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1990年12月 SFC、レッドの忘年会、そしてBINGO
アップロードのタイミングがいいので日記代わりに。
いろいろあったのだけどやっぱり海外の会社に就職した。
会社はgameloft。仕事はlead game designer / game director ってことになる。
また日本語じゃない言葉を喋る仕事になってしまったw
海外就職シリーズでちょっと付け加えたいことが出来たので、近いうちに書く予定。ともかく忙しくて、やることが突然増えて大騒ぎ。
以下本文。

1990年12月。
スーパーファミコンが1ヶ月ほど前に発売され、超品薄になり大変な騒ぎが起こっていたけれど、僕ら天外2のチームにはあまり関係がなかった。
というか、スーパーファミコンは、もちろんPCエンジンスーパーCDROMのライバルではあったけれど、反面、サードパーティ・雑誌社などにとっては期待の新製品発売でゲーム業界の盛り上がりに水をかける必要などない。
天外2チームとしては「いやーもちろんSFCさんもいいハードですけど、しょせんはROMですから、CDのスゴさには総合では勝てませんよ」ぐらいのエールを送っておくのが大人というモノだ。



実際のところ、開発機でSFCを一通り研究したとき、画面モードの制約の厳しさ・サウンド関係の制約の厳しさ、さらに「16ビットだから速いに違いない」というユーザーの期待とは裏腹の低速ぶりには参った(仕様から想像は出来ていたが、実測すると頭痛がした)し、初期には開発機としてソニーのエンジニアリングワークステーションNeWSが要求されたのだけど、これに付属しているツールの使いにくさには本当に悩まされた。
でも、PCエンジンと比較して、カラーが2ビット多いことによる色表現の強み(PCエンジンはRGB333なので、8段階しか明るさの調整が効かないがSFCはRGB555なので32段階になり、圧倒的に色表現は豊か)・半透明(これまた制約だらけなのだけど…)・多重スクロール(これは欲しかった!)・ラスタ時に発行出来るコマンド(これも制約が多かったけれど、すごく色々な事に使えた)・さらにサウンドの良さはいいなあと思えたのも事実だ。

グラフィックの性能面ではSFCは完全にPCエンジンを上回っているのは事実だったけれど、ROMで容量制限が厳しいからアニメやったり喋ったりなんてんのは夢のまた夢なわけで、容量の違いを利用すれば十分な勝負は出来ると僕らスタッフは思っていた(サウンド面はPSGは厳しくてもこちらにはADCPMとCDオーディオがあったのでなんとでもなると思っていた)。

ちなみにSFCのROMには高速なものと低速なものがあったのだが、高速アクセス出来るものでもPCエンジンの60-70%程度の速度しか出なかった。そして初期には高速ROMは使えないも同然だったのでPCエンジンの30-40%程度しか速度は出なかった。そしてこの低速ぶりにアースライトを作った和泉さんは悩まされ続け、そして解決出来ないまま発売された。
CPUの速度とメモリはこの手のシミュレーションゲームを作るときには露骨に影響し、SFCはメモリはPCエンジンに比べれば圧倒的にあったけれど、ともかくあまりに遅いのが問題だった。

そして、この頃になると2週に一度のレッドでの打ち合わせは終わっていた。
全体の流れは決まり、詳細なゲームデザイン・デモ・設計のフェーズに全体が移行していたので、レッドでの大枠の打ち合わせの必要がなくなったからだったけれど、打ち合わせ自体は大幅に増えて、週に最低一度は桝田さんや山根と会うのが当たり前になっていた。
というのも、桝田さんの要望の技術的に細かい部分を僕や山根が判断しなければいけない場合が増えてきたし、さらに辻野さんの絵コンテの仕様・キャラクタの仕様・戦闘関係などなど、ともかく技術的な(言い換えると広井さんは「お前らに任せたよ」という)コマゴマとした事を決めなければいけなくなっていたので、打ち合わせの回数が増えていたわけだ。

