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斉藤由貴さんとKMOとハドソンと(上)
いつか書くと書いていたが1987年にどうして僕が斉藤由貴さんと一度会ったことがあるのかという話。
ついでに、どうして自分がゲームのプロになったのかについても書きたい。

1987年初頭、僕は、初めて就職した会社でCD-iの開発に従事していたが、ウンザリしはじめていた。
僕が若いころコンピュータでやりたいことが3つあった。一つがシステム関係のソフトを書くこと。つまりシステム屋になること。2つめがCG関係の仕事をすること。3つめがゲームを作るプロになることだった。
最初の2つは松下無線研究所のバイトと、最初に勤めた会社でかなり納得していたが、反面、限界も感じていた。
なによりアメリカで仕事をしたとき、一緒に仕事をしたメインプログラマのロバート・ドジェットとボブ・ソレンセンって二人の余りの凄さに打ちのめされていた。
彼らより着想が面白いところや、違う切り口で勝負することは出来たけど、ことプログラムでは勝負にならなかった。実際、自分はゲーム屋になってからも発想や様々なアイディアで暮らしてきたし、技術のことが分かりゲームデザインもできる人間として珍しいだけで、技術は凡庸だと思っている。
つまり、なんで自分が最初の会社にいたのかというと、システム屋を続けてもベスト10に入ることも出来ないのは明らかだったけれど、CD-iはシステムプログラムに対する欲を満足させると同時にゲーム(+映像)も作れそうだったので付きあっていたわけだ。

だけどCD-iはハードの細かな仕様が決まるに従ってどんどん自分をガッカリさせるハードになりつつあった。
スクロールゲームやアクションゲームはとても作れそうになく、それを指摘しても「マルチメディアマシンとゲームマシンは違う。マルチメディアマシンはファミコンみたいなチャチなもんじゃない」という、わけのわからない主張しか聞けなかった。
作っている側はファミコンやアーケードを子供のオモチャとバカにしてたけど、僕は少なくともファミコンのゲームをCD-iじゃ作れないのは明らかだったし、スプライトのダメさ加減からMSX2クラスのゲームも難しいと思っていた。
そしてCD-iのデバイス的な特性から、絵のきれいなアドベンチャ以外を作るのは難しいと考えていた(この予想は結構正しくて、このあとMacで大評判になったMANHOLEなどがその流れだった)。
特にスプライトについては致命的で、たったの1個しかスプライトがなく(しかも一色!)、画面は全部書き換えするしかない。
おまけに画面モードによっては画面書き換えが非常に難しく、ゲームを作るとしたら使い物になるモードは一個しかなく、そのモードを使うと今度はストリーミングアニメーション(今で言うムービー)が出来ないオマケつき。レイヤーを複数もつことが出来たり、水平帰線期間にVDPに対するコマンドが発行できたりと、面白いところはあったけれど、正直ゲームには使い物にならないのは明らかだった。
僕はMSXのVDP9918でスプライトの威力を知っていて、スプライトを利用して書かれたゲームを88にインポートしたことがあったせいであるとないとでどんだけ違うかを死ぬほど良く知っていたので「ファミコン程度とバカにしているが、そのファミコン程度のゲームも出来ないよ!」と思って、腹立たしいだけだった。
【注】どうしてゲームを作りたいと思ったのか? については夢のスタートレックでも読んで欲しい。「どうしてゲームが作りたいと思ったの?」と聞かれたとき「スタートレックがしたかったから」以上の説明を僕は出来ない。
じゃあ、どうしてスタートレックがやりたかったの? と聞かれたら、それは自分がスタートレックファン(TOS)でSFファンだったからで、幼稚園に行く前に「ペルシダーのぼうけん(オールひらがなの自分が読んだ一番最初の方の本なのは確か)」を読み、小学生の前半で「惑星ソラリスの秘密」だの「空中海賊株式会社」だのにハマり、小学校4年の時にはSF文庫に手を出して…とSFファンであり続けているから…としか言えない。つまり、生まれ育ちの様々な選択の結果、スタートレックはなにがなんでもプレイしたいゲームだった、ということだ。
そして当時、スタートレックをプレイするためには、APPLE][を買えるお大尽でもなければ、自分でプログラムを作る(もしくは著名なモノから移植する)しかなかった(市販のプログラムは実質存在しなかった。あえて書くなら雑誌や書籍に載っているソースコード)。だからプログラムの勉強をせざるを得なかったし、遊べるようになったスタートレックも自分で移植したものだった。もちろんスタートレックを作ったときはプログラムも(ある程度)書けるようになっていた。プログラムが書けるということは、他のゲームも作れるし、作っていたし、実際、いつでも作りたかった(今でも作りたい。小さいのも大きいのもいっぱい)。



