2010-10-04 Mon [ 昔のこと ]
iphone版のR-TYPEをプレイして血管がキレそうになったとき思い出したPCエンジン版の話。忘れないうちにツイートしたのに付け加えてブログ化。
PCエンジン版のR-TYPE1/2は、当時のハドソンのエースプログラマの1人、和泉さんが率いていたチームが移植している。このチームはアーティストを一部入れ替えただけで、次にネクタリスを作った。
サブプログラマが2人いたんだけど、そのうちの1人は、ネクタリスの後で企画寄りに異動して、イース1・2の手伝いをして、さらにぎゃんぶらぁ自己中心派の管理をすることになり、その後もディレクターって名前で結構ハドソンのゲームに出ていたんだけど、今はナニをしているか知らない。けっこー仲良かったんだよね。
で、僕は、和泉さんチームが実質お休みでネクタリスの企画のためにいろんなSLGを研究していたとき、ちょうどハドソンに行って仕事を始め、フツーの人よりはボードゲームやSLGのことを知っていたのもあって仲良くなっていたので、R-TYPEの話を和泉さんを始め、チームの連中からイロイロ聞けたわけだ。
移植に関しては、和泉さんは「オリジナルと全く同じプレイが出来る」を目標に移植した。だからアーケードの攻略パターンは完璧に使える…つっか、暴走(ハングアップ)以外のバグまで含めて移植されている。和泉さんは本当はハングアップおよびゲームが進行しなくなるバグまで移植したかったらしいのだけど、それだとユーザーが許さないだろうから諦めたといっていた。
当時のカードの容量の都合でパート1と2に分かれたけれど、移植としてはほぼ完璧だと思う。つっか、あれ以上の移植はムリ。
ところで、ほぼ完璧なPCエンジン版の移植だが、2つ、和泉さんがオリジナルから移植しなかったものがある。
一つが処理落ち。当時のゲームは描画とプログラム内部の処理が完全に同期していたので、一定以上(16.7ミリ秒ほど)処理に時間がかかると、速度が2倍になる現象が発生した。
具体的な書き方をすると、弾が多くなったり、敵が多くなったりするとゲームの進行速度が落ちる現象だ。
これを当時の開発者は「スロー」とか「処理落ち」とか「Vまたぎ」とか呼んだのだが、PCエンジン版はアーケードで処理落ちするところで処理落ちしない。
PCエンジンが当時のゲームマシンとしてはかなり高速で、かつ和泉さんの技術が優れていたから出来たことで、もちろんすばらしいことだが移植としてはどうなんだというので、和泉さんは「処理落ちを意図的に起こすべきか」で悩んだらしい。
結局、遅くするのは我慢できないということで、やめた、といっていた。
そしてもう一つ移植しなかったのが、アドバタイズデモ(電源を入れて放置しておくと行われるゲームプレイデモ)だ。
和泉さんはアーケード版のデモがかっこ悪いのが我慢できなくて、プレイデモは全部ハドソンで収録したものを使っている(実際、僕に「アーケードのデモはさ、全然やる気がなくてひどいんだよね」って言っていた)。
…上で、収録と書いたが、実際はどのようにしてデータを作ったのかというと、開発機の上で「プレイデータ」をいわば録画できるようにして、それでプレイしてもらうことで作ったわけ。乱数の全く入っていないシューティングだからやれる技だ。
プレイしたのはアーティストの角谷君。超越的にシューティングのうまい男で、ブッチーと並ぶハドソンのシューティングゲーマーだった。
彼の作ったデモはとてもスバラシイ出来で、R-TYPE1の4面のデモとか、R-TYPE2の6、7面(2では2、3面目)のプレイデモとか、超見る価値あるのでお勧め。特に7面デモは復活パターンの見本のような華麗なプレイなので、ぜひ一度見て欲しいと思ってしまう。
ちなみに、角谷君曰く、R-TYPEは残り何バイト単位でメモリが数えられるぐらいメモリがなく、アドバタイズデモもデータを圧縮していれるような状態で「メモリないから弾撃つな」だの「あまり動くな」だのと無茶苦茶いわれ、ものすごく作るのは大変だったらしい。
それでも最初に作った7面のデモをしばらく見ているうちに「ここ抜けられるんじゃないか」って話になり、再度やり直した…なんて、まあゲームが好きでなければ絶対にないエピソードもあったりする。
