2012-01-20 Fri [ 転載物::商業誌 ]
これは『電撃王』や『電撃プレイステーション』に載せていたコラムの中で思い入れが深いものや、付け加えをして今出すと面白いと思ったものをアップトゥデートして載せていくシリーズ。
今回は2001年の電撃プレイステーションに載せたコラム。
TVゲームは初登場時には、たった一つのスタイル、ボールをパドルで打ち返す形しかなかった。それが30年経った今では、ざっと大雑把にジャンル分けするだけでも、RPG・SLG・AVG、格闘、様々なスポーツ、もうほとんど滅びかかっているシューティング…それぞれに、たいてい「アクション(リアルタイム)」か「そうでないか」があるしシミュレーションも「リアル系」とかそうじゃないとか、もうともかく、信じられないほど様々な種類のゲームがあると言えるだろう。
どうして、こんなに様々なジャンルがあるのかと言えば、これまた理由は簡単で、コンピュータの能力が途方もなく(TVゲームの登場時から比較すれば、10万倍以上のパワーになっているだろう)パワーアップしたからだ。
パワーアップとジャンルがなぜ関係があるのかというと、理由は非常に簡単。
3ページの本じゃあ、ショートショートを書くのも難しいが、100万ページあるなら、超大河小説だって書けるし、短編集だって書くことが出来る。カラー映画は白黒より表現出来る物は多いし、サイレント映画よりはトーキーの方が表現力が大きい。
さらに加えるなら、コンピュータの場合には計算速度が途方もなく上がったことによって、いろいろな計算を短い時間で済ませることが出来るようになった。
だから、昔だったら10秒掛かるので話にもならなかった3Dのソフトもゲームに出来るようになったわけだし、昔だったら絶対に出来なかったいろいろなソフトも作れるようになったのだ。
要は、器が大きければ、いろいろな事が表現出来る、すなわち表現力が大きくなった。そして、表現力が向上したことによって、いろいろな事が出来るようになったという話なわけだ。
これ自体は疑いもなく素晴らしい事だろう。
『GT3』が遊べるのも、『鬼武者』が遊べるのも、この技術の進歩(すなわち表現力の拡大)のおかげなのだから、「ゲームはアイディアが全てだ」なんていう、信じがたいほど狭量な過去の遺物のような思想を持っている人間以外のたいていの人は「技術の進歩のありがたさ」を認めることだろう。
TVゲームがたった一つのスタイル「ボールをパドルで打ち返す」形しかなければ、どこの誰だって「パドルの動きがいいか」とか「ボールの速度の調整がいい」とか…「同じ基準」で話をすることが出来る(というか、それしか出来ないだろう)。
ところが、現在の複雑な沢山の要素が入っているゲームで、同じ基準で話すことは極めて難しい。
これまた当たり前の話で、わかりにくければ、具体的に「ドラクエⅦとGT3、どっちが面白いゲームなんだ」という質問を発してみればいい。それこそ「どっちが好きか」で答えが変わるだろうということが容易に予想がつくだろう。
それに『ドラクエⅦ』と『GT3』を自分の好み以外の何かで比較すること自体がおかしな事だ、ということも、どこの誰でもまあ納得行く話だろう。
と、そろそろ分かったと思うが、ここまでの話をまとめると「ゲームの表現力が進歩した結果、ゲームをプレイする人間に共通の絶対的な基準はなくなっている」という話なわけだ。
逆に言うなら「ゲーム」という言葉は共通だが「その言葉から、人それぞれが思い浮かべるゲーム」は全然違う物になっているし、そこから感じる面白さも全く別になっているわけだ。
え? これが何かの問題なのかって?
こりゃあ、実は大問題なのだ。
そこで感じる面白さが全く別になっているということはだ、人が勧めたゲームが自分にも面白いとか楽しめるという保証が全くないことを意味している、すなわち、雑誌がどれだけ真面目にレビューしても「その点数が自分に当てはまるとは限らない」事を意味している。
これは、さすがに困ったことではなかろうか?
