2018-01-20 Sat [ 昔のこと::ハドソン関係 ]
facebookである方が質問を投げてきた。
で、まず最初に自分の記憶を書いたのだけど、書いてからいろいろとワケがわからないところだらけなことに気が付いた。
で、不思議になって元ハドソンのみなさんに確認したところ、わかったことを以下に書いておきたい。
なお、今回の話は大枠は正しいと思われるが、まだわからないところがあるので、修正するところが出てくるかもしれない。
また、名前については書いていいかわからないところは、30年以上前の古い話なので出してもいいと思うのだけど、いろいろ驚くような話が出てきたので、ちょっと伏せさせていただく。
話は、PCエンジンの発売以前のハードを開発していた時代に、つまり87年以前から始まる(多分85年末あたり)。
PCエンジンのハード開発が始まったとき、LSIを生産したのはセイコーエプソンで、ゲームマシンとして仕上げたのはNECというのは、よく知られた歴史だと思う。
だが、驚くことにそれより前に、あるメーカー(ここではA社としておく)と組んでチップ開発が行われていて、A社とハドソンが共同してビデオチップの評価用ブレッドボードを作るところまで進んでいたというのだ(ブレッドボードがどんなもんかは、検索でもしてみて欲しい)。
これはPCエンジンの歴史に一度も出たことがない話でビックリしてしまったのだけど、教えてくれた人にウソをつく必要があるわけないので、勘違いでなければ事実だと思う。
そしてビデオチップの評価用のブレッドボードが出来たので、スプライトのテストで沢山スプライトが出るものが必要だというので、移植されたのが『ダーウィン4078』。
つまり『ダーウィン4078』はA社とハドソンが共同して作ったブレッドボード、いわば前々PCエンジンで動いていたゲームで、少なくとも今にダイクレトに繋がるPCエンジンの上で動いていたソフトではないということだ。
『ダーウィン4078』は1986年のゲームだ。だから、このブレッドボードは早くとも86年の話になり、A社ではなくチップの製造をセイコーエプソンに切り替えたのは、このダーウィンの移植…というか、ダーウィンテストと呼んでおきたいが、それのあとということになる。
では移植…と呼んでいいのか微妙だけど、ともかく移植はどこで行われたのか?
当時はまだハドソン東京にもゲーム開発があり、そこで二人のメインプログラマ+一人のお手伝いで行われた。
メインの二人の方は、主にハドソンのビジネス/ハード系にいたプログラマの方だそうだが、僕は一度も会ったことがない人で、名前を出していいかどうかもわからないので、現時点では名前は伏せておく。
移植のベースになったのはアーケード版と思われる。
1987年にハドソンからMSX2版の『ダーウィン4078』を出す関係だったのか、当時アーケードの筐体がハドソン東京に置かれていたとのこと+多分資料もあったと思われるので、これは推測だけど間違いはないと判断している。
つまり、流れとしては、ブレッドボードが出来る →スプライトのテストにゲームを移植しよう(アーケードの移植という判断は全く理解できる) →たまたまMSX2への移植の都合であったのが『ダーウィン』だったということだ。
どの程度まで移植されていたのか?
と、こんな感じだったらしい。
このあと、何があったのかはよくわからないのだけど、チップ生産をするのがA社からセイコーエプソンに変わる。
そして、PCエンジンは発売され、この発売とほぼ同時期にハドソンはゲーム開発を北海道の札幌に集中させる。
ところが、ここから先に困った話が出てくる。
『ダーウィン4078のCD-ROM用と称したデモ版』がショーに出展されるのだ。
僕が最初に聞かれて思い出したのはコレについてだった。しかも、これは僕以外にも見た人がいて、プレイもされているので、実在を疑う理由はない。以下はプレイした方の記憶。
これが理由で『ダーウィンは完成した』という伝説が出来上がっているのかな…と思うのだけど、現実はどうだったのか?