ちなみにR-TYPEはハドソンで一番シューティングの下手な男と言われたアーティストの松田君(後に天外2で一緒に仕事をすることになる。色使いのシャープなドットを打てるハドソンでは珍しいタイプだった)も一周クリアしている。
R-TYPEは反射神経よりも攻略を覚えるほうが重要なゲームだということが良くわかるエピソードだ。
ところで、今だから、バラしちゃっていいと思うが、R-TYPEのカード版は、実はPCエンジンでは許されないモードを使っている(原理的には可能だけど使ってはいけません、という意味)。PCエンジンでは320ドットモードではスプライトが16個並ぶ設定を使ってはいけなくて、スプライトが並ぶ数は最大14個までになる。
なぜかというと16個並ぶ設定にするとVRAMのアクセスタイムを超えるスピードで駆動する、今でいうオーバークロック状態になり、動作保証できないからダメだったのだが、そんなことを知らない和泉さんのチームは、使ってしまったわけ。
発売されてから、NECが知るところになり「知らなかったし、出ちゃったからしょうがない、これだけ特例だけど、もうやっちゃダメ」とものすごく釘を刺され、以降、あらゆるROMがそうなっていないかNECがチェックするようになったという曰くつきの代物だったりする。
そして、この14個制限には320ドットモードを遣ったイースは結構悩まされ、技術の頭目だった野沢さんに「あのさー普段は14個モードで、危ない!ってなったら、16個モードにブーストするってのはダメ?」って聞いたら、思い切り「ダメッ!」と言われた。
と、余談もあったがだ、松田君すらクリア出来るR-TYPEだが、畏友、桝田さんは、1面の最初のザコの撃つ一発目の弾に吸い込まれるように近づき、当たれる男だ。初めて見たときには腰を抜かしました…というような話をツイートしたら、これに対して桝田さんがつけたオチ。
まじで笑った、会社で爆笑しちゃったよ。
PCエンジン版のR-TYPE1/2は、当時のハドソンのエースプログラマの1人、和泉さんが率いていたチームが移植している。このチームはアーティストを一部入れ替えただけで、次にネクタリスを作った。
サブプログラマが2人いたんだけど、そのうちの1人は、ネクタリスの後で企画寄りに異動して、イース1・2の手伝いをして、さらにぎゃんぶらぁ自己中心派の管理をすることになり、その後もディレクターって名前で結構ハドソンのゲームに出ていたんだけど、今はナニをしているか知らない。けっこー仲良かったんだよね。
で、僕は、和泉さんチームが実質お休みでネクタリスの企画のためにいろんなSLGを研究していたとき、ちょうどハドソンに行って仕事を始め、フツーの人よりはボードゲームやSLGのことを知っていたのもあって仲良くなっていたので、R-TYPEの話を和泉さんを始め、チームの連中からイロイロ聞けたわけだ。
移植に関しては、和泉さんは「オリジナルと全く同じプレイが出来る」を目標に移植した。だからアーケードの攻略パターンは完璧に使える…つっか、暴走(ハングアップ)以外のバグまで含めて移植されている。和泉さんは本当はハングアップおよびゲームが進行しなくなるバグまで移植したかったらしいのだけど、それだとユーザーが許さないだろうから諦めたといっていた。
当時のカードの容量の都合でパート1と2に分かれたけれど、移植としてはほぼ完璧だと思う。つっか、あれ以上の移植はムリ。
ところで、ほぼ完璧なPCエンジン版の移植だが、2つ、和泉さんがオリジナルから移植しなかったものがある。
一つが処理落ち。当時のゲームは描画とプログラム内部の処理が完全に同期していたので、一定以上(16.7ミリ秒ほど)処理に時間がかかると、速度が2倍になる現象が発生した。
具体的な書き方をすると、弾が多くなったり、敵が多くなったりするとゲームの進行速度が落ちる現象だ。
これを当時の開発者は「スロー」とか「処理落ち」とか「Vまたぎ」とか呼んだのだが、PCエンジン版はアーケードで処理落ちするところで処理落ちしない。
PCエンジンが当時のゲームマシンとしてはかなり高速で、かつ和泉さんの技術が優れていたから出来たことで、もちろんすばらしいことだが移植としてはどうなんだというので、和泉さんは「処理落ちを意図的に起こすべきか」で悩んだらしい。
結局、遅くするのは我慢できないということで、やめた、といっていた。
そしてもう一つ移植しなかったのが、アドバタイズデモ(電源を入れて放置しておくと行われるゲームプレイデモ)だ。