どうしてこんなのを載せたのかと言うと、あいも変わらずレビューはゲーム雑誌やゲームの問題になっているからだ。
僕はBeep!でライターとしてデビューしてから、ずっとなんだかんだでコラムでゲームのレビューを書くことをやっていて、1989年から実際にいわゆるプロのレビュワーとして10年レビューをやって、ぶっちゃけ悩んだ結果やめることにした。
というのも。
もともと映画・小説・ゲームといったエンタテイメントは嗜好性が強くて、誰でも同じように楽しめるものじゃない。
わかりやすい例として、お笑いを見ればわかる。笑いのツボは人によってぜんぜん違って「誰にでも受けるギャグ」なんてのはありえない。僕が死ぬほど笑い転げている横で、あいざわひろしが詰まらなそうな顔をしているのは別段なんの不思議もない。
およそ娯楽はそういったもので、最終的に面白いか面白くないかは極私的な感想に還元される。だから映画を選ぶとき・本を選ぶとき、自分と似た趣味の方向性を持っている人はものすごく大事になるし、また他人との解釈の違いを楽しむこと自体も重要になってくる。
そしてビデオゲームも上記の例に漏れず、当たり前のことながら、人毎におっそろしく好みの差があり、その好き嫌いは最終的に個人に還元され、さらにプレイしている量でわかる範囲が変わってしまう。
だから紋切り型の評価は出来ないけれど、文字数は足りないし、点数は一個しかない(つまりリニアな評価しか許されない)しで、10年ちょい前に本当に僕はそれに悩んで、とうとう辞めてしまったわけだ。
この問題は今ではもっと根深いのだけど、まあそれを書くには、またえらい行数がいるので(実は80%ぐらい書いた文があったりするわけだけどw)、今回はパス。
ただひとついえることはある。
ゲームを評価するとき、簡単に「神ゲー」だの「クソゲー」だの言うなんて絶対に出来ないし、ましてや、やりもせずに動画だけ見て判断するなんて、絶対に出来ない。そんなことを言うやつのゲームに対する評価は全く当てにならないし、聞く必要もない。これだけは確かなことだ。
今回は2001年の電撃プレイステーションに載せたコラム。
■■■
TVゲームは初登場時には、たった一つのスタイル、ボールをパドルで打ち返す形しかなかった。それが30年経った今では、ざっと大雑把にジャンル分けするだけでも、RPG・SLG・AVG、格闘、様々なスポーツ、もうほとんど滅びかかっているシューティング…それぞれに、たいてい「アクション(リアルタイム)」か「そうでないか」があるしシミュレーションも「リアル系」とかそうじゃないとか、もうともかく、信じられないほど様々な種類のゲームがあると言えるだろう。
どうして、こんなに様々なジャンルがあるのかと言えば、これまた理由は簡単で、コンピュータの能力が途方もなく(TVゲームの登場時から比較すれば、10万倍以上のパワーになっているだろう)パワーアップしたからだ。
パワーアップとジャンルがなぜ関係があるのかというと、理由は非常に簡単。
3ページの本じゃあ、ショートショートを書くのも難しいが、100万ページあるなら、超大河小説だって書けるし、短編集だって書くことが出来る。カラー映画は白黒より表現出来る物は多いし、サイレント映画よりはトーキーの方が表現力が大きい。
さらに加えるなら、コンピュータの場合には計算速度が途方もなく上がったことによって、いろいろな計算を短い時間で済ませることが出来るようになった。
だから、昔だったら10秒掛かるので話にもならなかった3Dのソフトもゲームに出来るようになったわけだし、昔だったら絶対に出来なかったいろいろなソフトも作れるようになったのだ。
要は、器が大きければ、いろいろな事が表現出来る、すなわち表現力が大きくなった。そして、表現力が向上したことによって、いろいろな事が出来るようになったという話なわけだ。
これ自体は疑いもなく素晴らしい事だろう。
『GT3』が遊べるのも、『鬼武者』が遊べるのも、この技術の進歩(すなわち表現力の拡大)のおかげなのだから、「ゲームはアイディアが全てだ」なんていう、信じがたいほど狭量な過去の遺物のような思想を持っている人間以外のたいていの人は「技術の進歩のありがたさ」を認めることだろう。
【注】GT3は、グランツーリスモ3。鬼武者はPS2発売直後の鬼武者。このコラムはPS2が発売されてちょっとして書かれたものである
