2019-01-05 Sat [ レビュー::映画 ]
『フットルース(1984)』という映画がある。
僕が21歳の時の大ヒット映画だ。
僕は、この映画が好きだったのだけど、読み取っていた物語はこうだった。
つまりレンに肩入れして、レンが不条理な大人から自由を勝ち取る物語として見ていた。
当時の金欠な僕はもちろんLDやビデオなど買えるわけもなく、また好きではあったがシブい(なかなかすかっとしないとでもいおうか)映画という印象があり、どうせ買うなら"STUDENT BODIES"なんてC級ホラー映画の方が僕にはたまらず、結局のところロードショーで一度見ただけで(連続で2回見た記憶がある。入れ替えのない当時ならではだ)、また2番館や名画座に落ちてくるより前に、自分が就職してしまったのもあり、二度と見る機会がなかった。
テレビやいろんなもので放映があったのは間違いないが、これがまたどういうわけか見なかった。
そして、三十年以上が過ぎ、たまたま仕事でノイズが欲しいって話になり『フットルース』を流した。
三十数年ぶりの『フットルース』はどうだったのか?
ケビン・ベーコンのキレッキレだと思っていたダンスより、実は周りのトッポイにいちゃんや、他の友達の方がどう見てもダンスがうまいとか、いろいろ驚いた。
でも、なにより本当に驚いたのは、自分のストーリーの読み取り方が全く変わっていたことだった。
それを説明するために、ネタバレなのだけど、ストーリー全体の構造を説明したい。
これじゃあ牧師がダンスを禁止したくなるのもわかる。
さらに期待をかけていた息子の死で、牧師は頑なになり、娘に対しても猛烈に冷たい扱いをしている。
だから娘はまるで自殺衝動にかられているように破滅的な遊びを繰り返している。
しかも牧師は町のリーダーで、みんなから尊敬されている人なので、自分の後悔をうまく昇華して、町の大人に対して説得力ある形で「子供が堕落しないようにダンスを禁止する」と言っているのだ。
こういう状況の町にやってきたのがレンだ。
レンは、町とのしがらみがなく過去を知らないまま、牧師の娘と仲良くなり、結果的に牧師と衝突することになる。そしてなぜ牧師が頑なで、そして娘とうまくいっていないのかをうすうす察したレンは、牧師を一番納得させることができる聖書で「寛容であるべきだ」という。
牧師は考えた結果、それを受け入れ、ダンスを許可する。
そしてまた、死んだ息子と娘を比較するのをやめ、娘と向き合い和解する。
つまり僕にとっての二度目の『フットルース』は、確かにケビン・ベーコンは主役なのだけど、それはあくまで表の主役で、ケビン・ベーコンは実は狂言回しでしかなく、本当のストーリーは「息子が死んだことで頑なになり、町全体を息苦しくし、娘との関係も破たんしていた牧師が、町にやってきたよそ者レンに説得され、寛容になろうとし、娘と和解する」だと思ったのだ。
もちろんストーリーは同じで、それをレン側から見るのか、それとも牧師側から見るのかという話でしかないのだけど、今の僕は、牧師側から見た方が面白いとはっきりと感じた。
それに最後のダンスシーンの前に置かれている、牧師と奥さんがレン達が踊っているところを見つからないように遠くからそっと見るシーン(またここで牧師に喋る旧友がいい)が、映画の関係性を全部まとめていて着地させていて、そのあとはただのエピローグでしかないので、僕はますます牧師に肩入れしてしまうわけである。
まあそれも、このシーンの直後に伏線の回収ためだけヒロインと付き合っていたダメ男がレンに叩きのめされるために出てくるシーンがあまりに雑でひどいので、ますますそういう印象になっているのだけどw
三十数年前の僕は若く、父から家業を継げという強い圧力を受け、かつ父の気持ちもわかりはしたので、歯科大学に入ったが、歯科医という職業にどうしてもコンピュータほどの情熱を注ぐことができず、でも大学の勉強はまあまあ面白く、アンビバレンツな気持ちになりながら『フットルース』を見たわけで、そりゃあ不条理な大人から自由を勝ち取るレンに肩入れをして喝采をしていたのもわかる。
そして今、もう一歩後ろに引いて俯瞰して、全体のストーリーを見られるようになり、もうちょっと面白く映画を見られるようになったんだなと思ったのであった。
ところで、上のパッケージの写真だけどウォークマンを腰にぶら下げてヘッドフォンをかぶっているって恰好自体が、時代ですよねw
映画は時間をおいて見直すと楽しいよ、うん。
僕が21歳の時の大ヒット映画だ。
僕は、この映画が好きだったのだけど、読み取っていた物語はこうだった。
ケビン・ベーコン演ずるレンが、田舎の町でダンス禁止なんて理不尽な制約を課している大人たちに、最初は孤独だったが、だんだんと仲間を集め、 そして聖書の教えを利用して、ダンスする権利を勝ち取る
つまりレンに肩入れして、レンが不条理な大人から自由を勝ち取る物語として見ていた。
当時の金欠な僕はもちろんLDやビデオなど買えるわけもなく、また好きではあったがシブい(なかなかすかっとしないとでもいおうか)映画という印象があり、どうせ買うなら"STUDENT BODIES"なんてC級ホラー映画の方が僕にはたまらず、結局のところロードショーで一度見ただけで(連続で2回見た記憶がある。入れ替えのない当時ならではだ)、また2番館や名画座に落ちてくるより前に、自分が就職してしまったのもあり、二度と見る機会がなかった。
テレビやいろんなもので放映があったのは間違いないが、これがまたどういうわけか見なかった。
そして、三十年以上が過ぎ、たまたま仕事でノイズが欲しいって話になり『フットルース』を流した。
三十数年ぶりの『フットルース』はどうだったのか?