この段階では、ほぼ間違いなくテストプログラムとしての役割を終え、放棄されていたと思う。
というのも、仮に移植を完成させるつもりなら、88年に北海道札幌に行ったとき見ているはずなのに、少なくともPCエンジンのCDROM版もROM版も僕は一度もハドソン北海道で見たことはない。
また当時のハドソン札幌で作っていたのは(88年)、社内のラインだけで『天外1』(三上君)、『定吉7』(川口さん)、『パワーリーグ』(奥野さん)、『ネクタリス』(和泉さん)、外注も加えての『凄ノ王伝説』、『NoRiKo』、『ファイティングストリート』、さらに加えてファミコンの初代『桃太郎電鉄』(飛田さん)など。
どう見ても目いっぱいだ。
結局、前ブレッドボード上のテストプログラムとしてPCエンジン版『ダーウィン』はその生涯を終えたのだと、僕は推測している。
また、何かわかったら追加したい。
MSX2にしか移植されていない不遇のDECOの名作シューティング『ダーウィン4078』。
たまたまググったら、こちらのサイトに
「ハドソンによるPCエンジンへの移植版が制作されており、完成までこぎつけたものの諸事情でお蔵入りになってしまった。」
との気になる記述を見つけてしまったのですが、ホント!?
完成してたのに!? DECOが止めるの!? 『モンスター・レアー』も発売していたハドソンなのに?
ということでハドソンの裏話と言えば 岩崎 啓眞 (Hiromasa Iwasaki)さん、ご存じありませんか(笑)。
たまたまググったら、こちらのサイトに
「ハドソンによるPCエンジンへの移植版が制作されており、完成までこぎつけたものの諸事情でお蔵入りになってしまった。」
との気になる記述を見つけてしまったのですが、ホント!?
完成してたのに!? DECOが止めるの!? 『モンスター・レアー』も発売していたハドソンなのに?
ということでハドソンの裏話と言えば 岩崎 啓眞 (Hiromasa Iwasaki)さん、ご存じありませんか(笑)。
で、まず最初に自分の記憶を書いたのだけど、書いてからいろいろとワケがわからないところだらけなことに気が付いた。
で、不思議になって元ハドソンのみなさんに確認したところ、わかったことを以下に書いておきたい。
なお、今回の話は大枠は正しいと思われるが、まだわからないところがあるので、修正するところが出てくるかもしれない。
また、名前については書いていいかわからないところは、30年以上前の古い話なので出してもいいと思うのだけど、いろいろ驚くような話が出てきたので、ちょっと伏せさせていただく。
話は、PCエンジンの発売以前のハードを開発していた時代に、つまり87年以前から始まる(多分85年末あたり)。
PCエンジンのハード開発が始まったとき、LSIを生産したのはセイコーエプソンで、ゲームマシンとして仕上げたのはNECというのは、よく知られた歴史だと思う。
だが、驚くことにそれより前に、あるメーカー(ここではA社としておく)と組んでチップ開発が行われていて、A社とハドソンが共同してビデオチップの評価用ブレッドボードを作るところまで進んでいたというのだ(ブレッドボードがどんなもんかは、検索でもしてみて欲しい)。
これはPCエンジンの歴史に一度も出たことがない話でビックリしてしまったのだけど、教えてくれた人にウソをつく必要があるわけないので、勘違いでなければ事実だと思う。
なおハドソンの社内でブレッドボードを作っていた記憶がないので、A社に行って作っていたのではないか? と証言はされている。
そしてビデオチップの評価用のブレッドボードが出来たので、スプライトのテストで沢山スプライトが出るものが必要だというので、移植されたのが『ダーウィン4078』。
つまり『ダーウィン4078』はA社とハドソンが共同して作ったブレッドボード、いわば前々PCエンジンで動いていたゲームで、少なくとも今にダイクレトに繋がるPCエンジンの上で動いていたソフトではないということだ。
追記しておくと、このブレッドボードに繋がれていたCPUはなんだったのかとか、サウンドチップはどうなっていたんだとか、全く不明だが、A社と共同で作業をしていたとはいえ、主な設計をしていたのはハドソンのチップ担当者(山村さん)なので、製品のPCエンジンに近い構成ではあったと思われる。
『ダーウィン4078』は1986年のゲームだ。だから、このブレッドボードは早くとも86年の話になり、A社ではなくチップの製造をセイコーエプソンに切り替えたのは、このダーウィンの移植…というか、ダーウィンテストと呼んでおきたいが、それのあとということになる。
では移植…と呼んでいいのか微妙だけど、ともかく移植はどこで行われたのか?
