2010-05-20 Thu [ 転載物::同人誌 ]
このテキストは1999年、「ときめきメモリアル2」が発売される前、コンシューマにおけるギャルゲーブーム終焉に書いた同人誌の内容に若干の訂正やコメントを加えたものだ。
もともとはTwitter上の会話で @matsushita99 さんとときメモの話になったときに、ヤフオクで探すとか言われ、別にそれほどの本じゃないし、古い本だからアップしますよ、ということでこまごまと見直して、コメントなどもつけつつ、アップロードしていくことにした。
1994年4月19日19:06 ニフティサーブ
ここには既にアップロードした、ニフティへ投稿した書き込みが入っていたので、リンクのみを張っておく。
この文章を書いてから5年が過ぎた。
読み直すと、なんともダメな気恥ずかしい文章で、とてもプロのライターが書いたとは信じられない代物で――
え? 今だって同じような物? 余計なお世話だ!
――汗顔のいたりだが、それでも自分が、当時どれだけ熱狂して書いていたのか、そしてどんな気持ちだったのか、昨日の事のように思い出せる。
レビューでプレイを終了した直後、マイナーなPCエンジンスーパーCD(NECホームエレクトロニクスのハード)で、あまり注目されずに消えてしまうことを余りに残念に感じ、少しでも沢山の人に遊んでもらいたいたいくて、レビュー本文を書くと同時にしゃかりきになって、ニフティにアップする文章を書いたのを思い出せる。
だが――振り返ってみるとに、皮肉な話だが『ときめきメモリアルからの悲劇(とあえて呼ぶ)』はまさにこの文章を書いた瞬間から始まったと思う。
5年経った今、それがどうして起こり、何をもたらしたのか、はっきり人に説明できるようになった。
だから、全てをまとめて、話をしてみよう。
これを問うならば…余りに当たり前な答えだが、当然、自分が途方もなく面白いと感じたからだ。
どうしてそこまで感動したのか?
まず、自分が当時はPCエンジンの現役(笑)開発者で、今の目から見れば、そう驚くほどではないが、当時の貧弱な開発環境とマシンからすると途方もないイベント数が入っていたのはある(当時の開発環境は現代ゲームマシンの開発環境と比較すると、極めて貧弱で『ときめきメモリアル』のイベント数は奇跡に近かった。恐るべき努力だったと思う)。
基本的に全てのイベントに音声がついていたというのもある(ちなみに『ときめきメモリアル』の音声量は当時としては画期的だった。多分、ほぼ全てのセリフに音声がついた世界初のゲームだと思う)。
技術的に優れていた、というのもある(CDのアクセスなど見事なもの)。
実際にゲームバランスが優れていた(今の『ときめきメモリアル』よりもゲームとしてのバランスは優れていると思う)というのもある。
だが、本当にどうして『ときめきメモリアル』にはまったのか? といえば、上の答えは、それを支える理由の一つではあるけれど、どれも決定的な理由ではない。
確かに上に書いたようなことは真実ではあるが、それだけの理由で熱狂するほど面白いと思ったわけではないのだ。
その、本当の、そして二度とないだろうと思う理由と、そして、それのせいで結局、何が起こったのかを語るためには1993年まで遡らなければならない。
といっても「今回の移植は手抜きだねぇ」(極めて出来は悪かった。いかにも年末商戦に間に合わせるために作りました、という代物だったのだ)なんて話をしているときに、モノのついでで出てきた――
「コナミの次のゲームは何だろう?」
「ああ、岩崎さん、コナミの次はギャルゲーっすよ」
この、ほんの2行で表せる極めて簡単な会話だった。
タイトル名が出ていないのは間違いではない。
話していた編集(それも記憶では確かコナミの担当だった)すらタイトル名を覚えておらず、話にならない数合わせのソフト、のイメージを持っていたのだ。
これじゃ名前を聞いていないじゃないか、という話になるが(苦笑)、そのあと自分で雑誌をチェックして『ときめきメモリアル』って名前を覚えたのだから、この時に名前を知ったのは嘘ではない。
そのあと、コナミから編集部に送られてきた体験版を見る機会があったのだが、僕の頭の中では、ちっとも要注意のソフトにはならなかった。
なぜなら「ああ、今度は自分を鍛える『プリンセスメーカー』なわけね、コナミもとうとうこんなソフト作るようになったんだ。PCエンジンも終わりだなあ」だったからだ。
それも無理はない。この体験版、体験版と称しながら、なんのプレイも出来ず、しかも、パラメータの操作法とゲーム進行が説明されているだけで、実際にどんなゲームかは全く想像出来ない代物だったのだ。
しかも、その印象を強化するがごとく、編集部に来ているメーカー広報資料も自分を鍛えて、幼なじみの藤崎詩織に告白されるゲームと書いてあったので、体験版や紹介用のデータからそれ以外のイメージを得ることは不可能だった。
それらの中には、あの多彩なキャラクタやイベントは微塵も姿を見せず、せいぜいが「こんな女の子も出てきます、マルチエンドです」と紹介されていた程度だったのだ(これまた『プリンセスメーカー』や『卒業』以降、育成系ゲームでは、ごく当たり前の事だった)。