ケビン・ベーコンのキレッキレだと思っていたダンスより、実は周りのトッポイにいちゃんや、他の友達の方がどう見てもダンスがうまいとか、いろいろ驚いた。
でも、なにより本当に驚いたのは、自分のストーリーの読み取り方が全く変わっていたことだった。
それを説明するために、ネタバレなのだけど、ストーリー全体の構造を説明したい。
●どうして町でダンスが禁止されていたのか?
〇牧師(当時の僕は悪役とみていた町のリーダー)が禁止していたからだ。
●なぜ牧師が禁止していたのか?
5年前に、牧師の息子が隣町でダンスして酒飲んで、5人で車に乗って帰ってくる途中の橋で水の中に落ちて全員死んだからだ。
〇牧師(当時の僕は悪役とみていた町のリーダー)が禁止していたからだ。
●なぜ牧師が禁止していたのか?
5年前に、牧師の息子が隣町でダンスして酒飲んで、5人で車に乗って帰ってくる途中の橋で水の中に落ちて全員死んだからだ。
これじゃあ牧師がダンスを禁止したくなるのもわかる。
さらに期待をかけていた息子の死で、牧師は頑なになり、娘に対しても猛烈に冷たい扱いをしている。
だから娘はまるで自殺衝動にかられているように破滅的な遊びを繰り返している。
しかも牧師は町のリーダーで、みんなから尊敬されている人なので、自分の後悔をうまく昇華して、町の大人に対して説得力ある形で「子供が堕落しないようにダンスを禁止する」と言っているのだ。
こういう状況の町にやってきたのがレンだ。
レンは、町とのしがらみがなく過去を知らないまま、牧師の娘と仲良くなり、結果的に牧師と衝突することになる。そしてなぜ牧師が頑なで、そして娘とうまくいっていないのかをうすうす察したレンは、牧師を一番納得させることができる聖書で「寛容であるべきだ」という。
牧師は考えた結果、それを受け入れ、ダンスを許可する。
そしてまた、死んだ息子と娘を比較するのをやめ、娘と向き合い和解する。
つまり僕にとっての二度目の『フットルース』は、確かにケビン・ベーコンは主役なのだけど、それはあくまで表の主役で、ケビン・ベーコンは実は狂言回しでしかなく、本当のストーリーは「息子が死んだことで頑なになり、町全体を息苦しくし、娘との関係も破たんしていた牧師が、町にやってきたよそ者レンに説得され、寛容になろうとし、娘と和解する」だと思ったのだ。
もちろんストーリーは同じで、それをレン側から見るのか、それとも牧師側から見るのかという話でしかないのだけど、今の僕は、牧師側から見た方が面白いとはっきりと感じた。
それに最後のダンスシーンの前に置かれている、牧師と奥さんがレン達が踊っているところを見つからないように遠くからそっと見るシーン(またここで牧師に喋る旧友がいい)が、映画の関係性を全部まとめていて着地させていて、そのあとはただのエピローグでしかないので、僕はますます牧師に肩入れしてしまうわけである。
まあそれも、このシーンの直後に伏線の回収ためだけヒロインと付き合っていたダメ男がレンに叩きのめされるために出てくるシーンがあまりに雑でひどいので、ますますそういう印象になっているのだけどw
三十数年前の僕は若く、父から家業を継げという強い圧力を受け、かつ父の気持ちもわかりはしたので、歯科大学に入ったが、歯科医という職業にどうしてもコンピュータほどの情熱を注ぐことができず、でも大学の勉強はまあまあ面白く、アンビバレンツな気持ちになりながら『フットルース』を見たわけで、そりゃあ不条理な大人から自由を勝ち取るレンに肩入れをして喝采をしていたのもわかる。
そして今、もう一歩後ろに引いて俯瞰して、全体のストーリーを見られるようになり、もうちょっと面白く映画を見られるようになったんだなと思ったのであった。
ところで、上のパッケージの写真だけどウォークマンを腰にぶら下げてヘッドフォンをかぶっているって恰好自体が、時代ですよねw
映画は時間をおいて見直すと楽しいよ、うん。
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