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続・PCエンジンのCDROMのプロテクト
PCエンジンの著作権的プロテクトで書いたことで、勘違いされるかなあ…と思いながらも面倒くさいの説明しなかったことを勘違いしている人がいたり、あと質問が飛んできたり、他にわかったことがあるので続き。

■トラック2を再生するなというインフォメーションがトラック1に入っていたのは、なぜか?

PCエンジンCDROMの特徴としてよく言われるコレだが、当時はデータトラック…というかデータセクタをオーディオとして再生してしまうCDプレイヤーが普通にあったから。
そもそもCDROMは後付規格なので、規格制定より前に出来たCDプレイヤーは音楽CDしか想定していないので、全部CDオーディオだと信じて再生してしまう。だから間違ってCDROMを再生した人のために、本当に警告が必要だったのだ。なおデータセクタは原理的には再生機器が壊れる可能性があるシロモノで、実際に壊した人もいると聞いたが、残念ながらそれが本当かどうかはわからない。

余談を書くとCD-ROMやCD-Rが後付の規格だったことがCDという規格に様々な問題を引き起こしたので、DVDはかなり慎重に規格が策定されたが、書き換え可能メディアで問題が起こった。

■著作権的プロテクトがなぜ機能したか?

1988-89年当時はCDをカジュアルにコピーするなんてマネは不可能だったからだ。
PCエンジンCDROMの開発用のハードディスクが384メガバイト×2台で、ようやくCDROMの容量をフルに使えるようにするという仕様(そしてなんと768メガバイト版は1000万円)だ。
一般的なユーザーが使っていた普及帯のハードディスクの容量が20-40メガバイトの時代で、普通に買える限界のハードディスクが100メガバイト程度で約30万円とかなのだから、540メガバイトの容量を用意するだけで200メガバイト×3の構成とかになって100万円以上コースで、7つのSCSI IDのうち3つ消費する(ついでに書くと当時はまだビックリのお値段だったCDROMドライブも繋がなければならない) 。
もちろん、そんなバカでかいものを1ファイルとして扱うことも出来ないので、特殊なプログラムの自作が必要ってことになる。
おまけにCD-Rも登場しておらず、かつしばらくして登場したCD-Rも1枚数千円なんてメディアで、CD Writerも数十万円。これまたSCSIで接続して特殊なプログラムで書き込むなんて騒ぎになる。
540メガバイトのCDROMのコピーなんて普通の人がカジュアルに出来るわけもなく、容量そのものがプロテクトになった時代だったのだ。
だからCDROMがコピー出来ないように物理的なプロテクトしておこうなんて考える必要は一切なかった。
つまり、著作権的プロテクトは主にプロがNECやハドソンの許諾なくPCエンジンのゲームを製作するのを防ぐことを念頭に置いて作られているもので、今で言うディスクのコピーを防ぐためのものではないということだ。

そしてPS1では物理的なプロテクトが必要になっている。88年から94年の、たったの6年でそうなるんだからすさまじい。


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PCエンジンの著作権的プロテクト
年明けにtwitterでこんな質問が飛んできた。


2X年ぶりに、あーそいや、こんなものもあったなあということを説明したわけだけど、もうちょっと詳しくここで説明しておきたい。
まず原理的な話から。
当たり前だけどCDROMは、例えばROMの形を変形させるようなことは通常しない。正方形のCDROMなら作ることは出来るかもしれないが、まあ普通は作らないだろう。
次にCDROMの規格はフィリップス=ソニー(当時)によって物理的なフォーマットが規定されており、それから外れることは基本的に出来ない。
また当然ながらCDROMのマスターは、どこで作っても同じだ。
つまりCDROMは汎用品でプロテクトなどかけられないので、PCエンジンのCDROM BIOSをリバースエンジニアリングすれば、ハドソンやNECの許可無くPCエンジンCDROMのゲームを作ることが出来てしまうのだ。
(これはもちろん1988年の話を書いている)

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スプライトローテーション・その2
正しい呼び方があったわけでもないけれど、少なくとも僕はスプライトローテーションと呼んでいた技術について、ちょっと残しておこうというネタ。パート2である。多分これで終わりになる。
前回のを読んでおられない方は前回 の記事を読んでいただきたい。読まないと全くわからない話である。