これでは誤解してしまうのも無理はない。
――余談だが、この体験版は当時PCエンジンの体験版CDを付録にしていた小学館の雑誌に収録され、それが後にマニアの必携アイテムの一つになるのだが――それはともかくとして、実際にプレイした時の評価から考えれば、ずいぶんと悲惨な出逢いだが、当時の状況を考えれば、それも仕方なかった。
ギャルゲーと呼ばれる系統のゲームといえば、18禁を除けば『卒業』・『誕生』・『プリンセスメーカー』などのキャラクタのパラメータを操作することにより、自分の好みのキャラクタを作り出し、その条件に合致するエンディングを見られる、このスタイルが大半だったのだ。
そうではないモノとなると、日本テレネット(懐かしい響きだ。一世を風靡した時代もあったのに)の『ヴァリス』シリーズや、ニチブツの沢山ある麻雀に代表される出来の悪いアクションゲームに(露出度の高い)ギャルを売りにしたアニメがついているもしくは、エグいイカサマをする麻雀に露出度の高いギャルがついている。こんなイメージがが大半だった。
(似たようなゲームでナグザットが出したひどいアクションもあった。これまた余談だが、僕の友達の開発者で『ヴァリス』の事を「脱げば脱ぐほど強くなる」と表現した奴がいた。ずいぶんと侮蔑的な表現だが、また反面そう言われても仕方のないレベルのゲームであったのも確かなところだ)
露骨な表現をすれば、当時は「ギャルゲーとは、すなわち、全く売りのない出来の悪いゲームを売るために、刺身のツマであるはずのギャルを主食にした代物」なんてイメージが普通だったのだ。
そして、その例外中の例外として『同級生(1。2はまだ)』が「ギャルゲーでありながら、面白いゲーム」と認識されていた程度だったのだ(なおギャルゲーなる言葉を初めて聞いたのも、この「ときめきメモリアル」の騒ぎ前後だったと記憶している)。
そしてだ。
たまたまPCエンジンはCDROMをゲームを供給メディアの中心に据えていたゲームマシンだった(ちなみに世界初の商用CDROMゲームマシンでもある)。
だから、声優を使って声が出せて、アクセスタイムさえ我慢すれば余りある容量を駆使して華麗なギャルのグラフィックを堪能することが出来た。
なおかつ、PCエンジンは既にそのピークを通りすぎたマイナーマシンで、市場的にはコアなファン以外はほとんどいない、小さな物になっていた(ピークは多分『天外魔境Ⅱ 卍丸』発売後の約1年の間だと思う)。
それではメーカーはメシは食えない。
だから、どこのメーカーも主力ソフト(と開発部隊)は活動の中心をスーパーファミコンに移し、既にPCエンジンは「出ればほとんどカス。当然売れない」状態だったのだ。
それでも、それなりに売れるためには、その残っている数少ないコアなファンの心をつかむことが必要で、実質的にギャルは必須の要素になりつつあった。
言い換えるなら、当時残っていたファンにとって「声が出て、大きな絵が出る」ことは、重要な要素の一つだった。そういうモノの期待できないスーパーファミコンでは、彼らの欲求が全て満たされるわけではなかったので、彼らは残っていたわけなのだ。
だからPCエンジンの末期には、メーカーの大半はギャルゲーかダメゲーか、それともその両者を満たす物ばかりを出してくる状態だったのだ。
そのような状況下にあったPCエンジンの雑誌で、僕はレビューをしていたのだから、即時、頭がソチラ方向に働き
(1)自分を鍛える → パラメータ操作 → プリンセスメーカータイプ
(2)コナミは硬派なメーカー → ギャルゲー+マーシャルチャンピオンは外れ → 手抜きゲーム
と分類・予想したわけだ。
しかも、体験版を見る限りでは、全くそれ以外には分類のしようもなかったし、資料も僕の判断を支持していた。これになんの間違いもないだろう、と僕は予想したわけだ(『卒業』は複数のキャラクタを相手にするので、ちとイメージが違う)。
そして僕が予想したのと同じように、雑誌を編集している人間も、紹介するライターも、さらにプレイする(であろう)レビュワーも、誰もが『ときめきメモリアル』は「自分を鍛えるプリンセスメーカータイプのゲーム」で、多分、手抜きな作品であろうと予想したわけだ。
そして、コナミからは、予想を覆すような情報は一切出ないまま、時は流れて1994年を迎えた。
もともとはTwitter上の会話で @matsushita99 さんとときメモの話になったときに、ヤフオクで探すとか言われ、別にそれほどの本じゃないし、古い本だからアップしますよ、ということでこまごまと見直して、コメントなどもつけつつ、アップロードしていくことにした。
1994年4月19日19:06 ニフティサーブ
ここには既にアップロードした、ニフティへ投稿した書き込みが入っていたので、リンクのみを張っておく。
この文章を書いてから5年が過ぎた。
読み直すと、なんともダメな気恥ずかしい文章で、とてもプロのライターが書いたとは信じられない代物で――
え? 今だって同じような物? 余計なお世話だ!