ところがだ、この技術の進歩という奴は、また反面、大きな問題をもたらしている。それは「共通の基準を持つことの難しさ」だ。TVゲームがたった一つのスタイル「ボールをパドルで打ち返す」形しかなければ、どこの誰だって「パドルの動きがいいか」とか「ボールの速度の調整がいい」とか…「同じ基準」で話をすることが出来る(というか、それしか出来ないだろう)。
ところが、現在の複雑な沢山の要素が入っているゲームで、同じ基準で話すことは極めて難しい。
これまた当たり前の話で、わかりにくければ、具体的に「ドラクエⅦとGT3、どっちが面白いゲームなんだ」という質問を発してみればいい。それこそ「どっちが好きか」で答えが変わるだろうということが容易に予想がつくだろう。
それに『ドラクエⅦ』と『GT3』を自分の好み以外の何かで比較すること自体がおかしな事だ、ということも、どこの誰でもまあ納得行く話だろう。
と、そろそろ分かったと思うが、ここまでの話をまとめると「ゲームの表現力が進歩した結果、ゲームをプレイする人間に共通の絶対的な基準はなくなっている」という話なわけだ。
逆に言うなら「ゲーム」という言葉は共通だが「その言葉から、人それぞれが思い浮かべるゲーム」は全然違う物になっているし、そこから感じる面白さも全く別になっているわけだ。
え? これが何かの問題なのかって?
こりゃあ、実は大問題なのだ。
そこで感じる面白さが全く別になっているということはだ、人が勧めたゲームが自分にも面白いとか楽しめるという保証が全くないことを意味している、すなわち、雑誌がどれだけ真面目にレビューしても「その点数が自分に当てはまるとは限らない」事を意味している。
これは、さすがに困ったことではなかろうか?
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どうしてこんなのを載せたのかと言うと、あいも変わらずレビューはゲーム雑誌やゲームの問題になっているからだ。
僕はBeep!でライターとしてデビューしてから、ずっとなんだかんだでコラムでゲームのレビューを書くことをやっていて、1989年から実際にいわゆるプロのレビュワーとして10年レビューをやって、ぶっちゃけ悩んだ結果やめることにした。
というのも。
もともと映画・小説・ゲームといったエンタテイメントは嗜好性が強くて、誰でも同じように楽しめるものじゃない。
わかりやすい例として、お笑いを見ればわかる。笑いのツボは人によってぜんぜん違って「誰にでも受けるギャグ」なんてのはありえない。僕が死ぬほど笑い転げている横で、あいざわひろしが詰まらなそうな顔をしているのは別段なんの不思議もない。
およそ娯楽はそういったもので、最終的に面白いか面白くないかは極私的な感想に還元される。だから映画を選ぶとき・本を選ぶとき、自分と似た趣味の方向性を持っている人はものすごく大事になるし、また他人との解釈の違いを楽しむこと自体も重要になってくる。
そしてビデオゲームも上記の例に漏れず、当たり前のことながら、人毎におっそろしく好みの差があり、その好き嫌いは最終的に個人に還元され、さらにプレイしている量でわかる範囲が変わってしまう。
だから紋切り型の評価は出来ないけれど、文字数は足りないし、点数は一個しかない(つまりリニアな評価しか許されない)しで、10年ちょい前に本当に僕はそれに悩んで、とうとう辞めてしまったわけだ。
この問題は今ではもっと根深いのだけど、まあそれを書くには、またえらい行数がいるので(実は80%ぐらい書いた文があったりするわけだけどw)、今回はパス。
ただひとついえることはある。
ゲームを評価するとき、簡単に「神ゲー」だの「クソゲー」だの言うなんて絶対に出来ないし、ましてや、やりもせずに動画だけ見て判断するなんて、絶対に出来ない。そんなことを言うやつのゲームに対する評価は全く当てにならないし、聞く必要もない。これだけは確かなことだ。
コメント
いえいえ、熱くなって書いちゃったんだろうなあと思っていました。
ちょっと困っちゃったな、ぐらいでしかないので、お気になさらずに。
ところで「挑戦」と書かれましたが、海外のゲームを作る人間やプレイヤーと話をすると、ゲームに対するアプローチは\"challange\"、まさに挑戦、ということになります。
これが日本ではきわめてあいまいでして、それが故、あなたの書いた「ゲームの定義」は、海外では受け入れられるけれど、国内では微妙になる、というような不思議な事が起こります。