和泉さんはアーケード版のデモがかっこ悪いのが我慢できなくて、プレイデモは全部ハドソンで収録したものを使っている(実際、僕に「アーケードのデモはさ、全然やる気がなくてひどいんだよね」って言っていた)。
…上で、収録と書いたが、実際はどのようにしてデータを作ったのかというと、開発機の上で「プレイデータ」をいわば録画できるようにして、それでプレイしてもらうことで作ったわけ。乱数の全く入っていないシューティングだからやれる技だ。
プレイしたのはアーティストの角谷君。超越的にシューティングのうまい男で、ブッチーと並ぶハドソンのシューティングゲーマーだった。
彼の作ったデモはとてもスバラシイ出来で、R-TYPE1の4面のデモとか、R-TYPE2の6、7面(2では2、3面目)のプレイデモとか、超見る価値あるのでお勧め。特に7面デモは復活パターンの見本のような華麗なプレイなので、ぜひ一度見て欲しいと思ってしまう。
ちなみに、角谷君曰く、R-TYPEは残り何バイト単位でメモリが数えられるぐらいメモリがなく、アドバタイズデモもデータを圧縮していれるような状態で「メモリないから弾撃つな」だの「あまり動くな」だのと無茶苦茶いわれ、ものすごく作るのは大変だったらしい。
それでも最初に作った7面のデモをしばらく見ているうちに「ここ抜けられるんじゃないか」って話になり、再度やり直した…なんて、まあゲームが好きでなければ絶対にないエピソードもあったりする。
ちなみにR-TYPEはハドソンで一番シューティングの下手な男と言われたアーティストの松田君(後に天外2で一緒に仕事をすることになる。色使いのシャープなドットを打てるハドソンでは珍しいタイプだった)も一周クリアしている。
R-TYPEは反射神経よりも攻略を覚えるほうが重要なゲームだということが良くわかるエピソードだ。
ところで、今だから、バラしちゃっていいと思うが、R-TYPEのカード版は、実はPCエンジンでは許されないモードを使っている(原理的には可能だけど使ってはいけません、という意味)。PCエンジンでは320ドットモードではスプライトが16個並ぶ設定を使ってはいけなくて、スプライトが並ぶ数は最大14個までになる。
なぜかというと16個並ぶ設定にするとVRAMのアクセスタイムを超えるスピードで駆動する、今でいうオーバークロック状態になり、動作保証できないからダメだったのだが、そんなことを知らない和泉さんのチームは、使ってしまったわけ。
発売されてから、NECが知るところになり「知らなかったし、出ちゃったからしょうがない、これだけ特例だけど、もうやっちゃダメ」とものすごく釘を刺され、以降、あらゆるROMがそうなっていないかNECがチェックするようになったという曰くつきの代物だったりする。
そして、この14個制限には320ドットモードを遣ったイースは結構悩まされ、技術の頭目だった野沢さんに「あのさー普段は14個モードで、危ない!ってなったら、16個モードにブーストするってのはダメ?」って聞いたら、思い切り「ダメッ!」と言われた。
と、余談もあったがだ、松田君すらクリア出来るR-TYPEだが、畏友、桝田さんは、1面の最初のザコの撃つ一発目の弾に吸い込まれるように近づき、当たれる男だ。初めて見たときには腰を抜かしました…というような話をツイートしたら、これに対して桝田さんがつけたオチ。
だが、広告の取材と称して大阪のアイレムまでわざわざ行って、さも全面クリアしたかのごとく調子よく話を合わせて開発スタッフを喜ばせて、おまけに北の高級クラブで接待までしていただいたのは僕だw
Twitterの元発言
Twitterの元発言
まじで笑った、会社で爆笑しちゃったよ。
2010-09-15 Wed [ 昔のこと ]
いつか書くと書いていたが1987年にどうして僕が斉藤由貴さんと一度会ったことがあるのかという話。
ついでに、どうして自分がゲームのプロになったのかについても書きたい。
1987年初頭、僕は、初めて就職した会社でCD-iの開発に従事していたが、ウンザリしはじめていた。
僕が若いころコンピュータでやりたいことが3つあった。一つがシステム関係のソフトを書くこと。つまりシステム屋になること。2つめがCG関係の仕事をすること。3つめがゲームを作るプロになることだった。
最初の2つは松下無線研究所のバイトと、最初に勤めた会社でかなり納得していたが、反面、限界も感じていた。