そこにやってきたのが角川メディアオフィス(KMO)のSKさんからの連絡だった。
「ねえ、岩崎君、ゲーム会社のハドソンって知ってる?」
「ええ、知ってますよ」
「ハドソンがさ、ゲーム制作者を捜して居るんだけど、岩崎君がゲーム作る気あるなら紹介するよ」
「行きます!」

「じゃ、一度さ、打ち合わせも兼ねてKMO来てくれる?」
で、KMOで打ち合わせをして、RPGにしてくれ・出来れば角川の持っている版権をベースにゲームを作ってくれといった打ち合わせがあり、大ざっぱに枠を決めた後、ハドソンにプレゼンすることになった。
つまりデビュー作がどうして永井豪先生だったのかというと、角川が版権を持っていて、かつゲームに使われたことがなく、出来ればコミックのある作品で知名度が高く…と絞っていくと、結構、永井豪先生は出てきてしまうって事情。
ではその中の凄ノ王伝説になぜなったのかというと、版権が当時角川に移っており、小説を展開している最中で、作品として僕が好きで、かつ世界が滅んだ後の展開にすれば、結構ゲームに出来たからだ。(ちなみに当時永井先生の大ファンで、もらった名刺とサインしてもらった本は宝物である。そして今でも大ファンだ)

では、どうしてソフトバンクのBeep!でライターをやっていた僕がライバル雑誌をやっていたKMOと繋がりがあったのか
それはKMOのSKさんと付き合いが数年あったから。
もともと僕は学生時代にログインでバイトしていたり、ちょっと当時の京都の同人誌関係に知り合いがいたりした。その流れから20歳過ぎの時、ある編集プロダクションを紹介され、そこでパソコンの入門書の1章を書いた。そのとき一緒に仕事をしたフリーの編集さんがSKさんだった。
なんだかSKさんは僕を気にってくれて、そのあとも付き合いは続き、ファミコンのドルアーガの塔の攻略本を作ったとき、僕がプレイを手伝ったりなんてことがあって、いつのまにか結構、仲良くなっていた。
そしてSKさんはフリーの編集として何冊かのファミコンソフトの攻略本を編集した後、マル勝ファミコンの企画をKMOに持ち込み仕事を始めた。この絡みで僕もKMOでもライターの仕事を始めることになったわけだ。
では、ハドソンとKMOは? というと、当時、KMOは市ヶ谷にあり、ハドソンも市ヶ谷にあった。もちろんメーカーと雑誌社のつきあいがあり、しかも実際に距離も近かったから仲が良かった。
だからハドソンはKMOに「ゲームを作りたがっているプログラマとか企画者いない?」と聞いてきて、SKさんは僕がゲームを作りたがっているのを知っていたので、話を持ってきたわけだ。