ちなみにスプライトローテーションという言葉は、当時、ハドソンのエースプログラマの一人だった和泉さんが作った言葉ではないかという話を読者の方からいただいた。

前回の仮想ゲームマシン、ダメダメファミリーコンピュータ、略してダメコンが改良されてスーパーダメコンというのが登場したとしよう。
このスーパーダメコンは、なんとスプライトが5つ出せるようになった! …ということにしておく。
ところが、スプライトは一個増えたが、3つ以上が同じラインに並ぶとバッファ上の一番最後のスプライトが消えるのは変わらない…という状況だとしよう。
つまり表示能力は20%増しだが、スプライトの消える度合いは変わらないという、ダメなハードである。

で、この仮想ハードでは、前回のスプライトローテーションはマズいので、一工夫したほうが良くて、当時はそういう工夫を場合によってはソフト毎にやっていたのだ…というのが、今回の話になる。

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|| 19:12 | comments (1) | trackback (0) | ||

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スプライトローテーションという技術
正しい呼び方があったわけでもないけれど、少なくとも僕はスプライトローテーションと呼んでいた技術について、ちょっと残しておこうというのが、今回のネタ。
おっそろしく古臭いハードの、おっそろしく古臭い技術で、残しておいたから「どうだ」ということでも全くないが、まあ後世のエミュレータを調べた人たちが「なんでこんなワケのわからんことをしていたんだ?」という疑問からは脱出することが出来るだろう。

めんどくさいので、以下の簡単な前提。
スプライトは、1980年代前半~1990年代半ばまでゲームで幅広く中心的に使われたグラフィックのハードウェア(および一部ソフトウェア)技術。
だいたい8x8~64x64ドットの矩形で、画面の座標を指定したら、速攻その場所に異動して、背景画面を壊さなくて、書き換え負荷がない神様みたいなモノ。透明色があったので、背景との重ね合わせも超カンタンである。ちなみにスプライトの指定座標は画面より大きいことが多く、画面外から出し入れするのも難しくなかった。
初期段階からスプライト単位での上下・左右反転ぐらいは出来て、後期は回転・拡大・縮小が出来るのも当たり前になったのだけど、回転・拡大・縮小が出来るようになったのは、アーケードでも80年代後半~90年代で、家庭用ゲームマシンではPS/サターン世代までは実質的に登場しなかった。
ファミコンだのPCエンジンだのメガドラだのSFCあたりの世代のマシンでは、敵だの弾だのマイキャラだのといった画面の上で自由に動くものにともかく使われていた。
ついでに書くと3DO・PS1・サターン世代はフレームバッファ形式なので、今回書くラインバッファ方式のスプライトとは全く制限が違う。

余談ついでに書くとセガのバーチャファイター1とかサターンあたりのハードやFM-TOWNSあたりのポリゴンともスプライトとも言えない過渡期のハードでは、変形可能な(雑には4点が指定され、矩形の必要がないということ)4頂点 指定のスプライト(四角ポリゴン)だったりする。三角形と比較して、扱いやすいところと扱いにくいところがあるのだけど、全体としてはメリットよりデメリットのほうが大きいので主流にならなかった。
(三角形は2枚を組み合わせると四角に出来るが四角形を三角にすることが出来ないとか、四角形だとねじれる問題が発生するなんてあたりが結構決定的な要因のひとつ)


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1978年の"gosub hudson"
最近、知り合いから古いチラシなどをまとめてスキャンしたものをもらい、非常に資料性が高い内容なので、時間を見て、いろいろ紹介していきたい。

まず今回は個人的に一番資料性が高かった"gosub hudson"について。
"gosub hudson"は、1978年の多分初春~夏前ぐらいに配布された冊子だと思われる。
手元には8ページあるのだけど、これで全部かはわからない(多分全部だけど)。
これはハドソンがCQハドソン、つまりアマチュア無線を中心としたショップだった時代にマイコンショップを本格的にオープンした時に作られた冊子だ。
このハドソンのマイコンショップCOSMOS SAPPOROは当時平岸にあったCQハドソンの2階にあり、PET-2001、APPLE II、TK-80BS、LKIT-16といった、当時のメジャーどころのコンピュータを取り扱っていた(と資料からは読み取れる)。
このあと数年もしないうちに、僕の知っているハドソン、つまり三慶ビルの斜め前にある本社ビルの下に少しだけ場所を移転することになる。
ところでこの"gosub"ってのは何なのかというと、BASICで使われるサブルーチンの呼び出し命令。どうしてこんな名前なのかというと"CQハドソン"のサブなので"gosub"なんて意味じゃなかろうかと思う。
もちろん数年ほどで"CQ"よりパソコンの方が遥かに大きな売上になるわけだけど、このときは、まだ売上はCQハドソンの方が大きかったのではなかろうか。


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|| 18:34 | comments (0) | trackback (x) | ||

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