なによりアメリカで仕事をしたとき、一緒に仕事をしたメインプログラマのロバート・ドジェットとボブ・ソレンセンって二人の余りの凄さに打ちのめされていた。
彼らより着想が面白いところや、違う切り口で勝負することは出来たけど、ことプログラムでは勝負にならなかった。実際、自分はゲーム屋になってからも発想や様々なアイディアで暮らしてきたし、技術のことが分かりゲームデザインもできる人間として珍しいだけで、技術は凡庸だと思っている。
つまり、なんで自分が最初の会社にいたのかというと、システム屋を続けてもベスト10に入ることも出来ないのは明らかだったけれど、CD-iはシステムプログラムに対する欲を満足させると同時にゲーム(+映像)も作れそうだったので付きあっていたわけだ。
だけどCD-iはハードの細かな仕様が決まるに従ってどんどん自分をガッカリさせるハードになりつつあった。
スクロールゲームやアクションゲームはとても作れそうになく、それを指摘しても「マルチメディアマシンとゲームマシンは違う。マルチメディアマシンはファミコンみたいなチャチなもんじゃない」という、わけのわからない主張しか聞けなかった。
作っている側はファミコンやアーケードを子供のオモチャとバカにしてたけど、僕は少なくともファミコンのゲームをCD-iじゃ作れないのは明らかだったし、スプライトのダメさ加減からMSX2クラスのゲームも難しいと思っていた。
そしてCD-iのデバイス的な特性から、絵のきれいなアドベンチャ以外を作るのは難しいと考えていた(この予想は結構正しくて、このあとMacで大評判になったMANHOLEなどがその流れだった)。
特にスプライトについては致命的で、たったの1個しかスプライトがなく(しかも一色!)、画面は全部書き換えするしかない。
おまけに画面モードによっては画面書き換えが非常に難しく、ゲームを作るとしたら使い物になるモードは一個しかなく、そのモードを使うと今度はストリーミングアニメーション(今で言うムービー)が出来ないオマケつき。レイヤーを複数もつことが出来たり、水平帰線期間にVDPに対するコマンドが発行できたりと、面白いところはあったけれど、正直ゲームには使い物にならないのは明らかだった。
僕はMSXのVDP9918でスプライトの威力を知っていて、スプライトを利用して書かれたゲームを88にインポートしたことがあったせいであるとないとでどんだけ違うかを死ぬほど良く知っていたので「ファミコン程度とバカにしているが、そのファミコン程度のゲームも出来ないよ!」と思って、腹立たしいだけだった。
続きを読む▽
ついでに、どうして自分がゲームのプロになったのかについても書きたい。
1987年初頭、僕は、初めて就職した会社でCD-iの開発に従事していたが、ウンザリしはじめていた。
僕が若いころコンピュータでやりたいことが3つあった。一つがシステム関係のソフトを書くこと。つまりシステム屋になること。2つめがCG関係の仕事をすること。3つめがゲームを作るプロになることだった。
最初の2つは松下無線研究所のバイトと、最初に勤めた会社でかなり納得していたが、反面、限界も感じていた。
なによりアメリカで仕事をしたとき、一緒に仕事をしたメインプログラマのロバート・ドジェットとボブ・ソレンセンって二人の余りの凄さに打ちのめされていた。
彼らより着想が面白いところや、違う切り口で勝負することは出来たけど、ことプログラムでは勝負にならなかった。実際、自分はゲーム屋になってからも発想や様々なアイディアで暮らしてきたし、技術のことが分かりゲームデザインもできる人間として珍しいだけで、技術は凡庸だと思っている。
つまり、なんで自分が最初の会社にいたのかというと、システム屋を続けてもベスト10に入ることも出来ないのは明らかだったけれど、CD-iはシステムプログラムに対する欲を満足させると同時にゲーム(+映像)も作れそうだったので付きあっていたわけだ。
だけどCD-iはハードの細かな仕様が決まるに従ってどんどん自分をガッカリさせるハードになりつつあった。
スクロールゲームやアクションゲームはとても作れそうになく、それを指摘しても「マルチメディアマシンとゲームマシンは違う。マルチメディアマシンはファミコンみたいなチャチなもんじゃない」という、わけのわからない主張しか聞けなかった。