――汗顔のいたりだが、それでも自分が、当時どれだけ熱狂して書いていたのか、そしてどんな気持ちだったのか、昨日の事のように思い出せる。
レビューでプレイを終了した直後、マイナーなPCエンジンスーパーCD(NECホームエレクトロニクスのハード)で、あまり注目されずに消えてしまうことを余りに残念に感じ、少しでも沢山の人に遊んでもらいたいたいくて、レビュー本文を書くと同時にしゃかりきになって、ニフティにアップする文章を書いたのを思い出せる。
だが――振り返ってみるとに、皮肉な話だが『ときめきメモリアルからの悲劇(とあえて呼ぶ)』はまさにこの文章を書いた瞬間から始まったと思う。
5年経った今、それがどうして起こり、何をもたらしたのか、はっきり人に説明できるようになった。
だから、全てをまとめて、話をしてみよう。
注
発行は1999年なので、5年ということになる。この当時の自分の文体を見ると、なんとも大げさな言葉を並べていて(自分的には)修正したいのだけど、オリジナルに忠実にしておく。
また、タイトルの『決戦前夜』は言うまでもなく金子 達仁氏の「決戦前夜 - Road To FRANCE」のモジリである。
発行は1999年なので、5年ということになる。この当時の自分の文体を見ると、なんとも大げさな言葉を並べていて(自分的には)修正したいのだけど、オリジナルに忠実にしておく。
また、タイトルの『決戦前夜』は言うまでもなく金子 達仁氏の「決戦前夜 - Road To FRANCE」のモジリである。
承前
どうして『ときめきメモリアル』は、僕に前掲した文章を書かせたのか?これを問うならば…余りに当たり前な答えだが、当然、自分が途方もなく面白いと感じたからだ。
どうしてそこまで感動したのか?
まず、自分が当時はPCエンジンの現役(笑)開発者で、今の目から見れば、そう驚くほどではないが、当時の貧弱な開発環境とマシンからすると途方もないイベント数が入っていたのはある(当時の開発環境は現代ゲームマシンの開発環境と比較すると、極めて貧弱で『ときめきメモリアル』のイベント数は奇跡に近かった。恐るべき努力だったと思う)。
基本的に全てのイベントに音声がついていたというのもある(ちなみに『ときめきメモリアル』の音声量は当時としては画期的だった。多分、ほぼ全てのセリフに音声がついた世界初のゲームだと思う)。
技術的に優れていた、というのもある(CDのアクセスなど見事なもの)。
実際にゲームバランスが優れていた(今の『ときめきメモリアル』よりもゲームとしてのバランスは優れていると思う)というのもある。
だが、本当にどうして『ときめきメモリアル』にはまったのか? といえば、上の答えは、それを支える理由の一つではあるけれど、どれも決定的な理由ではない。
確かに上に書いたようなことは真実ではあるが、それだけの理由で熱狂するほど面白いと思ったわけではないのだ。
その、本当の、そして二度とないだろうと思う理由と、そして、それのせいで結局、何が起こったのかを語るためには1993年まで遡らなければならない。
1993年 冬
初めて『ときめきメモリアル』の名前を聞いたのは、1993年の年末に『マーシャルチャンピオン』(ストリートファイターII系のコナミ版。アーケードおよびPCエンジンで発売されており、いくつかの新機軸はあったがまるでヒットしなかったと記憶している)の移植版のレビューについて編集と話をしていた時だった。といっても「今回の移植は手抜きだねぇ」(極めて出来は悪かった。いかにも年末商戦に間に合わせるために作りました、という代物だったのだ)なんて話をしているときに、モノのついでで出てきた――
「コナミの次のゲームは何だろう?」
「ああ、岩崎さん、コナミの次はギャルゲーっすよ」
この、ほんの2行で表せる極めて簡単な会話だった。
タイトル名が出ていないのは間違いではない。
話していた編集(それも記憶では確かコナミの担当だった)すらタイトル名を覚えておらず、話にならない数合わせのソフト、のイメージを持っていたのだ。
これじゃ名前を聞いていないじゃないか、という話になるが(苦笑)、そのあと自分で雑誌をチェックして『ときめきメモリアル』って名前を覚えたのだから、この時に名前を知ったのは嘘ではない。
