2017-09-17 Sun [ 昔のこと::ハドソン関係 ]
天外1、天外Ⅱでスタッフだった荒井君(Ⅱでは僕も仕事をしている)という人がいるのだけど、彼がとてもいい追加情報をくれたので、ちょいと追加しておきたい。
もう中本さんのセリフに思わず「エーッ」って笑っちゃったのだけど、それはともかくとして。
中本さんの言っていた理由は、どう考えても後付けだと思うのだけど(だいたい「本当かい、中本さん?」って突っ込みたくなる)、なんにしても新人研修の時にそう吹かしていたってのは面白い。
ところでfacebookでも、野沢さんがこのあとで突っ込んでいるのだけど、後ろに書いている弁当箱だのおかもちだのは、開発者の間での通称でコードネームではない。
ただ、この通称にはウソも偽りもなくて、まあひどいネーミングだと思うのだけど、確かに僕も「墓石」だの「弁当箱」だの言っていた。
あと、この記事とはあんま関係ないのだけど「おかもち」がどんなものだったのかブログに入れたくて、資料探しをしているときに見つけたCD-ROM発売時の動画(LINK)なのだけど、ここに当時、平岸の三慶ビルにあったハドソン技術部(ゲームを作っていた場所)が撮影されていて、これがスバラシイ。
撮影時期がかなり正確に計算出来て、CDROMが発売されて、かつスペースハリアーを遊んでいるので1988年12月以降。
コブラを作っていて、フロアの真ん中あたりにアルファの連中の机が置かれていないので(そこでNORIKOとファイティングストリートが開発されていた)ので1989年初頭で、なおかつ進藤司がしゃべっている天外1の仕様が桝田さんが全面修正する前のものなので、多分1月前半(僕の机の横にCDROMエミュレータがないので、1989年3月より前なのは絶対)。
つまりこのビデオは1989年1月に撮影されたものだと思われる。
で、上の動画途中の画像の中央にある紙だらけの汚い机が、1988-89年ごろに僕が仕事をしていた机。後ろにある椅子がHaHi君が仕事をしていた所。
奥に見える3人は、手間がウリ坊と呼ばれていたアーティスト。奥が兄やん。
二人は兄弟。30年兄弟だと信じていたが、違ったらしい。なんてことだw
真ん中でしゃがんでいる人が山本さん。『ドラえもん』でヒゲを3本にしてくれと言われて泣き、『ミッキーマウス』でディズニーの要求に死にそうになったアーティストの方で、ハドソンで最初にアーティストと呼ばれた方、二人のうち一人。
89年の7月頃に部内で引っ越して場所が変わったのだけど、それまではここで仕事をしていた。
ほとんど30年前の開発ルームがこうして記録として残っていることに、ちょっと感動してfacebookに書いたら、久保久(クボキュウと呼ばれていたアーティスト。シャープなドットを打つアーティストで、天外Ⅱでメインで仕事をしてもらっている)曰くーー
まあ、当時は…今もそうだけど、 ゲームを作るのが楽しくてしょうがなくて、毎日会社で寝泊まりしていてもなんとも思わなかった。
今の感覚からするとスーパーブラックだが、毎日会社にあるコンピュータでゲーム作りながら、会社のファミコンで、PCエンジンで、PCで、会社が買った資料のゲームを片っ端から遊びまくり、さらに企画にやってくる外注さんの新しいPCエンジンのゲームを遊びまくり、まるで文化祭の準備のような生活を毎日していて、それだけで幸せだったのだ。
それだけ情熱を傾けられる仕事だということにしておきたい。
だが、今の目から見ると効率の悪い仕事をしてたんだろうなあと思うし、今、僕が上司なら「帰れ!」と間違いなく言うと思うのもまた事実なのだ。
新人研修の時に中本さんが7UPは南米でスプライトより売れてるから付けたと豪語してたのを覚えています。
この手のネーミングセンスは微妙なものは多かった気がするけど…
PC-Eの開発機は"弁当箱"だったし、CDROM開発用のオプションは"おかもち"だし、CDROMのHDは"墓石"、"墓石2"、"骨箱"。
スーファミは"ガンダムの足"、N64は"タンス"。
この手のネーミングセンスは微妙なものは多かった気がするけど…
PC-Eの開発機は"弁当箱"だったし、CDROM開発用のオプションは"おかもち"だし、CDROMのHDは"墓石"、"墓石2"、"骨箱"。
スーファミは"ガンダムの足"、N64は"タンス"。
もう中本さんのセリフに思わず「エーッ」って笑っちゃったのだけど、それはともかくとして。
中本さんの言っていた理由は、どう考えても後付けだと思うのだけど(だいたい「本当かい、中本さん?」って突っ込みたくなる)、なんにしても新人研修の時にそう吹かしていたってのは面白い。
ところでfacebookでも、野沢さんがこのあとで突っ込んでいるのだけど、後ろに書いている弁当箱だのおかもちだのは、開発者の間での通称でコードネームではない。
