいトータル120キロぐらいコンベンショナルを使った。次に日本語のFEP(今でいうIME)が入り、これがまた120キロバイトぐらいなくす。640-240で、残り400キロぐらいになる。この400キロでmakeとアセンブラだのリンカだのを同時に動かさなければいけなかった(細かい設定でもちろん残りメモリは変動した)。400キロとかいう残りは、ちょっと何かをするとパンクしてしまうサイズでとても辛かった。
具体的な例を挙げると、例えば9801のグラフィックエディタを作るとして、1画面の容量は128キロバイト。400キロバイトからアンドゥバッファを一つ取るといきなりメモリがドカ減りしてしまう。実際、PCエンジンの開発ツールでもPEはundoバッファを取っていたのもあり、400キロ前後のコンベンショナルが必要で、ちょっと設定が悪いとメモリ不足で動かない騒ぎを引き起こした(そしてアーティストはそういうことには疎かったので、アーティストのためにマシンを設定するのもチームのプログラマの仕事の一つだった)。


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|| 20:30 | comments (6) | trackback (0) | ||

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