2015-07-04 Sat [ ゲームについて::理屈のこと ]
最近、ゲーム業界の連中で飲み会をしたとき、若いゲームデザイナー(企画者)がやらかすミス…つまりあるあるの話になって
というネタになり「あー俺はそれで社内のレビューで死んだ」だの「俺はさんざんだった」だので、みんなで笑い転げていた。
もちろん、僕もやった。
自分のプロのデビュー作の『凄ノ王伝説』は、まさしく「僕のさいきょーRPG」だった。
ただあるあると、少し違うのが売上と評価で、ラッキーなことに、当時(1988-89)はRPGブームのどまんなかで、しかもまだまだRPGは黎明期で、(ありがたいことに!)質も高くなく、そしてとりわけPCエンジンではRPGが少なかったのもあり、それなりの評価はもらえたし、売上もそれなりは出た(らしい)…とはいっても、出来たゲームそれ自体は、俺のさいきょーゲームでしかなかったのは間違いなく、ほんの少しあとに出たとか、ハドソン以外から出たとか、ちょっと条件が悪くなっただけで、売れなくなった作品だと思っている。
どうしてそんなことをやってしまうのか?
答えはとても簡単だと思っている。
ゲームを作ろうとする、作りたい人間がゲームの事を何も知らないなんてありえない。
だから「俺の考えた理想の(新しい)ゲームを作って、世に問いたい」となる。
ここまでは問題ない。
ところが当たり前だけど、世の中の一般の人はそんなに沢山ゲームをやっていない。だから、そもそも何が新しいのかも知らないし、仮に知っていても、別に新しいことをしたくない人も多い。一般的な配置から合理的な配置だと自分が思ったモノにメニューやボタンの配置を変えるだけで、バラバラ離脱が起きる世界なのだ。
つまり、たいていの場合新しいことは、市販されるゲームを作る上では、強力な武器とは言いがたいことが多い。
もちろん、新規性が売れ行きと評価のどちらにも繋がる例はあるけれど、それはマレな例で、たいていは無惨な失敗に終わることとなる。
第二に、第一の理由と似ているけれど、ちょっと違う内容。
自分の好きなゲーム=プレイヤーの好きなゲームではない。それどころか、自分のようにゲームが好きな人間の方が圧倒的に珍しい。そしてゲームを知っているからといって、エライわけでもないし、ゲームがうまいからといってエラいわけでもない。
この単純な、だけど意識するのは難しい理屈を理解していて「プレイヤーの目で見られるのか?」だ。
これを理解せずに、ゲームを作るのは自殺行為だ。
わかっていたからといって、うまくプレイヤーの目で見られるかというと、それは難しいけれど、わかっていないのは本当にマズい。
わかっていないと「プレイヤーがこの面白さをわからないのは、売り方が悪い」だの「プレイヤーがこの面白さがわからないのは、プレイヤーの程度が低いからだ」と言ってしまうような、一人よがりなことになってしまう。
そうではない。
プレイヤーに面白さが伝わらないのは、自分のゲームが誰に受けて、その市場はどれぐらいあって、その人達は何ならわかって、どんな風にすれば伝わるのかを考えず、自分の作ったゲームが受けると勝手に思い込んでいた結果でしかない。
まとめると
ということに尽きるて、そして、デビュー作ではまず間違いなくこれが出来ないから、あるあるをやらかしてしまうのだ。
もちろん何年経っても、これは簡単じゃない。
だいたい自分だって「できているのか?」と質問されたら「出来るように努力している」ぐらいしか言えないぐらい、難しいことだと思っている。
てなことを、良く会社の若いゲームデザイナーに言っているのだけど、そこに現れた本がとんでもなく素晴らしかった。
この本のほとんど冒頭にこう書かれている。
ここで書かれているプレイヤーは、もちろんいうまでもなく、自分のことではない。自分のゲームを遊んでくれるはずのユーザーのことだ。
これが大学のゲームデザインの教科書なんだから…参るよなあ。
「俺のさいきょーげーむ」を作って、売上未達、ユーザーの評価も散々で爆沈する。
というネタになり「あー俺はそれで社内のレビューで死んだ」だの「俺はさんざんだった」だので、みんなで笑い転げていた。
もちろん、僕もやった。
自分のプロのデビュー作の『凄ノ王伝説』は、まさしく「僕のさいきょーRPG」だった。
ただあるあると、少し違うのが売上と評価で、ラッキーなことに、当時(1988-89)はRPGブームのどまんなかで、しかもまだまだRPGは黎明期で、(ありがたいことに!)質も高くなく、そしてとりわけPCエンジンではRPGが少なかったのもあり、それなりの評価はもらえたし、売上もそれなりは出た(らしい)…とはいっても、出来たゲームそれ自体は、俺のさいきょーゲームでしかなかったのは間違いなく、ほんの少しあとに出たとか、ハドソン以外から出たとか、ちょっと条件が悪くなっただけで、売れなくなった作品だと思っている。
どうしてそんなことをやってしまうのか?