ただ、この通称にはウソも偽りもなくて、まあひどいネーミングだと思うのだけど、確かに僕も「墓石」だの「弁当箱」だの言っていた。
あと、この記事とはあんま関係ないのだけど「おかもち」がどんなものだったのかブログに入れたくて、資料探しをしているときに見つけたCD-ROM発売時の動画(LINK)なのだけど、ここに当時、平岸の三慶ビルにあったハドソン技術部(ゲームを作っていた場所)が撮影されていて、これがスバラシイ。
撮影時期がかなり正確に計算出来て、CDROMが発売されて、かつスペースハリアーを遊んでいるので1988年12月以降。
コブラを作っていて、フロアの真ん中あたりにアルファの連中の机が置かれていないので(そこでNORIKOとファイティングストリートが開発されていた)ので1989年初頭で、なおかつ進藤司がしゃべっている天外1の仕様が桝田さんが全面修正する前のものなので、多分1月前半(僕の机の横にCDROMエミュレータがないので、1989年3月より前なのは絶対)。
つまりこのビデオは1989年1月に撮影されたものだと思われる。
で、上の動画途中の画像の中央にある紙だらけの汚い机が、1988-89年ごろに僕が仕事をしていた机。後ろにある椅子がHaHi君が仕事をしていた所。
奥に見える3人は、手間がウリ坊と呼ばれていたアーティスト。奥が兄やん。
真ん中でしゃがんでいる人が山本さん。『ドラえもん』でヒゲを3本にしてくれと言われて泣き、『ミッキーマウス』でディズニーの要求に死にそうになったアーティストの方で、ハドソンで最初にアーティストと呼ばれた方、二人のうち一人。
89年の7月頃に部内で引っ越して場所が変わったのだけど、それまではここで仕事をしていた。
ほとんど30年前の開発ルームがこうして記録として残っていることに、ちょっと感動してfacebookに書いたら、久保久(クボキュウと呼ばれていたアーティスト。シャープなドットを打つアーティストで、天外Ⅱでメインで仕事をしてもらっている)曰くーー
まあ、当時は…今もそうだけど、 ゲームを作るのが楽しくてしょうがなくて、毎日会社で寝泊まりしていてもなんとも思わなかった。
今の感覚からするとスーパーブラックだが、毎日会社にあるコンピュータでゲーム作りながら、会社のファミコンで、PCエンジンで、PCで、会社が買った資料のゲームを片っ端から遊びまくり、さらに企画にやってくる外注さんの新しいPCエンジンのゲームを遊びまくり、まるで文化祭の準備のような生活を毎日していて、それだけで幸せだったのだ。
それだけ情熱を傾けられる仕事だということにしておきたい。
だが、今の目から見ると効率の悪い仕事をしてたんだろうなあと思うし、今、僕が上司なら「帰れ!」と間違いなく言うと思うのもまた事実なのだ。
コメント
当該記事とは関係ないですが、このブログでPCエンジン関連ネタとして話が出ていた斉藤由貴さんが…
酒井法子とはまた別のベクトルで「今をときめく」人になってしまいましたね…
酒井法子とはまた別のベクトルで「今をときめく」人になってしまいましたね…
| 通りすがり | EMAIL | URL | 17/09/21 01:14 | NgT9rM8g |
ごめん(;´Д`)
3人目はさっぱり覚えてないわ…
3人目はさっぱり覚えてないわ…
| いわさき | EMAIL | URL | 17/09/18 12:19 | aJX35.5k |
さらに兄やんさんオンジさんの下に後からオんジオンジ
さん3人目もいました桑原3兄弟です
さん3人目もいました桑原3兄弟です
| るら坊 | EMAIL | URL | 17/09/18 10:19 | PW5cCSIU |
30年兄弟だって信じ込んでたよ!
つまり、兄やんの兄弟はいたけれど、それはウリ坊じゃなくて、オンジだったんだw
オンジは覚えてるよw
つまり、兄やんの兄弟はいたけれど、それはウリ坊じゃなくて、オンジだったんだw
オンジは覚えてるよw
| いわさき | EMAIL | URL | 17/09/17 16:52 | aJX35.5k |
他から突っ込みがくるかもしれませんが、ウリ坊と兄やんは兄弟ではないですよ。
兄やんの弟は当時オンジと呼ばれてた方です。
オンジは北海道方言で弟って意味ですね。
オンジはTHE功夫でキャラおよび前回話題になったウーロン茶POWを描いてました。
兄やんの弟は当時オンジと呼ばれてた方です。
オンジは北海道方言で弟って意味ですね。
オンジはTHE功夫でキャラおよび前回話題になったウーロン茶POWを描いてました。
| せせせ | EMAIL | URL | 17/09/17 16:14 | z1MkW6jM |
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