作っている側はファミコンやアーケードを子供のオモチャとバカにしてたけど、僕は少なくともファミコンのゲームをCD-iじゃ作れないのは明らかだったし、スプライトのダメさ加減からMSX2クラスのゲームも難しいと思っていた。
そしてCD-iのデバイス的な特性から、絵のきれいなアドベンチャ以外を作るのは難しいと考えていた(この予想は結構正しくて、このあとMacで大評判になったMANHOLEなどがその流れだった)。
特にスプライトについては致命的で、たったの1個しかスプライトがなく(しかも一色!)、画面は全部書き換えするしかない。
おまけに画面モードによっては画面書き換えが非常に難しく、ゲームを作るとしたら使い物になるモードは一個しかなく、そのモードを使うと今度はストリーミングアニメーション(今で言うムービー)が出来ないオマケつき。レイヤーを複数もつことが出来たり、水平帰線期間にVDPに対するコマンドが発行できたりと、面白いところはあったけれど、正直ゲームには使い物にならないのは明らかだった。
僕はMSXのVDP9918でスプライトの威力を知っていて、スプライトを利用して書かれたゲームを88にインポートしたことがあったせいであるとないとでどんだけ違うかを死ぬほど良く知っていたので「ファミコン程度とバカにしているが、そのファミコン程度のゲームも出来ないよ!」と思って、腹立たしいだけだった。
【注】どうしてゲームを作りたいと思ったのか? については夢のスタートレックでも読んで欲しい。「どうしてゲームが作りたいと思ったの?」と聞かれたとき「スタートレックがしたかったから」以上の説明を僕は出来ない。
じゃあ、どうしてスタートレックがやりたかったの? と聞かれたら、それは自分がスタートレックファン(TOS)でSFファンだったからで、幼稚園に行く前に「ペルシダーのぼうけん(オールひらがなの自分が読んだ一番最初の方の本なのは確か)」を読み、小学生の前半で「惑星ソラリスの秘密」だの「空中海賊株式会社」だのにハマり、小学校4年の時にはSF文庫に手を出して…とSFファンであり続けているから…としか言えない。つまり、生まれ育ちの様々な選択の結果、スタートレックはなにがなんでもプレイしたいゲームだった、ということだ。
そして当時、スタートレックをプレイするためには、APPLE][を買えるお大尽でもなければ、自分でプログラムを作る(もしくは著名なモノから移植する)しかなかった(市販のプログラムは実質存在しなかった。あえて書くなら雑誌や書籍に載っているソースコード)。だからプログラムの勉強をせざるを得なかったし、遊べるようになったスタートレックも自分で移植したものだった。もちろんスタートレックを作ったときはプログラムも(ある程度)書けるようになっていた。プログラムが書けるということは、他のゲームも作れるし、作っていたし、実際、いつでも作りたかった(今でも作りたい。小さいのも大きいのもいっぱい)。
じゃあ、どうしてスタートレックがやりたかったの? と聞かれたら、それは自分がスタートレックファン(TOS)でSFファンだったからで、幼稚園に行く前に「ペルシダーのぼうけん(オールひらがなの自分が読んだ一番最初の方の本なのは確か)」を読み、小学生の前半で「惑星ソラリスの秘密」だの「空中海賊株式会社」だのにハマり、小学校4年の時にはSF文庫に手を出して…とSFファンであり続けているから…としか言えない。つまり、生まれ育ちの様々な選択の結果、スタートレックはなにがなんでもプレイしたいゲームだった、ということだ。
そして当時、スタートレックをプレイするためには、APPLE][を買えるお大尽でもなければ、自分でプログラムを作る(もしくは著名なモノから移植する)しかなかった(市販のプログラムは実質存在しなかった。あえて書くなら雑誌や書籍に載っているソースコード)。だからプログラムの勉強をせざるを得なかったし、遊べるようになったスタートレックも自分で移植したものだった。もちろんスタートレックを作ったときはプログラムも(ある程度)書けるようになっていた。プログラムが書けるということは、他のゲームも作れるし、作っていたし、実際、いつでも作りたかった(今でも作りたい。小さいのも大きいのもいっぱい)。
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