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1990年8月 - 卍丸
7月頭に、初めてREDに行ってからあと、天外2のミーティングは週に一度のペースで、浅草REDで継続的に行われていた。

広井さんとあだちさんの監修の下で、だいたい毎週、桝田さんが新しい議題を提示し、各自が前回のミーティングで持ち帰った課題の解決案などを示して、それをまた枡田さんがまとめ、次のミーティングで説明すると同時にまた新しい議題を…とこんな方法でブレインストーミングとゲームデザインミーティングをまとめた形で進んでいた。

実際的なプロセスとしては、キャラクタ・ゲームシステムの枠作りなどを行い、国の数をきめ、1から引き継ぐ登場人物を決め…というように、まず大きな枠組みを決めた。これに2-3回、つまり1ヶ月弱かかったと記憶している。
ちなみにこの中で一番簡単に決まったのは国の数だった。なんせ西日本、九州と四国は使わない、そして当時の国の分け方…までは決まっていたので、ほとんど自動的に決まってしまったのだ。

この段階ではおおざっぱ以上のマップ/システムデザインなどは行っていない。というのもスーパーCDの最終的な仕様が決定していなかったので、容量計算が出来ないため、戦闘の計算式などの論理的な部分以外は決められない状態だったのだ。


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|| 20:26 | comments (8) | trackback (0) | ||

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補足(1):天外世界の創造者
コメントで質問された事には、あとで触れることも、今書いたほうがいいことも、いつ書くか迷うものもあるのだけど、いつ書くか迷うけど、といってほったらかしにしておくのも難しい事を補足、として付け加えながら書いていくことにした。
今回は『原作者』についてや、背景設定などについて。

公然の秘密だろうとなんだろうと、僕がかかわって20年経っていようと、ネタバレはネタバレだと思うので、以下続きにしておく。


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|| 21:20 | comments (8) | trackback (0) | ||

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1990年7月 - 浅草REDにて
1990年7月。夜7時。
当時、浅草にあったREDの4F。
僕は天外2の初めての打ち合わせに臨んでいた。
広井さんが手がけてきたビックリマンやらネクロスやらがそこらじゅうに転がっている中に応接セットがあり、その横にレーザーディスク(まだDVDはないよ)と、馬鹿でかいテレビ(当時としてはとても大きな多分32インチぐらいあるテレビだった)が置かれている打ち合わせスペースで、広井王子さんが、今でもトレードマークのサングラスをかけて、熱弁をふるっていた。
「今度の天外は、舞台は九州・四国を除いた、本州の西半分!」
「主人公は火の一族。三日月丸、少年剣士。敵は根の一族!」
「城の一つ一つが全部違ってさ、海に沈んでたり、山に隠れてたり、空とんだりする城があってさ…必殺剣でバンバンやっつける少年剣士の話がいいわけよ!」
と一通り、天外2の枠について、広井さんは10分ほども喋るとー
「まあ、そんな感じでさ、ゲームは桝田君に任せるから!」
といって、広井さんはでかくて黒い安楽椅子に座り込んだ。

天外2で広井さんが最初に言った三題噺は、桝田さんが面白おかしくPCエンジン版のマニュアルに書いていたけれど、本当に本当の話だった。広井さんが最初に決めた枠は、まさに「舞台は西日本、敵は根の一族で、少年剣士がバリエーション豊かな城で、必殺剣で敵をバンバン倒す」というものだった。



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|| 20:03 | comments (8) | trackback (0) | ||

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1990年6月 - CDROMを拡張する!?
イースの製作メモの最後で書いたが、天外2の開発を始めるからやってくれ…と話された後、中本さんとしばらく話し込んだ。
1990年半ばには、僕はフリーでの税金処理の面倒くささ(これも一度ブログで書きたい話だ)に参って、当時、角川メディアオフィスの編集長だった佐藤辰男さんの誘いを受けて、角川メディアオフィスの社員になっていた。

角川メディアオフィスは、角川歴彦氏によって創設された角川書店の子会社。この会社のメンバーの大半が3年ほどして、角川のお家騒動に巻き込まれる形でメディアオフィスを退社し、メディアワークスの創設に関わる事になる。
そしてこのメディアワークスが後に角川歴彦氏が角川書店に戻ることになり、最終的に角川の傘下に入る形になる。
このあたりのビックリな話も一度書いてみたいところだw

例によってどっかで食事して、そのあと飲んで…という流れだったはずだが、大雑把にはこんな内容だった。

「天外2をよぉ、作るとして、今のCDROMだとどうなんだべさ?」
「ビジュアルはイースと同じが上限。戦闘はノーアクセスは無理で、バックグラウンドリード必須。ちょっと豪華な天外1ですね」
「そんなもんか?」
「そんなもんですよ」
「だって」

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|| 19:25 | comments (3) | trackback (0) | ||

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1989年、天外1 PART2
1988年末、うっかりハドソンに催促の電話をかけたため、天外1の作り直しを頼まれ、いやなので値段を吹っかけたのに飲まれてしまって、天外1の作り直しをするハメになった桝田さんは何をやったのかというと…
僕が覚えている、桝田さんから聞いた催促の電話をしたときの話を書くと、結構な夜に電話がかかってきて、もちろんやりたくないので吹っかけた値段をいったところ「即答出来ないから一度話し合わせてくれ」と言われ、受けるわけないと思ったら、次の日だったかに電話がかかってきてオッケーになってしまった…という事だった。
勘違いを避ける為に書いておくと、1988年当時だから、電話がかかってきたのは当時桝田さんが住んでいた部屋の固定電話で携帯じゃない。携帯が普及をし始めるのは1994年以降と考えていい。あと、この当時はまだインターネットはなく、パソコン通信が急速に普及し始め、全盛時代に入っていくあたりになるのでメールでのやりとりなども一般的じゃない。


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|| 19:39 | comments (13) | trackback (0) | ||

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