そんなこんなで、僕は「僕が考えた最強RPG『凄ノ王伝説』(棒読み)」のプレゼンをしにハドソン(東京)に行くことになった。
当たり前のことながらプレゼンはそれなりに準備をして行った。なんせ自分の人生かなり懸かっているのだ。だからワールドマップ自体は設計を終わらせていたし、戦闘システムなどもほぼルール部分は完成していた。おおざっぱなシナリオも用意していた。緊張して待っていた僕の前に現れたのが中本伸一さんと企画営業のIMさんだった。
プレゼンは予定では1時間ほどだった。
「どんなゲームなの?」から始まり、RPGで、今までのRPGとはここやここが違って、こんなウリだみたいな話をした。凄ノ王伝説は、今見てもかなりユニークなルールのゲームなおかげで、ウリだけは沢山あるから、結構興味をもってもらい「おう、まあまあいけそうじゃん」という評価を受けた。
そして、一通りのプレゼンを終わった後、作る方向で行こうということになった。
そこまでは良かったのだが、マズったのがその後だ。当たり前だけど、作るためにはプログラマが必要だ。
「プログラマは誰がするの?」
と中本さん。
「僕、プログラム出来るから、あとせいぜい何人かいれば出来ますよ」
「ああプログラム出来るんだったね。じゃあハドソンでサブとグラフィックを用意すればいいわけだ。で、岩崎君だっけ、今なんの仕事してんの?」
「あーCDROMって知ってます? それの関係でCD-iってのがあって…これのオーサリングシステムのコード書いてます」
この一言が全てだった(笑)
「お前、CDROM知ってるの!?」
中本さんは一気に吹き上がった。
「おれさあ、今、PCエンジンにCDROMつけようとしてんだよ! 話聞かせるべや!」
この瞬間からプレゼンなど吹っ飛んでしまい、記憶では、予定を大変更して、1時間半、CD-iの説明ばかりさせられた。
どんな規格で、OSにはどんな強みと弱みがあり、マスタリングはどんな風にしてというようなCDROM製作に関わる技術的なところから、TOCの構造、ハイシェラフォーマット(後のISO9660といわれるCDROMの標準的なディレクトリ構造)など。今で言うCD-XAのシステムや、mode2と呼ばれる非常に強力なエラー訂正機能についての技術的な解説なども合わせて行わされた。
全くゲームのプレゼンに来て、なんでCD-iのシステムの解説をゴチャゴチャやらんといかんのだ…とは思ったが、中本さんは非常に情熱的でかつ楽しい人だったので、別に話していて苦痛ということはなかった。
そしてPCエンジンにCDROMをつけたいと思って企画しているが、必要な仕様はなんだと思う、手伝えみたいなことを散々いわれ、はあ手伝わせていただきますという話でまとまった。 確か、このあとそのままどっかのキャバクラに連れて行かれて、辟易とした記憶がある。

【注】ところで物を知らない人間が、たまにしったかぶりして「PCエンジンのCDROMはCDROMではない」などとウェブで書いていることがあるが「PC ENGINE-CDROM」は、いわゆるイエローブックの規格を満たしたモノホンのCDROMだ。普通のCDROMとして読めないのは前述したハイシェラフォーマット(ISO9660)を採用していないからで、物理的なCDROMの規格とは別物だ。だいたいCDROMじゃなかったらCDのマークつけさせてもらえない。


こうして僕はゲームを作るプロに非常に大きく近づいたわけだが、もちろん企画が通ったからといって、すぐにハドソンに行くわけにはいかなかった。
まず、なんといおうと自分がやっているCD-iの仕事の引き継ぎも出来るように作業を進めなくちゃいけなかった。引き継ぎもせずに投げ出すのは最低だ。(この引き継ぎは予想以上に時間が掛かり、最初は1987年の10月にはハドソンに行けると言っていたのが3月半ばまで延びた)
それにゲームもシナリオやゲームデザインが完成しているわけじゃなかったし、それも仕上げないといけなかった。
おかげで僕は猛烈に忙しくなった。
昼間は会社で仕事をして、夜は部屋でゲームデザインをして、さらにBeep!の原稿を書いて…とドタバタとしていたある日、KMOから電話がかかってきた。
「岩崎君ってさ、88のプログラム組める?」
「はあ、まあ余裕だと思いますけど」
「ちょっと手伝ってくれるかな?」
「88ぐらいなら鼻歌だと思いますから、いいですよ」
【注】88について補足。当時NECから発売されていたホビー向け(ぶっちゃけゲーム向け)のパソコンのシリーズ。
初代8801は、640x400でワードプロセッサまで出来るという「ホビーユースからビジネスユースまで幅広く対応する」シリーズだったが、もともとゲーム用途が多かった所に、ビジネス用途としては圧倒的に強力な9801が登場したことでホビー用途に完全にシフトしていた。
そして、そのホビー用途として大成功した第一弾がPC-8801 Mk2SRで、以降シリーズを重ねる毎にホビー用途の拡張を行っていた。
(当時のPCでは漢字をグラフィックで扱うのが非常に厳しかった。これをハードウェアサポートしたビデオチップを98は搭載しており、漢字を扱う上で圧倒的なアドバンテージがあった。そして漢字が高速に扱える=ビジネス用途で圧倒的な有利さ、だった。ただこのビデオチップを基板に直接載せてしまったため、ビデオの拡張が出来なくなる致命的な問題が生じるのだが…)