この話を書き出すと恐ろしく長くなるので、この程度でw
これからもよろしくお願いします。
ちょっと困っちゃったな、ぐらいでしかないので、お気になさらずに。
ところで「挑戦」と書かれましたが、海外のゲームを作る人間やプレイヤーと話をすると、ゲームに対するアプローチは\"challange\"、まさに挑戦、ということになります。
これが日本ではきわめてあいまいでして、それが故、あなたの書いた「ゲームの定義」は、海外では受け入れられるけれど、国内では微妙になる、というような不思議な事が起こります。
この話を書き出すと恐ろしく長くなるので、この程度でw
これからもよろしくお願いします。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 12/01/23 07:36 | jL2fvUUo |
岩崎さんに向けて「大っ嫌い」遠言うつもりではなかったのですが、
「クソゲー」という言葉ににスイッチが入ってしまい、場所もわきまえず大変失礼しました…。
挑戦という言葉を使ってしまいましたが、固定概念はさして持っていないつもりです。ゲームの定義は「ルール=制約」ぐらいのもので、「べき」論は私の嫌悪するところです。
ただ、こうしてムキになるあたり、私自身、やはり頭の硬いゲーマーだったということでしょうか。
いずれにせよ、たいへん申し訳御座いませんでした。
「クソゲー」という言葉ににスイッチが入ってしまい、場所もわきまえず大変失礼しました…。
挑戦という言葉を使ってしまいましたが、固定概念はさして持っていないつもりです。ゲームの定義は「ルール=制約」ぐらいのもので、「べき」論は私の嫌悪するところです。
ただ、こうしてムキになるあたり、私自身、やはり頭の硬いゲーマーだったということでしょうか。
いずれにせよ、たいへん申し訳御座いませんでした。
| michikusa | EMAIL | URL | 12/01/23 06:17 | ibO9wc0Q |
迷ったのですが、一生懸命書いておられるので公開することにしました。
第一に僕に嫌いでしたとか書かれても困ります。
まずこのブログはお知らせ、でも書いてあるように僕の個人的なもので、僕が勤めている会社・過去に勤めた会社・かいている雑誌などとは関係のないものです。
次に雑誌は、いわば「個別のコーナー(記事)の寄せ集め」です。
個々のコーナーに担当がいて責任をもって編集する、独立性の高い構造です。もちろん編集部全体の方針はありますし、個別の編集者は表に出ない形で編集部として扱うのが日本の通例ですが、それでも個々のコーナーはかなりの独立性を持っていると考えたほうがいいです。
だから、別のコーナーの話を書かれても「そうなんだ」としか言えませんし、それで雑誌全体が嫌いになるのはしょうがないと思いますが、1コーナーでの書き方から、それが雑誌全体の方針だと思われたりするのは勘違いです。
もし、雑誌を変えて欲しいなら、編集部は読者からの手紙はきちっと呼んでいますので、手紙を送るのが一番効果的です。
最後にゲームの定義の話ですけれど、それ自体も「あなたがそう思っている」ものです。
ゲームの定義はとても幅広くて、あなたが書いた定義もその中の一つ、どちらかというと伝統的かつ狭いほうに入るものでしかありません。
また、難易度曲線が柔らかくなっているのは、コンテンツ量が多く出来るようになったので、難易度曲線を柔らかく出来るようになった要素もあり、一概にあなたが思っている理由ではありません。
そしてゲームの可能性を広げる、というのは「いろんな可能性を考えてゲームを作る」ことであって、最初からゲームの枠を決めて、その中でゲームを作ることではありません。
もう少し、他の見方も考えた方が、よりゲームも楽しめるようになると思います。
質問などがあれば、出来るだけ答えたいとは思います。
第一に僕に嫌いでしたとか書かれても困ります。
まずこのブログはお知らせ、でも書いてあるように僕の個人的なもので、僕が勤めている会社・過去に勤めた会社・かいている雑誌などとは関係のないものです。
次に雑誌は、いわば「個別のコーナー(記事)の寄せ集め」です。
