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1989年9月 - どっちがヒロインなのよ?
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかくこのあたりで作っていたパート、エンディングに関してだ。
イース1・2のエンディングはゲームのお話の終わりになっているビジュアルとスタッフロールの2段階になっているが、今回ネタにするのは、前者のほう。僕は前者をエンディング、後者をグランド・フィナーレとか呼んでいた。
これまた物議をかもして、21年前のゲームなのに、いまだもってこれがあるから許せないとか語る人が多いエンディングにまつわる話だ。

コンテはむろん言うまでもなく、あの山根ともおの作品だが、ほぼ山根に勝手にやらせたコンテだが、エンディングについては僕からの指定が2つあった。
一つめがPC版のエンディングの絵は全部いれること。つまりPC版のエンディングの絵が全部入っているコンテを書いてくれ、ということ。
ただしこれは山根は1枚だけ絵を切ってしまった。
それはフィーナが「お別れです」という1枚絵なのだが、山根は「「お別れはその前の二人だけのシーンで終わっているのに、もう一度お別れですというのは意味がない(ゴー)」と主張し、僕も「ああ、それは納得がいく」ということで削除になった。
【注】 この「お別れです」の代わりに玉が降りてくるシーンを山根は入れた。最初は乳首を書いてて「見えないからいいじゃないっすかゴー」とかいってたが、全くメモリの余力がなく、見えやしない乳首は抹殺された(笑)。


2つ目が、絵に関すること。
バギュ=バデット、つまり空に飛んだあとのイースの穴にもう一度イースが着陸している絵を入れてくれってことだ。


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1989年8月 - 不思議なメッセージ
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかく8-9月ともなると、ゲームの制作は最終段階に入りつつあった。

ザコ・ボスのバランスの調整、山根の書いてくるビジュアルデータを入れる - まだ8-9月あたりでは、エンディングとインターミッション(1と2の間のデモ)は完成していなかっし、エンディングも出来ていなかった - さらにテキストの直し、バランスの取り直し・ボスの作成、デバッグとてんてこまいだった。

正直、どれだけ人手があっても足りない状況で、僕は長山豊というハドソンにいた男をとっ掴まえて、テキストの直しを手伝ってもらうことにした。
スタッフロールのシナリオ再構成のところに名前が入っているスタッフだが、8月あたりから後、実質フルタイムで手伝ってもらったメンバーの一人だ。
スタッフロールに載っている人達は、当たり前のことながら全員仕事はしてもらっているわけだが、仕事量にはずいぶんばらつきはある。
例えばビジュアルの人手が足りなくて、久保君やらに無理矢理手伝ってもらったりしてはいたが、これはあくまで一時的に片手間で手伝ってもらったわけで、フルタイムで手伝ってもらったわけではない(アーティストは一時的に手伝ってもらった人は多い)。
フルタイムで手伝ってもらったのは、若い衆(芳賀・蛯名・佐橋・沢口・杉本)を除けば、途中からではあっても、長山君ぐらいだ。
【注】 ちなみに久保君は、クボキュウと呼ばれていたアーティストだが、自分の知っている中では、最もシャープなドットを置く2Dアーティストで、ドットだけなら山根よりすごいと思った。天外2でとっ捕まえて、一緒に仕事した。
あんまりドットがうまいもんで「ドットだけなら、山根よりうめえよな」と言ったら「失礼な! 俺の本当の実力を知りませんね、ゴー!」とか山根は言っていたが、本人もドットは久保君のほうが上だと思ってたようだ。



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1989年8月 - どうせ銀の装備なしには勝てんのだ
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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続くと前項で書いたけど、別に続けなくてイイヤと思ったので、やんぺ。

豪華声優と言われるイース1・2だが、決め方は簡単だった。
当時も、そして今もそうだが、僕はさっぱり声優さんとかわからない。また、アニメはいっぱい見るが「声」で覚えることはさっぱり出来ない。だから声優さんを選んでくれといわれると「あの作品のXXをやっていた人」という表現しか出来ない。
実は映画でもたいていそうでストーリーや場面は一度見たら30年経っても、セリフまでいえるぐらいだが「役者(の本名)および役名」は即忘れしてしまうことがほとんど。例えば「マスク」のジム・キャリーは一発で覚えたが、相手役の女の子が美人なのは覚えていたが、まさかそれがキャメロン・ディアスだったとか、そういうのが全然ダメ。「すげえ美人の金髪の女の子」としか言えない。