KMOに行くと、そこにいたのはTKさん。3年ほど後に、僕はKMOに誘われて入社し、この人とも長く付きあうことになるのだが、自分として一番印象に残っているのはこの事件。
「今度、新しい88が出るんです」
「はあはあ」
「それの音楽関係のプログラム書いてくれません?」
「いいんですが、3つばかり質問が」
「タイトルはなんですか?」
「アセンブラはアリですか?」
「新しいと言いましたが、機材はどうするんですか?」
88で書くなら知り尽くしたハードだし、仕事内容いかんを問わず、自分がプログラム出来る範囲だということはわかりきっていたので、出来ないという気はなかったが、聞いた話にはびっくりした。
まずタイトルは新しい8801のプロモーション用のソフトというのだ。
新しい8801はサウンド機能が大幅に拡張され、しゃべらせたり出来る。そこで発売を記念して、当時PC-8801のイメージキャラクターをしていた斉藤由貴さんがしゃべったりするデモプログラムをNECが出すことになった(ついでに書くと購入者にプレゼントされたらしい)。そのデモプログラムをKMOで作っているのだがプログラマが時間がなくてサウンドルーチンを作れないと言っているので、手伝ってくれないか、というのだ。
なんだか呆れる話だなと思ったけれど、金にはなるし、いいですよと受けた。アセンブラなどについては確認してくれる…という話だった。
で、翌日だったかに返事がありハードは貸し出ししてくれる、ただしサウンドボードはNECにもないので、互換性のあるサウンドボードの入ったモノを新しいBASICと一緒に貸す、あと一度メインプログラマと会って話をしてくれ…ということだった。
アセンブラ使用不可…で僕は面倒くさくなったと思った。というのもアセンブラ使用不可ということ=全部BASICで書かなければいけないということで、BASICはリアルタイム性も割り込みも弱いし、なにより自分が完全にCに移行してしまっていたのもあって、書くのが苦痛だろうなあ…となんとなく想像していた。
またメインプログラマと会うのも面倒だったけれど、仕様のすりあわせをしないといけないし、今みたいにwikiだメールだ、果てはリモートだで韓国からだろうが部屋のマシンを目の前で使うように操作できる時代じゃない。
しかもメインプログラマは時間を取れなくて、市ヶ谷まで出られない…というので、夜の10時ぐらいにメインプログラマの人と、彼のアパートで会って、一通り打ち合わせした。
正直な事を書くと、そんとき思ったのは「こいつ、あんま出来そうにないなあ」だったけれど、自分の仕事をこなせば仕事は終わりになるし、えらい切羽詰まったスケジュール(1週間ほどしかなかった)を言われたので、機材を借りて突貫工事でプログラムを作った。
BASICにもあったタイマー割り込み制御を使い、一定間隔で割り込みを書けて、サウンドバッファ代わりになっているMML文字配列に読み込んで、それをプレイに叩き込んで行く…というルーチンを作り(テストまで含めてコア部は本当に2日ぐらいで書いたと思う)、すり合わせ方法を書いたドキュメントを書いて、TKさんに渡した。
一番苦労したのは、ともかくBASICの使い方を忘れていたのと、結構ディスクアクセスとかで割り込みが止まるので、それでも音をちゃんと鳴らせるようにするための「BASICだけ」でどうすりゃいいのかを調べることだった。
読み込みのためのMMLをディスクに書き込むツールを作る方がよほど面倒だったぐらいだ。
(知らない人のために解説しておくと、BASICはローカル変数がなく、グローバル変数しかないので、モジュラーにプログラムを作ることが全くできないので受け渡しがかなり面倒だった)

なんにしても、仕事を終わらせられたので満足し、これで終わりだと思っていたら、数日してTKさんから電話が来た。
「明日、NECに一緒に来てくれない?」
え? とは思ったが、内容の説明をしないといけないのか、実はBASICの新しい仕様で何か問題があって修正しなくちゃいけないのか、なんか報告か、ともかく自分がいるわけだ…と思った。
「はあ、いいですけど」
「じゃあ11時に、よろしくお願い」
「はい、わかりました」
僕の勤めていた会社はいわゆるコアフレックスで、しかもコアが2-5時という天国のような会社だったので問題はなかったので、あっさりとオッケーした。

