CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
<<  2024 - 11  >>

PROFILE
同人誌 電子書籍版
Re:ゼロから始める
ゲームシナリオ


ライトニング伝説


さよならハドソン


ドラクエとFFと
ToHeart


誰得ゲームライフ


ときめきメモリアル
の時代

イースI・II製作メモ

頒布ページ
LINKS
NEW ENTRIES
CATEGORIES
COMMENTS
    イースⅠ・Ⅱ通史(3):『リグラス』から『ロマンシア』
  • タムロ (02/03)
    イースⅠ・Ⅱ通史(1):PC88MkⅡSRの発売
  • tamuro (01/05)
  • おお! (01/03)
TRACBACKS
OTHERS
SEARCH BOX
POWERED BY
POWERED BY
ぶろぐん
DESIGN BY
ブログンサポート

海外版イースを作ったとき、そして今
ふと思い出したので、書いておこうと思ったこと。

僕は1990年、ハドソンで海外版イースを1月から5月頭まで作ってみた。
1990年当時は、まだSNES(スーパーファミコンのアメリカ版)の時代ではなく、NES、Genesis(メガドライブ)の時代で、ここにPCエンジンはTG16(Turbo Grafx 16)という名前で割り込もうとしていた。
なんで16って名前がついているのかというと、当時は「8ビットより16ビットの方が速い」とか「性能がいい」といった、ソフト屋…いやコンピュータのことをまともに知っている人間からするとエーな信仰が一般にはあり(今はこれが動作クロックだったりコア数だったりするけどw)、それでGenesisが麗々しく16ビット! って宣伝をしていて、当然SNES(スーパーファミコン)は16ビットだといっていて(いやあれは結構ダメな16ビットだったけど)、ともかく16ビットが必要だというので、グラフィックスチップが16ビット処理のハードウェアだったので「Turbo Graphics 16」と、けっこーエーな宣伝をしていたわけだ。

僕はぶっちゃけ噴飯もののこんな宣伝をするぐらいなら「16ビットだから速度が速いなんてのはただの迷信だ」とかそういう啓蒙活動したほうがいいと思っていたけど、全く若かったと思うよ。今なら「16+8=24ビットでジェネシスより速い」ぐらいウソついたって、一般人は平気でだまされるよ、なんてシビアに思ってしまったりするw

もちろん、こんなアホくさい宣伝をすればジェネシスは対抗で16+16+8で、TG16より速いって宣伝してきたろうけれどw
数字の競争なんでそんなもんだ。マシンの真実は実際に使ったヤツだけが知っている。
そして、今も昔も全く変わらないが、数字を語りたがるマニアの大半は開発機やハードに実際にある制限や、起こるいろいろな問題といった本当のことなんて、何も知らない。


ま、そんなのはともあくとして、1989年末からTurboGrafx 16のCDROMを売ることになったのだけど、当時は…いや、今でもかもしれないけれど、日本では人気があった天外1のようなコマンドRPGは手間の割には受けない…ということで、イースの海外版を頼まれたのだろうと思っている。まあ、このあたりは推測。
ともかく、イースの移植が終わった直後に海外版を頼まれた、というのは間違いない。まあこれまた23年前の記憶なわけだけどw

じゃ、どんな移植やってたのかというと、テキストを直す時間が1-2月のほぼ2ヶ月、コードを直す時間が並行して1ヶ月程度のあわせて2ヶ月ほどのプロジェクトだった。つまり移植はテキストローカライズをしたJohnとコードを(一部)書き直した僕の二人で作られ、一度録音にロサンゼルスに行った以外はコストのかからない2ヶ月ほどの仕事だったのだから、まったく効率のいいプロジェクトだったと思う。
ちなみにコードの直しは、例のバグを直したのと、頭にちょっとNECの文字入れたり、フォント周りの処理を修正したり(イースのPCエンジン版はなんとテキストフォントを選択することができるw)、スタッフロールの修正したりしたこと。あとは徹底的にバランスを直したこと。ともかくボスとザコのバランスをとことん直した。

なんにしても作業量は2か月分だったのだけど、実際にマスターアップしたのは4月の終わり、GW前だった。
いったい何をしてたんだ? といいたくなるけど、このうちのほとんどは待ち時間だった。
待ち時間とは何かというと、ぶっちゃけるなら「シナリオを各種の団体がチェックする時間」だ。
当時はESRBがなかったので、あらゆる政治的に面倒を起こしそうな団体にメーカーが個別でテキスト(とゲーム自体)をチェックしてもらう、実に非能率な方法で修正してもらっていた。
チェックの内容はというと差別的要素はないか…政治的に正しくない表現がないか(つまり公には基本的に使わない方が良いとされている言葉)、グラフィックにやばいものはないか…宗教的によろしくない何かはないかなど。

当時はインターネットがないから、まず最初に全部のテキストをプリントしてFAXで送り、テキストを修正したあと、今度はディスクをアメリカに送り、グラフィックに問題がないか、各所でチェックしてもらったわけだ。
今はこの手のチェックシステムはすべてシステムになっていて、もうぶっちゃけ最初から最後までオートマチックに近いところまで出来上がっているけれど、この当時は何もかも手作り感あふれている…というと聞こえはいいけれど、現実的には、ただただ面倒くさいだけだった。
で、これで直されたところで結構大きかったのが、ラミアの村の武器屋。
ビキニアーマーだったのを「女性がこんな格好で差別的な仕事をすることはまかりならーん!」ということで、山口もとの手を借りて、ローブに服装が変化することになった。
当時はまだ女性の社会進出が中途半端で、そういうところまで目くじらを立てられてしまったわけだ。今なら逆に無修正で通った内容だよな、と思う。

結局、海外版イースの移植は、約3ヶ月ぐらいは延々待ち時間をやっていたわけで、今なら余裕で1ヶ月で終わるのになと考えると、インターネットとシステムの整備はすべてを変えたよなあと思ってしまうのだ。

そういえば、1990年の4月20日版、つまりTurboGrafx16版のマスターも僕はちゃんと持っていた事実が判明した。今はNZなのでプレイ不可能なのだけど、日本に帰ったときにでもスクリーンショットを撮って出したいと思っている。
|| 19:06 | comments (0) | trackback (0) | ||

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント
この記事のトラックバックURL :
トラックバック