そんな余談はともかくとして、声優をまるで知らない人間が、声優さんをどんな風に決めたかと言うと、都合がいいことに、当時ハドソンの入っていたビルの1Fに大きなレンタルビデオがあった。そこでともかくアニメビデオを借りまくって、スタッフみんなで見まくってこれが良さそうという面子をかき集めたのだ。
【注】 そのレンタルビデオ屋のあった場所をストリートビューでチェックしたらドコモショップになっていた。Hahi君とやたらほっけ定食を食った定食屋もなくなっていた。諸行無常だ。

それでハドソン東京にリストを出したら、声優さんの所属プロダクションが複数あって調整が取れないから、青二プロダクションに一本化してくれ、と言われ、青二プロダクションの声優カタログがやってきた。
そこで「これが良さそう」と選んだメンツから、青二プロダクションに所属している人はそのまま決まりで、足りなくなった人を、またみんなでCD聞き倒して選んだだけだ。
【注】 声優カタログとは声優さんの顔写真や、やってきた仕事が収録され、一緒にCDが付属していて、ひたすら声優さんの自己紹介+演技(2分程度ある)が入っているという代物。今なら電子化されているのかも知れないが、当時はカタログがプロダクションからやってきた。青二プロダクションに統一してくれと言われた理由は不明。当時、ハドソンは東映と距離が近かったのかと思ったら、高橋名人の映画は東宝だし、Bugってハニーは東京ムービー新社。なんで青二プロダクションだったんだろう…



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1989年7月 - バランスを取り直しつつ、ボスの調整を始める(1)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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いろいろあって、えらく間が開いたけど、続き。

前回書いたとおり、イース1と2のレベルを統合すると決めた以上、バランスは完全に取り直さなければならなかったが、このときには「バランスを取り直すことが出来る」という自信はあった。

というのも、凄ノ王伝説で痛い目にあったあと、桝田さんと会って、結構長くつきあった結果、バランスの取り方にはっきりとした方針が出来上がっていたからだ。

凄ノ王伝説を作る前、自分はTRPGのゲームマスターなどをやっていたし、アマチュア時代に大量にゲームを作っていたこともあり、バランスを取れると思っていた。
だが、実際にRPGを作ってわかったことは「バランスの取り方なんざ、まるでわかっていなかった」ということだった。

デビュー作の凄ノ王の戦闘システムは、距離の概念のあるタクティカルコンバットで、おまけにプレイヤーのアクションが行動ポイント制のシステムだ。
当時主流だった対面型戦闘(DQ型)や、サイド型の戦闘(FF型)に不満を持つボードゲームユーザーが、当時のボードSLGやTRPGの戦闘システムを大いに参考にして自作したわけだが、ぶっちゃけ複雑すぎて、うまくコントロールできず、毎日AI(というほど複雑なものでもないが…)をいじり、バランスを調整し、四苦八苦して、正直、最後にはどうすりゃいいのかわからなくなっていた。
凄ノ王伝説のバランスについて、今の自分が評するなら「バランスが分からなくなったとき、簡単な方に調整した」のが唯一褒められるぐらいだ。
どうしてこれが褒められることなのかというと「難しい」と言われ、自分にはわからないときには簡単にすれば少なくともクリア出来る方向に進むが、そこで直さないと、クリア出来ない人が多い可能性が高いから。
本当はもっと正しい(みんなが楽しめる)方向があったわけだが、当時のボードSLGだのTRPGだのにガチガチで、ゲーム論的な話をすると「50歳にならんとする今より、遥かに柔軟性を欠いたゲーム論教条主義者だった自分」には直せなかったのは間違いない。
もちろん凄ノ王伝説は、僕の手を離れたゲームであり、世の中にはこのゲームを好きな人がいるのは分かっているが、当の本人にとっては自分の思い通りにならず、散々苦労した苦々しい思い出の多い作品だ。


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|| 22:15 | comments (0) | trackback (0) | ||

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1989年6月 - レベルを統合すると決める
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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これはイースを2つに分割するのか、それとも一本のゲームとしてまとめあげるのかの分水嶺になった、6月後半から7月頭のあたりでの話だ。

ある日、HaHi君が僕に聞いてきた。
「岩崎さん、1から2に行くときどうするの?」
「ああ、経験値どうするかってことね?」
「そうそう」
「経験値はひとつにまとめるよ。決めてる」
そのときまで黙っていたが、2本のゲームにするか、それとも1本にまとめるかはずっと考えていて、答えは既に出ていた。
「えっ!? じゃあイース2からははじめられないの!?」
「うん。HaHi君はどうするつもりだった?」
「いや、僕は2が始まるとき、1で終わったときの1/100とか経験値あげればいいと思ってたからさ」
「それ、ダメだよ、だってさ…」

というわけで、以下が当時、僕がHaHi君に言った理由。
言った内容はほぼ当時のままのはず。

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