個々のコーナーに担当がいて責任をもって編集する、独立性の高い構造です。もちろん編集部全体の方針はありますし、個別の編集者は表に出ない形で編集部として扱うのが日本の通例ですが、それでも個々のコーナーはかなりの独立性を持っていると考えたほうがいいです。
だから、別のコーナーの話を書かれても「そうなんだ」としか言えませんし、それで雑誌全体が嫌いになるのはしょうがないと思いますが、1コーナーでの書き方から、それが雑誌全体の方針だと思われたりするのは勘違いです。
もし、雑誌を変えて欲しいなら、編集部は読者からの手紙はきちっと呼んでいますので、手紙を送るのが一番効果的です。
最後にゲームの定義の話ですけれど、それ自体も「あなたがそう思っている」ものです。
ゲームの定義はとても幅広くて、あなたが書いた定義もその中の一つ、どちらかというと伝統的かつ狭いほうに入るものでしかありません。
また、難易度曲線が柔らかくなっているのは、コンテンツ量が多く出来るようになったので、難易度曲線を柔らかく出来るようになった要素もあり、一概にあなたが思っている理由ではありません。
そしてゲームの可能性を広げる、というのは「いろんな可能性を考えてゲームを作る」ことであって、最初からゲームの枠を決めて、その中でゲームを作ることではありません。
もう少し、他の見方も考えた方が、よりゲームも楽しめるようになると思います。
質問などがあれば、出来るだけ答えたいとは思います。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 12/01/22 17:08 | RIUwVqg. |
その「クソゲー」をあまりにも軽い扱いにした「電撃PS」が大っ嫌いでした。
「クソゲー」って言ってしまうとそれで全てが終わっちゃうんですよね。
理解や歩み寄りの放棄。
ゲームも商品ですから、ユーザーがどう感じようとそれが正義な訳ですが、ほとんどイチャモンみたいなあのコーナーはジョークの形をとりながらそれまでの「クソゲー」の基準を変えたと思っています。
「難しいからクソゲー」とか。なんだそれ?
ゲームの定義が広範なものになっても、根幹でもある障害、制約といったものに対する挑戦であることに変わりはありません。
それを「なにガンバッちゃってるの」とでも笑うかのようなあの読者コーナーが大嫌いでした。
いまはゲーム以外の娯楽も増え、ゲームも咀嚼しやすいようやわらかくなり、ユーザーも「さあ、横になってるから俺を気持ちよくして見せろ」とでもいうような有様。
時代が変わっているのですから仕方がありません。私自身もイージーモードばかりのヌルゲーマーに成り下がっています。ソーシャルのせいで、旧来のゲーマーが自分達を基準にとんちんかんな発言もしています。
それでも、挑む事でこそ得られる喜びは間違いなくあるはずですし、ゲームの可能性を狭めるような偏狭な人間になってはいけないと思います。
(これはソーシャルを全否定するゲーマーにも言えると思います)
「クソゲー」って言ってしまうとそれで全てが終わっちゃうんですよね。
理解や歩み寄りの放棄。
ゲームも商品ですから、ユーザーがどう感じようとそれが正義な訳ですが、ほとんどイチャモンみたいなあのコーナーはジョークの形をとりながらそれまでの「クソゲー」の基準を変えたと思っています。
「難しいからクソゲー」とか。なんだそれ?
ゲームの定義が広範なものになっても、根幹でもある障害、制約といったものに対する挑戦であることに変わりはありません。
それを「なにガンバッちゃってるの」とでも笑うかのようなあの読者コーナーが大嫌いでした。
いまはゲーム以外の娯楽も増え、ゲームも咀嚼しやすいようやわらかくなり、ユーザーも「さあ、横になってるから俺を気持ちよくして見せろ」とでもいうような有様。
時代が変わっているのですから仕方がありません。私自身もイージーモードばかりのヌルゲーマーに成り下がっています。ソーシャルのせいで、旧来のゲーマーが自分達を基準にとんちんかんな発言もしています。
それでも、挑む事でこそ得られる喜びは間違いなくあるはずですし、ゲームの可能性を狭めるような偏狭な人間になってはいけないと思います。
(これはソーシャルを全否定するゲーマーにも言えると思います)
| michikusa | EMAIL | URL | 12/01/21 20:20 | 2jwsv8T2 |
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