当時はまだハドソン東京にもゲーム開発があり、そこで二人のメインプログラマ+一人のお手伝いで行われた。
メインの二人の方は、主にハドソンのビジネス/ハード系にいたプログラマの方だそうだが、僕は一度も会ったことがない人で、名前を出していいかどうかもわからないので、現時点では名前は伏せておく。
移植のベースになったのはアーケード版と思われる。
1987年にハドソンからMSX2版の『ダーウィン4078』を出す関係だったのか、当時アーケードの筐体がハドソン東京に置かれていたとのこと+多分資料もあったと思われるので、これは推測だけど間違いはないと判断している。
つまり、流れとしては、ブレッドボードが出来る →スプライトのテストにゲームを移植しよう(アーケードの移植という判断は全く理解できる) →たまたまMSX2への移植の都合であったのが『ダーウィン』だったということだ。
どの程度まで移植されていたのか?
・自キャラが進化して大きな火の鳥になる部分、敵の出現、当たり判定などはできていた。←追記。大きな火の鳥はブラックディームの記憶違いと思われる。
・何面まであったかは不明。
・音は開発後半にse程度が出ていた程度(出ていたかどうかも不明なのだけど、聞いたような…と言っている人がいる)。
・クオリティ的には「テストプレイ」レベルだったとプレイした人の証言がある。
・何面まであったかは不明。
・音は開発後半にse程度が出ていた程度(出ていたかどうかも不明なのだけど、聞いたような…と言っている人がいる)。
・クオリティ的には「テストプレイ」レベルだったとプレイした人の証言がある。
と、こんな感じだったらしい。
このあと、何があったのかはよくわからないのだけど、チップ生産をするのがA社からセイコーエプソンに変わる。
そして、PCエンジンは発売され、この発売とほぼ同時期にハドソンはゲーム開発を北海道の札幌に集中させる。
ところが、ここから先に困った話が出てくる。
『ダーウィン4078のCD-ROM用と称したデモ版』がショーに出展されるのだ。
僕が最初に聞かれて思い出したのはコレについてだった。しかも、これは僕以外にも見た人がいて、プレイもされているので、実在を疑う理由はない。以下はプレイした方の記憶。
記憶ベースでしかないのですが、私、大きなショー(おそらくマイコンショー)でCD-ROM用と称したデモ版(まだまだ完成には遠そうなバージョン)をプレイした覚えがあります。ただそのタイミングではPCエンジン本体は発売後だったという記憶です。
毛利名人がプレイしていてブラックディームへの逆進化がわからないようでしたので、僭越ながらアドバイスしたという不思議な記憶もあります(当時1000万点プレーヤーでした)。
毛利名人がプレイしていてブラックディームへの逆進化がわからないようでしたので、僭越ながらアドバイスしたという不思議な記憶もあります(当時1000万点プレーヤーでした)。
これが理由で『ダーウィンは完成した』という伝説が出来上がっているのかな…と思うのだけど、現実はどうだったのか?
この段階では、ほぼ間違いなくテストプログラムとしての役割を終え、放棄されていたと思う。
というのも、仮に移植を完成させるつもりなら、88年に北海道札幌に行ったとき見ているはずなのに、少なくともPCエンジンのCDROM版もROM版も僕は一度もハドソン北海道で見たことはない。
また当時のハドソン札幌で作っていたのは(88年)、社内のラインだけで『天外1』(三上君)、『定吉7』(川口さん)、『パワーリーグ』(奥野さん)、『ネクタリス』(和泉さん)、外注も加えての『凄ノ王伝説』、『NoRiKo』、『ファイティングストリート』、さらに加えてファミコンの初代『桃太郎電鉄』(飛田さん)など。
どう見ても目いっぱいだ。
結局、前ブレッドボード上のテストプログラムとしてPCエンジン版『ダーウィン』はその生涯を終えたのだと、僕は推測している。
また、何かわかったら追加したい。
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