そのあと、コナミから編集部に送られてきた体験版を見る機会があったのだが、僕の頭の中では、ちっとも要注意のソフトにはならなかった。
なぜなら「ああ、今度は自分を鍛える『プリンセスメーカー』なわけね、コナミもとうとうこんなソフト作るようになったんだ。PCエンジンも終わりだなあ」だったからだ。
それも無理はない。この体験版、体験版と称しながら、なんのプレイも出来ず、しかも、パラメータの操作法とゲーム進行が説明されているだけで、実際にどんなゲームかは全く想像出来ない代物だったのだ。
しかも、その印象を強化するがごとく、編集部に来ているメーカー広報資料も自分を鍛えて、幼なじみの藤崎詩織に告白されるゲームと書いてあったので、体験版や紹介用のデータからそれ以外のイメージを得ることは不可能だった。
それらの中には、あの多彩なキャラクタやイベントは微塵も姿を見せず、せいぜいが「こんな女の子も出てきます、マルチエンドです」と紹介されていた程度だったのだ(これまた『プリンセスメーカー』や『卒業』以降、育成系ゲームでは、ごく当たり前の事だった)。
これでは誤解してしまうのも無理はない。
――余談だが、この体験版は当時PCエンジンの体験版CDを付録にしていた小学館の雑誌に収録され、それが後にマニアの必携アイテムの一つになるのだが――それはともかくとして、実際にプレイした時の評価から考えれば、ずいぶんと悲惨な出逢いだが、当時の状況を考えれば、それも仕方なかった。
ギャルゲーと呼ばれる系統のゲームといえば、18禁を除けば『卒業』・『誕生』・『プリンセスメーカー』などのキャラクタのパラメータを操作することにより、自分の好みのキャラクタを作り出し、その条件に合致するエンディングを見られる、このスタイルが大半だったのだ。
そうではないモノとなると、日本テレネット(懐かしい響きだ。一世を風靡した時代もあったのに)の『ヴァリス』シリーズや、ニチブツの沢山ある麻雀に代表される出来の悪いアクションゲームに(露出度の高い)ギャルを売りにしたアニメがついているもしくは、エグいイカサマをする麻雀に露出度の高いギャルがついている。こんなイメージがが大半だった。
(似たようなゲームでナグザットが出したひどいアクションもあった。これまた余談だが、僕の友達の開発者で『ヴァリス』の事を「脱げば脱ぐほど強くなる」と表現した奴がいた。ずいぶんと侮蔑的な表現だが、また反面そう言われても仕方のないレベルのゲームであったのも確かなところだ)
露骨な表現をすれば、当時は「ギャルゲーとは、すなわち、全く売りのない出来の悪いゲームを売るために、刺身のツマであるはずのギャルを主食にした代物」なんてイメージが普通だったのだ。
そして、その例外中の例外として『同級生(1。2はまだ)』が「ギャルゲーでありながら、面白いゲーム」と認識されていた程度だったのだ(なおギャルゲーなる言葉を初めて聞いたのも、この「ときめきメモリアル」の騒ぎ前後だったと記憶している)。
そしてだ。
たまたまPCエンジンはCDROMをゲームを供給メディアの中心に据えていたゲームマシンだった(ちなみに世界初の商用CDROMゲームマシンでもある)。
だから、声優を使って声が出せて、アクセスタイムさえ我慢すれば余りある容量を駆使して華麗なギャルのグラフィックを堪能することが出来た。
なおかつ、PCエンジンは既にそのピークを通りすぎたマイナーマシンで、市場的にはコアなファン以外はほとんどいない、小さな物になっていた(ピークは多分『天外魔境Ⅱ 卍丸』発売後の約1年の間だと思う)。
それではメーカーはメシは食えない。
だから、どこのメーカーも主力ソフト(と開発部隊)は活動の中心をスーパーファミコンに移し、既にPCエンジンは「出ればほとんどカス。当然売れない」状態だったのだ。
それでも、それなりに売れるためには、その残っている数少ないコアなファンの心をつかむことが必要で、実質的にギャルは必須の要素になりつつあった。
言い換えるなら、当時残っていたファンにとって「声が出て、大きな絵が出る」ことは、重要な要素の一つだった。そういうモノの期待できないスーパーファミコンでは、彼らの欲求が全て満たされるわけではなかったので、彼らは残っていたわけなのだ。