また開発用のオフィスも決まっていた。
当時、市ヶ谷にあった角川メディアオフィスの裏にあるビルの2階を1年借りて、そこで開発をすることになった。場所の広さなどは十分に思えたのだけど、途中からどえらいことになるのだけど、それは後の話。

そんなわけで実際に大人数のプログラマやアーティストを集め、開発をスタートする寸前で、90年は終わろうとしていたが…
この年、90年の終わりにあったレッドの忘年会での出来事を書いておきたい。
忘年会が、どこであったのか、正確な場所は残念ながら忘れてしまい、浅草は花屋敷の近くの宴会場だったということしか覚えていないのだけど、なんにしても当時のレッドの勢いを示すような大きな忘年会でレッドの百人以上のメンツが集まった忘年会だった。

そして横に誰が座っていたのか、自分ではさっぱり覚えておらず、またあらゆる人と挨拶しなくちゃいけなくて、顔も名前も覚えるのが苦手な僕は全くまいったのだけど…(相手はこっちを覚えているのに、こっちは相手を覚えてないことが多すぎる…)

そのエピソードは…あるイベント、そう忘年会という忘年会で行われるのではないか…と言いたくなる、あのイベントビンゴについてだ。
まあビンゴのルールなんてものを説明する必要はないだろうってことで無視するけれど、このときのレッドの忘年会でのビンゴの景品の一位は、実はちょっととんでもないことに…スーパーファミコンだったのだ。
と書いても、そのとんでもなさはわからないだろう。この忘年会はクリスマス前後に行われていたのだけど、このときのSFCの品薄ぶりはゲームボーイの比ではないほどで、プレイステーション1やプレイステーション2の比じゃないほどで、DSよりもスゴくて、ちまたでは完全売り切れ状態で、デパートから何から全く手に入らなくて、手に入れようとすればソフト?本との抱き合わせで買うぐらいしか方法がない状態だった。
つまり一位の賞品のSFCは持っていないどこの誰もが欲しくてしょうがない、スゴい景品だったのだ(ちなみに僕は編集部とハドソンの両方に頼んで2台手に入れていた。今から考えれば、なんてアコギな人間なんだと思うw)。

そして、ビンゴは驚くべき展開になった。
ぶっちゃけてしまえば、広井さんがぶっちぎりであっというまにビンゴを出し、あっというまにSFCをかっぱらっていったのだ。
次の瞬間、僕の横にいたAKさん(覚えているがあえて名前は伏せるw)が叫んだ。
「広井さん! 去年も一位もってったじゃないですか!」
その言葉を聞いた瞬間、広井さんはマイクを掴んで
「どうだ、悔しいか! 悔しければ俺より早くビンゴ出してみろ!」
そしてそれを聞いた山田真木が
「広井さん、運がいいんだよね~ビンゴとか、簡単に一位もってっちゃうから…」

僕は運だのなんだのと言うのは好きではない。
そんなものを信じていたら、自分の道を切り開けないと思っている。運が悪かったは無敵の言い訳なので、自分のミスや間違いを反省出来なくなってしまう。だいたい運って言葉を使うと、運命だのなんだのって未来が決まってる的な話になってきて、そして僕は未来はカケラも決まってないと思ってるので全く否定したい。
でも、不思議なことに世の中には、奇跡的な巡り合わせにある不思議な人がいるのは事実だ。
例えばWBCの決勝戦で一打で勝てるシーンで打順が回ってくるのを簡単に偶然とは言えない。誰かの付き添いでやってきた男の子がスターダムを駆け上がるのは不思議な巡り合わせ、としか思えない。

そして、今どきな言い方をするなら、広井さんがビンゴで1位をブチ当てたのを見たとき「持っている人だ」と思ったのだった。
と、こんなドタバタもありながらゲームの仕様はほとんど決まり、あとは俺たちがプログラムを組むだけだ…というところで、90年は暮れた。
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