超長くなったので続く。
|| 21:49 | comments (8) | trackback (0) | ||

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コメント
大変、楽しくそして懐かしく読ませていただきました。
自分が某社に入社したのが1989年でしたので、既に岩崎さんは伝説の人となっていて、うーさんやスポさんにお話を聞くだけの人でした:-)
入社した当時はまだ若く、CD-iは夢のマシン見えたものですが、DYUVのモードだと綺麗だがキャラクターゲームは作れず。
CLUTのモードでも複数のソフトウェア的なスプライトを出すのも苦労しましたが、そんな話も今は昔。

「斉藤由貴さんとKMOとハドソンと」の完結を楽しみにしております。頑張ってください。
| くろやん | EMAIL | URL | 10/10/14 11:32 | 3YWsIOBU |
>出来すぎてると思うでしょ? でも、これ、全く本当の話なんです。
わりと現実なんてそんなもんですよね
私自身、岩崎さんの名はマル勝ファミコンの連載コラムで知ったと記憶してるんですが、
確か今回出た話の当時には同雑誌上で中本さんとも対談してましたよね?
それにしても1987年の時点で家庭用ゲーム機にCD-ROMを持ち込む企画を立ち上げてた
こと自体が驚愕です。当時のハドソンはイケイケな感じで突っ走ってた感じでした。
そういや当時開発中のデモで「大通り公園殺人事件」なんていうサンプルのゲームもありましたね。
| はちはち | EMAIL | URL | 10/09/19 22:10 | 7Q0Cf0A. |
はじめまして。楽しく読ませていただきました。
中本さんは噂通り、豪快な方だったみたいですね。
CD-ROMはこれより何年も後にSFCが採用を見送ったくらいですから、すごい冒険でしたでしょうね。
CDロムロム自体が高価でしたので、まさかあそこまで成功するとは思いませんでした。

この頃の88だと88MAあたりのプロモでしょうか。
88とPCエンジンといえば、PC-8801MC2という88がPCエンジンと同じCD-ROMドライブを搭載してましたが、こちらは時期尚早みたいで、本当にタイミングは難しいですね。

ちょっと前のTOSの話も読ませていただきました。
北米でスタートレックオンラインが実現しましたが、岩崎さんの手でも実現するといいですね。
私も大のトレッカーなので応援してます。
| みなもと | EMAIL | URL | 10/09/19 02:18 | Jem4C.dQ |
>>ケラ様
一度で終わらせるつもりだったんですが、書いたら結構長くて手間かかっちゃってw

>>ドリミン・ウナギヌン様

SB2ってやつです。まさに。
中本さん側から見たら、そうだったかも知れませんね。当時CD ROMをやろうとしてた中本さんに対して、社内でもかなり批判はあったそうです。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 10/09/18 13:54 | Eeem.i3Y |
ブログ更新楽しみにしていました。まさかここで88の話題が出てくるとは!いわゆるサウンドボードIIってやつでしょうか。

ここでの主人公は岩崎さんですが、中本さんにとっても岩崎さん(&CD-ROM)との出会いは出来すぎなくらいだったのではないでしょうか。

続きを楽しみにしています~。
| ドリミン・ウナギヌン | EMAIL | URL | 10/09/17 16:21 | dnErtEe. |
くそっ!くそっ!良いところでww

斎藤由貴さん、好きだったなぁ。続き期待してます。
| ケラ | EMAIL | URL | 10/09/16 14:25 | 4xZYexe6 |
(;´ω`)
出来すぎてると思うでしょ? でも、これ、全く本当の話なんです。
もちろん僕はSKさんにゲーム作りたいとか、ゲームの話をしまくっていたのは事実ですし、多分SKさんは僕の能力を買ってくれてはいたと思います。
それでも、こんな話、普通は信じられませんよねw
| 岩崎 | EMAIL | URL | 10/09/16 01:46 | Eeem.i3Y |
以前リクエストした際に「作り話にしか~」という返答をいただきましたが、ここまでの流れだけでもたしかに出来すぎてますねw

タイトルからして、このあと斉藤由貴さんと会うところまで飛躍するのは確実だろうし、続きを楽しみにしています。
| も | EMAIL | URL | 10/09/16 00:56 | arlvUf2E |
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