だからPCエンジンの末期には、メーカーの大半はギャルゲーかダメゲーか、それともその両者を満たす物ばかりを出してくる状態だったのだ。
そのような状況下にあったPCエンジンの雑誌で、僕はレビューをしていたのだから、即時、頭がソチラ方向に働き
(1)自分を鍛える → パラメータ操作 → プリンセスメーカータイプ
(2)コナミは硬派なメーカー → ギャルゲー+マーシャルチャンピオンは外れ → 手抜きゲーム
と分類・予想したわけだ。
しかも、体験版を見る限りでは、全くそれ以外には分類のしようもなかったし、資料も僕の判断を支持していた。これになんの間違いもないだろう、と僕は予想したわけだ(『卒業』は複数のキャラクタを相手にするので、ちとイメージが違う)。
そして僕が予想したのと同じように、雑誌を編集している人間も、紹介するライターも、さらにプレイする(であろう)レビュワーも、誰もが『ときめきメモリアル』は「自分を鍛えるプリンセスメーカータイプのゲーム」で、多分、手抜きな作品であろうと予想したわけだ。
そして、コナミからは、予想を覆すような情報は一切出ないまま、時は流れて1994年を迎えた。
原注
華麗なグラフィックと言っても512色中16色×32パレット(最大)で、今のパソコンの常識、24ビット(約1670万色)中256色もしくは、24ビットフルカラーの世界とはかけ離れている。今、見れば「これが美少女か?」と聞きたくなること保証付きだ。
コンピュータの世界で5年は想像を絶する過去、普通の世界の10年以上に当たるのだ。
華麗なグラフィックと言っても512色中16色×32パレット(最大)で、今のパソコンの常識、24ビット(約1670万色)中256色もしくは、24ビットフルカラーの世界とはかけ離れている。今、見れば「これが美少女か?」と聞きたくなること保証付きだ。
コンピュータの世界で5年は想像を絶する過去、普通の世界の10年以上に当たるのだ。
コメント
その藤原茂樹氏が移籍した会社が実はハドソンです。
そして、彼が作った最大のヒット作品が(疑いもなく)PCエンジン版のボンバーマンの「5人対戦モード」です。
あれはあらゆる意味で「ボンバーマンの革命」で、ボンバーマンが今に生き延びる礎になりました。
そして、彼が作った最大のヒット作品が(疑いもなく)PCエンジン版のボンバーマンの「5人対戦モード」です。
あれはあらゆる意味で「ボンバーマンの革命」で、ボンバーマンが今に生き延びる礎になりました。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 10/05/23 12:50 | svQmBX8. |
はじめまして。
日本物産(ニチブツ)は1988年?頃にアーケードのシューティングゲームやアクションゲームなど大半の企画・開発を行っていた藤原茂樹氏が他社に移籍して以降、脱衣麻雀と出来の悪いアクションゲームしかくつれなくなってしまったような印象が強いです。その脱衣麻雀も次第に手抜きが多くなりアーケード基盤に市販のビデオデッキやCD-iプレイヤーを接続してゲームの内容は変えず中身のムービーとタイトル名だけを変え、あたかも複数のタイトルをリリースしている作品ばかりになっていました。
日本物産(ニチブツ)は1988年?頃にアーケードのシューティングゲームやアクションゲームなど大半の企画・開発を行っていた藤原茂樹氏が他社に移籍して以降、脱衣麻雀と出来の悪いアクションゲームしかくつれなくなってしまったような印象が強いです。その脱衣麻雀も次第に手抜きが多くなりアーケード基盤に市販のビデオデッキやCD-iプレイヤーを接続してゲームの内容は変えず中身のムービーとタイトル名だけを変え、あたかも複数のタイトルをリリースしている作品ばかりになっていました。
| TAKUSUN | EMAIL | URL | 10/05/23 12:19 | qzfpaUJ6 |
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