答えはとても簡単だと思っている。
ゲームを作ろうとする、作りたい人間がゲームの事を何も知らないなんてありえない。
だから「俺の考えた理想の(新しい)ゲームを作って、世に問いたい」となる。
ここまでは問題ない。
ところが当たり前だけど、世の中の一般の人はそんなに沢山ゲームをやっていない。だから、そもそも何が新しいのかも知らないし、仮に知っていても、別に新しいことをしたくない人も多い。一般的な配置から合理的な配置だと自分が思ったモノにメニューやボタンの配置を変えるだけで、バラバラ離脱が起きる世界なのだ。
つまり、たいていの場合新しいことは、市販されるゲームを作る上では、強力な武器とは言いがたいことが多い。
もちろん、新規性が売れ行きと評価のどちらにも繋がる例はあるけれど、それはマレな例で、たいていは無惨な失敗に終わることとなる。
第二に、第一の理由と似ているけれど、ちょっと違う内容。
自分の好きなゲーム=プレイヤーの好きなゲームではない。それどころか、自分のようにゲームが好きな人間の方が圧倒的に珍しい。そしてゲームを知っているからといって、エライわけでもないし、ゲームがうまいからといってエラいわけでもない。
この単純な、だけど意識するのは難しい理屈を理解していて「プレイヤーの目で見られるのか?」だ。
これを理解せずに、ゲームを作るのは自殺行為だ。
わかっていたからといって、うまくプレイヤーの目で見られるかというと、それは難しいけれど、わかっていないのは本当にマズい。
わかっていないと「プレイヤーがこの面白さをわからないのは、売り方が悪い」だの「プレイヤーがこの面白さがわからないのは、プレイヤーの程度が低いからだ」と言ってしまうような、一人よがりなことになってしまう。
そうではない。
プレイヤーに面白さが伝わらないのは、自分のゲームが誰に受けて、その市場はどれぐらいあって、その人達は何ならわかって、どんな風にすれば伝わるのかを考えず、自分の作ったゲームが受けると勝手に思い込んでいた結果でしかない。
まとめると
『ゲームデザイナーは作り手の視点で考えるのではなく、プレイヤーの視点で考え、作り手の目で見るのではなく、プレイヤーの目で見なければならない』
ということに尽きるて、そして、デビュー作ではまず間違いなくこれが出来ないから、あるあるをやらかしてしまうのだ。
もちろん何年経っても、これは簡単じゃない。
だいたい自分だって「できているのか?」と質問されたら「出来るように努力している」ぐらいしか言えないぐらい、難しいことだと思っている。
てなことを、良く会社の若いゲームデザイナーに言っているのだけど、そこに現れた本がとんでもなく素晴らしかった。
この本のほとんど冒頭にこう書かれている。
ゲームデザイナーの役目は、まず何よりプレイヤーの擁護者であることです。ゲームデザイナーはプレイヤーの目を通してゲームの世界を見なければなりません。これは簡単に聞こえますが、この概念がいかに多くの場面で無視されるかを知ると驚くでしょう
ここで書かれているプレイヤーは、もちろんいうまでもなく、自分のことではない。自分のゲームを遊んでくれるはずのユーザーのことだ。
これが大学のゲームデザインの教科書なんだから…参るよなあ。
|| 18:03 | comments (1) | trackback (x) | △ ||
コメント
このへんは受け手と作り手の関係としてゲームに限らない話かもしれませんね。
文中にはフォローないですが、商業的成功を狙っていない(ある意味での)独りよがりに突っ走る奴らの存在も、実はけっこう重要だと思います。
文中にはフォローないですが、商業的成功を狙っていない(ある意味での)独りよがりに突っ走る奴らの存在も、実はけっこう重要だと思います。
| Shodan | EMAIL | URL | 15/09/10 03:29 | CGX6yUu6 |